後日談② 装うということ
侯爵家の応接室。
やわらかな光がレース越しに差し込み、室内に静かな落ち着きをもたらしていた。
紅茶の香りがほのかに漂い、穏やかな午後の時間が流れている。
――だが、その空気の中に、ひとつだけ異質なものがあった。
「……男性用、ですか」
クラリスが、手元の書簡を見つめながら静かに呟く。
その表情はいつも通り整っている。
けれど、わずかに戸惑いが滲んでいた。
向かいに座るフェリシアは、何も言わずにその様子を見ている。
「“ドレスのようなものを、男性が着るために仕立ててほしい”……と」
クラリスは改めて読み上げる。
言葉にすることで、現実のものとして受け止めようとしているかのように。
「仕立て屋の者たちも、大変困惑しているようです」
当然だった。
これまで築いてきた“可愛い”は、あくまで女性の装いの中での革新だった。
それは既存の枠を広げるものではあっても、枠そのものを越えるものではなかった。
――少なくとも、そう思われていた。
「……クラリスは、どう思いますか」
フェリシアが静かに問う。
クラリスは少しだけ視線を伏せ、考える。
「正直に申し上げてよろしいでしょうか」
「ええ」
「……難しいかと」
その言葉は慎重だったが、はっきりしていた。
「男性の装いには、男性としての役割や品位がございます。
女性のドレスとは、その成り立ちも意味も異なります」
クラリスはゆっくりと続ける。
「ドレスは、女性だからこそ許される華やかさです。
それを男性が身にまとうとなると……」
言葉が、少しだけ途切れる。
「……“相応しくない”と見られる可能性が高いかと」
それは否定ではない。
ただ、現実を正確に見据えた言葉だった。
社交界という場において、“装い”は単なる好みではない。
立場、役割、評価――それらすべてと結びついている。
逸脱は、そのまま評価の揺らぎに繋がる。
フェリシアは、静かに紅茶を口にする。
カップを置く音が、小さく響く。
「……“相応しい”というのは、誰が決めているのでしょう」
ぽつりと落ちた言葉。
クラリスが顔を上げる。
「それは……社交界の慣習や、長く続いてきた価値観かと」
「慣習……価値観……」
フェリシアはその言葉をなぞるように繰り返す。
そして、ゆっくりと視線を窓の外へ向けた。
春の光。
風に揺れる庭の花々。
どれも、ただそこに在るだけで、美しい。
「私たちが作ってきた“可愛い”も、
最初は“相応しくない”と思われていたのではありませんか」
クラリスの目が、わずかに見開かれる。
確かに――そうだった。
フリルの重なり。
色彩の遊び。
感情を引き出す装い。
それらは当初、“過剰”や“奇抜”と見られていた。
だが今では、社交界の一部として受け入れられている。
「……それは、女性の中での話です」
クラリスは静かに返す。
「男性と女性では、前提が違います」
「前提……」
フェリシアは小さく頷く。
そして、クラリスの方へ視線を戻した。
「装いは、決まりで決まるものなのでしょうか」
その言葉は、穏やかだった。
だが、揺るがない芯を持っていた。
クラリスは、すぐには答えられなかった。
決まり。
慣習。
役割。
それらは確かに存在する。
だが、それは“絶対”なのかと問われると――
「……」
沈黙が、ゆっくりと広がる。
フェリシアは続ける。
「装いは、本来……その人がどう在りたいかを表すものだと思うのです」
指先でカップの縁をなぞりながら、言葉を紡ぐ。
「誰かに見せるためだけではなく、
自分自身のために選ぶもの」
「……」
「もしその選択が、“男性だから”という理由だけで制限されているのだとしたら」
そこで一度、言葉を区切る。
「それは、本当に必要なことなのでしょうか」
クラリスは、ゆっくりと息を吐く。
すぐに否定はできなかった。
けれど、すぐに肯定もできない。
それほどまでに、この問いは深かった。
「……フェリシア様は、その依頼をお受けになるおつもりですか」
静かな問い。
フェリシアは、少しだけ微笑む。
「まだ、わかりません」
即答はしない。
それが、この問題の重さを示していた。
「ですが――」
彼女の瞳に、かすかな光が宿る。
「考える価値は、あると思っています」
部屋の中に、再び静かな時間が戻る。
紅茶の香り。
春の光。
そして、言葉にならない思考。
クラリスは、手元の書簡をもう一度見つめる。
そこに書かれているのは、ただの依頼ではない。
これまで疑われることのなかった“前提”への問い。
「……装う、ということ……」
小さく呟く。
その意味は、これまでよりもずっと重く、そして広がりを持っていた。
窓の外では、風が花びらを揺らしている。
形も色も異なる花々が、同じ庭の中で咲いている。
その光景は、どこか示しているようでもあった。
“美しさ”が、ひとつではないことを。




