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第1話 王子様は、僕の枕を抱いていた

教室で『王子様』と呼ばれている女の子が、家では僕の枕を抱きしめて寝ている。


そんなことを、誰に話せるだろう。


放課後の廊下は、帰宅する生徒と部活へ向かう生徒が入り交じって、いつも少し騒がしい。僕は文庫本を読みながら歩いていた。視界の端は意外と見えるものだ。


廊下の角を曲がろうとして、足が止まった。


月城(つきしろ) 桃愛(もあ)が、後輩女子三人に囲まれていた。

震えた声で、白い封筒が差し出される。月城は、両手でそれを受け取った。目を伏せて、ゆっくりと。

両手で受け取る。月城のいつもの所作だ。乱暴に断らない。でも、開けない。

「ありがとう。でも、ごめん。僕は今、誰かと付き合うつもりはないんだ」

低く、落ち着いた声。

後輩女子が「は、はい……分かってます……分かってますけど……」と涙目になる。

「気持ちは嬉しい。本当に」

『気持ちは嬉しい』──ここまで言うのも、いつも通り。月城は優しいから、必ず最後に一言付け加える。

後輩女子たちが去っていく。

月城が小さく息を吐いた。

一瞬だけ、肩が落ちた。次の瞬間には、もう元に戻っていた。


文庫本のページが、めくれていなかった。

ふと顔を上げると、月城も顔を上げるところだった。

目が、一瞬合いそうになった。

月城は、目を逸らした。

逸らし方が、不自然だった。廊下の壁、誰もいない方向。視線の角度が、本来なら自然に左に流れるはずなのに、今だけ、右に強引に振られた。

普段の月城は、こんな逸らし方はしない。

月城は、また前を向く。何事もなかったように。


学校では、僕たちは喋らない。決まりなんだ。

ただ、今のは、何だろう。


弁当を二つ買った。

半年前は一つだった。


家に帰ると、玄関にローファーが片付けられていた。

月城は、家に帰ったら着替える。学校の制服から、彼女が『月城さん』じゃない、ただの『もあ』になるための服に。


リビングには誰もいなかった。キッチンのカウンターに、置き手紙が一枚。


 もあちゃん、レンくん、明日から3日間ロンドンだから♡

 冷蔵庫の卵、ちゃんと使い切ってね!

 ──ママ


奈緒さんは、今夜のうちにフライト前泊か。父さんは、いつも通り単身赴任。

じゃあ今夜から3日間、また二人だな。


弁当を冷蔵庫に入れて、階段を上がった。もあの部屋は、隣だ。帰ってきてるなら、隣の部屋から音がするはず。

だけど、静かだ。

自分の部屋のドアノブに、手をかけた。


ドアを開けたら、もあがいた。


ベッドの上に座って、枕を抱きしめていた。頬を埋めていた。何か、小声で呟いていた。


「んふふ……すーはー…レ…君の枕……」


いや。


聞こえた気がしただけだ。たぶん。

そのままそっとドアを閉めようとした。


もあが、もう一度だけ、小さく息を吐いた。

「……レン君……」

手が、止まった。

いま、確かに、僕の名前を呼んだ。


『レン君』と。


家でも一度も、彼女から、その名前で呼ばれたことはないのに。

ドアがわずかにきしんだ。

もあが、ガバッと顔を上げた。


目が、合った。


数秒間、無音だった。


月城の顔が、見たことのない速さで赤くなる。


「あ、、」


月城が、慌てて枕を放そうとした。焦って逆に強く抱きしめた。枕がぐにゃっとなった。月城は、それをクッションを試しているかのように扱おうとした。ぎこちなく床に置いた。やっぱり拾い直した。結局、膝の上に置いた。


膝の上の枕を、じっと見ている。



「あ、その……お兄さん。これは、枕の、感触の、確認を……部屋、間違えて……その……」


自分を保とうとしているが、語尾が震えている。

もあの視線が左、右、左、右--まるでルーレットのように目が泳いでいる。


────


(死んだ。

 今、私、社会的に死んだ。

 レン君の枕、抱きしめてた。

 匂い、嗅いでた。

 あまつさえ『レン君』って呟いてた。

 聞こえた?

 聞こえてないでよろしくお願いします神様)


────


「枕の、ふっくらさの、研究、していて……ですね……」


「ち、違うんです、これは、その、洗剤の、香りの、研究で、お母さんが、海外のお土産で、変な洗剤を、買ってきて……いや、買ってきてない、嘘です、忘れてください、ほんとは部屋間違えて! いま私、頭の中真っ白──っ」


もあは枕に顔を埋めて「うー……」と唸った。


僕は、ふっと息を吐いた。


気のせいだ。家族として、新しい環境に慣れようとしてるだけだ。たまたま、僕の部屋が気になっただけだろう。


たまたま。


「……枕、戻しといて」


────


(レン君……何も、聞かなかったフリ、してくれた……

 ありがとう、ありがとうございます……)


────


もあは、こくこくと頷いた。

僕は何事もなかったように部屋を出て、ドアを閉めた。


リビングで、弁当を温めようとして、手が止まった。

月城は、家では、僕のことを『お兄さん』と呼ぶ。


でも、


『レン君』と呼ばれたことは、まだ、一度もない。


なのに、なんで、僕が部屋にいない時、

僕の枕を抱いて、『レン君』と呼んでいたんだろう?


いや。

空耳だ。


たぶん。

(たぶん、空耳なんだ)


冷蔵庫を閉めた。

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