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桜花 夕暮れの約束  作者: みゃあ


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10/11

夕暮れの約束

第10話

それは、風の強い朝だった。

神栖の空には、どこか焦げたような金属の匂いが冷たく漂い、基地はまるで凍りついたように静まり返っていた。


茜は、あの日と同じ湖のほとりの小さな木のベンチに、肩をすくめて座っていた。

千寿はもうそこにはいない。

彼女の胸の奥は、ぽっかりと空洞になったままだった。

声にならない風のざわめきが、彼の声のように耳に響いた。

やわらかく、切なく、儚く――。


基地に新しい命令が下り、千寿たちは、誰にも告げられることなく、ふいに姿を消した。

どこへ行ったのか。何があったのか。

茜には何もわからなかった。

まるで、彼が最初からそこにいなかったかのように。

それが彼らの運命であり、千寿たちが背負った宿命だった。



---


時はゆっくりと過ぎていった。


茜は、長い間、彼から預かった和紙包みの手紙を開けられずにいた。

その中に入っているのは、千寿が必死に綴った、最後の言葉。

それを開けば、彼のいない現実を認めることになると思うと、胸が張り裂けそうだった。


しかしある夜、夜空の星が静かに瞬く中、茜は震える指でやっと封を解いた。


そこに書かれていたのは、彼の弱さと覚悟、そして深い愛だった。


――「茜へ。

僕はきっと、この先、何も残せずに消えていく。

言葉も、姿も、全部。

でも、どうか君には、僕の分まで生きてほしい。

笑ってほしい。悲しみの中にいても、どうか前を向いて。

僕は君の心の中で、ずっと生き続ける。

だから、頼む。生きて。僕の分まで、強く、優しく。


最後の時間を共に過ごせたことを、ずっと感謝している。

ありがとう。


千寿」


涙が止まらなかった。

涙はただ悲しいだけでなく、彼の声、彼の温度そのものが流れ込んでくるようだった。

茜は深く息を吸い込み、そして何度も何度もその手紙を読み返した。



---


戦争の影はまだ色濃く残り、日々の生活は決して楽ではなかった。


霞ヶ浦の小さな実家では、母の裁縫を手伝いながら、畑に出て雑草を抜き、収穫を待った。

家の隅で、小さな子どもたちに文字を教える日々。

たった数人の子どもたちだったけれど、その瞳は茜にとって新しい光だった。


彼らの笑顔を見るたびに、千寿の言葉を思い出し、胸がぎゅっと締めつけられた。


毎朝、朝露に濡れた庭の草を掃き、薄紫の朝顔のつるを結び直す。

窓から差し込む柔らかな光の中、茜は手紙をそっと胸に抱きながら、また新しい日を迎えた。


夕暮れには近所の人々と静かに話し、戦争の終わりを願い、けれど決して消えない傷跡を心に刻み込んだ。



---


そして、終戦の詔がラジオから流れた日、

茜は縁側で静かに座り、遠くの空を見つめていた。


涙はもう溢れなかった。

心の奥に、あの日の彼の声が灯り続けているから。


「あなたの分まで、生きる」


深く決意を固めた茜の足取りは、震えながらも確かだった。


あの夕暮れの約束は、

風の中で、神栖の水面で、いつまでも静かに息づいている。


透き通るような空の下、彼女は今日も歩み続ける。




春が来た。


桜が咲き始めたある日。


小さな駅の待合室で、茜はふと一冊の古びた日記を取り出した。


それは、彼との日々を綴った、静かな記録だった。


ページの端に、薄く書かれている。


> 「―夕暮れの約束」

あの空を、ふたりで見た。

だから、わたしは、きっと、大丈夫。




彼女の瞳は、にじんでいた。

けれどその笑みは、あたたかく、どこまでもやさしかった。


風が吹く。

茜は立ち上がり、空を見上げた。

そこには、雲ひとつない青空が広がっていた。


そして、彼女は歩き出す。

自分の足で、これからの人生を。


彼女はもう、泣かない。

彼が「生きろ」と言ったように、彼女は「生きて」いく。


どんなに時が過ぎても、

どんなに形が変わっても、

ふたりの約束は、夕暮れの空に、静かに息づいていた。



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