第一話 その次の席
会場は静かだった。
静か、というより、音を飲み込んでいる感じがした。
人はいる。椅子が引かれる音も、盤の横で記録用端末を操作する音も、遠くではしている。けれど登棋戦の予選会場には、それらをひとつにまとめて薄くする膜みたいなものがあった。
朝倉湊は、対局席の札をもう一度見た。
名前は間違っていない。段位も、所属も、記載ミスはない。見なくても分かっていることを確かめたのは、それ以外に視線の置き場がなかったからだ。
十六歳、新初段。
悪くはない、と思う。少なくとも、自分よりずっと下だと見られる場所ではない。けれど、胸を張れるほどでもなかった。
盤の向こうには、まだ誰も座っていない。
そのさらに向こう、二台の専用機が盤面をはさんで無言で待機している。先手AIと後手AI。大会貸与の同一仕様。条件は全員同じ。そこに差はない。
差が出るのは、その次だ。
先手AIが打つ。後手AIが打つ。
そのあとで、先手人間の番が来る。さらに後手人間が続く。
誰にも評価値は見えない。勝率も候補手も見えない。ただ、そこに実際に置かれた石だけが残る。
湊は、そのルールを初めて聞いたとき、残酷だと思った。
AIがどんな理由でそこへ置いたのかは分からない。止めることもできない。ただ、そのあとを人間が引き受ける。
うまくいくときは、それでいい。
局面が前へ進む。自分も打てる。流れに遅れずに済む。
嫌なのは、そうではない盤だ。
受付を終えた棋士たちが、少しずつ席についていく。
年齢の近い者もいれば、そうでない者もいる。登棋戦は若手限定だが、その若手の中にある差は、段位の数字よりずっと見えやすいことがある。迷いなく座る者。対局前なのに、もう盤の温度を自分のものにしている者。
東雲朔がその一人だった。
少し離れた席に座った十九歳の五段は、特別な動作を何もしない。ただ椅子を引いて、記録端末の位置を確かめて、盤を見る。たったそれだけのことで、そこがもう東雲の対局席になってしまう。周囲の空気まで、その人間に合わせて整う感じがあった。
湊は視線を逸らした。
見ていると、自分の呼吸まで浅くなる。
「また逃げた」
声は、真横から来た。
振り向かなくても分かった。
藍原紗英だった。
「逃げてない」
「見て、すぐ外した」
「別に」
「別に、で済むなら楽でいいね」
それだけ言って、紗英は湊の隣の空いた席に手をかけた。
今日はその席ではない。対局表を見れば分かることなのに、わざわざそこに立つ。
湊はやっと彼女を見た。
細い。けれど細いだけではない。立っているだけで、次にどこへ踏み込むか決めている人間の重心をしていた。
「東雲さん見てたでしょ」
「見てない」
「嘘」
「……少し」
「少しじゃない」
紗英は小さく笑った。
笑っているのに、許している感じはしない。
「湊ってさ、強い人を見ると、すぐ自分の石を小さくするよね」
「そんなことない」
「ある」
「ない」
「ある。盤の上でも」
言い返そうとして、言葉が止まった。
盤の上でも、と言われると、止まる。
自覚があるからだ。
湊は、嫌な流れが来るのは分かる。
このまま打てば薄くなる、とか、この石は息が苦しい、とか、そういうことは見える。けれど見えるだけだった。その先で、じゃあ何を欲しがるのかが、自分でも曖昧なままのことが多い。
だから、強い相手の前では余計にそうなる。
失敗しないように打つ。壊れないように打つ。
盤を取りにいくのではなく、崩れないための手を選ぶ。
紗英は、それをずっと見抜いている。
「今日は予選一回戦だよ」
彼女は言った。
「分かってる」
「勝っても負けてもいいけど」
「よくないだろ」
「勝敗の話じゃなくて」
そこで紗英はいったん言葉を切った。
会場の前方で、開始時刻を告げるアナウンスが入る。空気が一段だけ張る。
「一手くらい、自分で欲しがりなよ」
それだけ残して、紗英は自分の席へ向かった。
湊は返事ができなかった。
開始の合図とともに、対局室の時間が動き出す。
着席。確認。盤面の初期設定。記録端末の同期。
向かいの席には、二つ年上の二段がいた。落ち着いた顔をしている。こちらを見ても、必要以上の感情を乗せてこない。
そして、先手AIが最初の一手を置いた。
右上だった。
黒石が交点に触れる、ごく小さな音。
その音だけで、盤が急に現実になる。
後手AIが応じる。
それを見て、湊はわずかに喉の奥が乾くのを感じた。
嫌な形、というほどではない。
まだ早い。たった二手だ。なのに、盤面の呼吸が自分より先に進んでいく感じがした。
先手人間、朝倉湊。
表示が出る。
湊は盤を見た。
右上。そこから右辺へ伸びていきそうな気配。まだ何も決まっていないのに、何かが先に始まっている。
嫌だ、と思う。
置いていかれる形だった。
自分が打つ前に、盤の会話が先へ進んでしまいそうな並び。受けそこなえば、息が浅くなる。
なら、どこがいい。
嫌なのは分かる。
じゃあ、どうしたい。
指先が止まる。
欲しい形が、まだ出てこない。
そのとき、不意に紗英の言葉がよぎった。
一手くらい、自分で欲しがりなよ。
湊は盤の右側を見た。
角を固め切る手ではない。すぐに安全になる手でもない。けれど、次に相手の形を窮屈にして、自分の呼吸を一つ残せる場所があった。
そこへ置く。
石が盤に触れた瞬間、正しかったとは思えなかった。
ただ、さっきまでより少しだけ、自分の手として置いた感じがあった。
相手が盤を見直す。
ほんのわずかだったが、その沈黙が湊には救いだった。
盤の上で、初めて相手に考えさせた。
そう思えたからだ。
まだ何も始まっていない。
たった序盤の一手だ。勝てるかどうかにも、たぶん直結しない。
それでも湊は、さっきより少しだけ深く息を吸えた。
会場の静けさは変わらない。
東雲の席も、遠くで変わらず整っている。
紗英が今どんな顔で打っているかは見えない。
けれど盤だけは、さっきより少し、自分のものだった。




