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吸血鬼はなぜ日常の謎を探し求めてしまうのか?  作者: 笹帽子
第3話 先輩はなぜ私のジャージで跳べるのか?
23/33

3-3

 私は毎日日記を書いているので、その日が小学校五年生の五月十日の湿った曇りの日だということを覚えている。


 その頃、私は春島IC周辺の地図の歪みを調べていた。数ヶ月調べて、新道と旧道を三ブロックごとに交互に辿ることを繰り返して布留(ふる)川と野洲(やす)川の合流地点に到着すると、霧に包まれた不思議な街に入れることに気づいた。

 その街は地図に載っていなかった。

 当時はスマートフォンの地図アプリなんて持っていなかったから、最初は地図の歪みの中で現在地の感覚がズレただけで、どこかにこの街が載っているのではと思って、紙の地図の上を色々と探した。けれど、見つからなかった。その街の街区表示板には何も書かれておらず、人も車も全く通らない。建物は質の悪い張りぼてのようで、窓や扉の硝子は悉く曇っていた。いつ訪れても常に薄暗く、青白い霧が全てを覆い隠し、視程は百メートルもない。太陽が見えず、けれども自分の足下だけが誘導灯のように仄かに明るい。音も光も吸い込んで、その霧は甘く私を誘っていた。

 これは、地図には載っていない、何か不思議な場所なんだなと私は納得した。

 さて国土地理院もこの街を地図に載せ忘れているのだとすると、私が記録するしかないと思い立った私は、手帳を構えたまま毎日のように霧の街を歩き回った。


 霧の街区の街路は等間隔で、いわゆる碁盤の目のように縦横に走っている。便宜上、布留川デルタから霧を抜けた際の開始地点を起点として、街路に番号を振った。碁盤の街、北海道は札幌になぞらえて、開始地点を創成川通りと大通りの交点とし、南を向いた状態からスタートしたものとする。私は数日をかけて東西南北の10までの範囲を歩き終えた。歩数から距離を概算して地図を書くに、マス目は札幌よりも小さそうだ。だがどこまでこの道が続いているのかは分からない。下手をすると永遠に続いていたり、あるいはいつの間にか元の場所に戻っていることだってあるかもしれない。私は、起点に家から持ってきた懐中電灯を光らせて置いておき、ずっと南に歩き続けてみた。どこかで懐中電灯の光る起点に戻ってくるかもしれないと思ったからだ。だが2時間歩いて南80まで行ったところで景色に変化はなく、ただ微かに霧が酸っぱくなっただけだった。私は諦めて引き返し、以降は起点を中心にぐるぐると渦巻きを描くようにして街路を探索していった。街路を辿るルートの選び方によって、布留川デルタや、そこから少しズレた河川敷に出られる法則をいくつか見つけた。それらを全て手帳に書き留め、私は歩き続けた。


 その日、五月十日に女の子と遭遇したのは、北3西6だった。

 北3西6は札幌で言えば道庁があるところだ。けれど別にそれと何か符合するでもなく、この霧の街では単なる交差点。どの交差点も見かけは変わらず、信号は灯っておらず、静かに啜り泣いている。

 その交差点のガードレールの上に、女の子は器用に立っていた。

 私よりも小さい子だった。私の背が最近急に伸びていることを差し引いても、三年生か、せいぜい四年生というところに見えた。グレーのパーカーが少し大きめで袖をダブつかせているのも小ささを際立たせていた。けれど、霧の向こうから現れたその子と目が合った瞬間、この子は自分よりもすごい存在だと、直感で分かった。

 完全に無人のこの街で、私は初めて自分以外の人間に会ったし、向こうがこちらを見る目からして、女の子にとっても私の存在は想定外だったようだ。霧が邪魔にならない距離まで近づいて立ち止まり、怪訝に思いつつも声をかける。

「こんにちは」

 異常な状況だからこそ出た、平凡な挨拶だった。

「お姉さん、普通の人間みたいだね」

「……は?」 

「いや、なんか異世界の管理人とか、怪異的なやつとか、そういうのが来るのかと思ったから」

 この女の子も普通の人間のようだけれど、その内容に反して余裕綽々な語り口はやはりただ者ではないと感じられた。

「そこで何してるの?」

 私はなんと言い返して良いのか分からず、浮かんだ疑問を口にした。さっきから女の子はガードレールの柱の上に立って、上手にバランスを取っている。分厚い底のスニーカーから覗く細い足首が器用に回る。

「迷っちゃって。ちょっと高いところから周りを見たいなと思ったんだけど」

 私も一通り観察したけれど、霧の街に立つ建物は中に入る方法はなさそうだった。高いところから視界を確保したくなる気持ちは分かるが、ガードレールの上に立ったくらいでは大して変わらない。それに、そもそも高さを確保したとしても根本的な問題がある。

「この霧じゃ、何も見えないんじゃない」

「そうなんだよねぇ。髪も爆発しちゃうし最悪だよ」

 そう言って女の子はモサモサした髪に手をやった。確かに湿度に弱そうな髪質だった。

「でもお姉さん、私よりここのこと詳しそうだね。春島に帰る方法、わかる?」

「別に詳しくはないけど……来た道を戻れば戻れるんじゃ」

「いや、来た道がよくわかんないんだよ。ちょっとその、喧嘩してイライラしてさ。普段歩いてないところを何も考えずに歩いてたら、迷っちゃって。それで気づいたらこの霧の中で」

「え、分からずに入ってきたの」

「分かっててこんな辛気くさいところに来たがる人いるの?」

 私は静かに衝撃を受けた。私が数ヶ月歩き回って、試行を繰り返してやっと発見したこの街への入り口を、この子は偶然に通ってきたというのか。だって、偶然に取るとはどう考えても思えないルート選びをしないとこの街にはたどり着けないはずなのだ。

「ここはなんなんだろう? どこかに行く途中なんだろうけど」

 こっちの驚きなど知らず、女の子は飄々と言った。

「どこか?」

「何かを隠している緩衝地帯って感じがしない? この露骨な霧。遠くが見えないから、本来の春島だったら北に見えているはずの山が分からないでしょ。だからどっちが北か分からない。それにやたら直角で同じ景色の道。方向感覚がなくなっちゃう。アレだよ、誘拐犯がアジトに帰る前にわざと遠回りして人質に距離感や方角を悟らせないやつ」

 私はもう一度頭を殴られたような衝撃を受けた。私はこの霧の街に来て、街路に番号を振って一本ずつ歩き回ってひたすらそれを記録してきた。()()()()()()()()()()()()()なんて考えたこともなかった。この子はそこから考え始めている。

 出発点が違い、着地点が違う。

 やっぱり私とは違う子だ。

 私が一歩一歩歩いている間に、それを飛び越えてしまえる子なんだ。

「ただいずれにせよ道っていうのはどこかに通じているからね、行く先があるんだろうとは思うけど……。あんまり招かれてる感じしないし、とりあえず私は帰りたいんだよね。もう頭は冷やし終わったし」

 そう言うとガードレールの上から、女の子がこちらを覗き込むように言った。

「だから話が戻るんだけど、お姉さん帰り道を教えてくれない?」

 ガードレールのおかげで逆転した身長差で、私は女の子を見上げる。霧の中の薄暗さが不思議と逆光に感じられて目に痛い。吸い込んだ霧が、つんと甘い。

「来た道が分からなくなってるなら、一番簡単なのは……」

 私は手帳のページに簡単な地図を書く。過去にたどった経路が分からないという条件なら、布留川デルタに出るには東側から大通りを回り込むのが簡単だ。

「これ」

 手帳のページを切り取って女の子に渡した。女の子は目を輝かせてお礼を言う。

「すごいねこの地図。これ今書いたの? 一瞬で? 地図作りの天才? 元祖伊能忠敬?」

「元祖伊能忠敬は伊能忠敬だと思う」

 かろうじてそう言い返せたけど、女の子に感心されるとやけに嬉しくって、心臓がどんと強く打つのを感じた。そこで始めて、自分の鼓動の早さを意識した。霧の街で女の子が立っているのを見つけて以来、実は緊張していたのだと気づく。これまで無人だった不思議な空間で急に自分以外の人と出会ったのだから、それは緊張だってする、と思う。口の中の甘さが胃に広がって、身体の芯が震えた。

「お姉さんありがとう!」

 女の子はそう言って、くるりと向き直って、跳んだ。

 宙を飛ぶその姿がスローモーションに見えた。これまでピタリとガードレールの上に立っていた小さな身体がびっくりするほど軽やかだった。身体が空中の霧を引き裂いて、アスファルトの上に舞い降りる。地面に光が灯る。その肌が霧を弾くように輝く。街が彼女を祝福する。


 この日、私は自分とは違う、跳べる人がいるのだとわかったのだ。

 あの子みたいに跳べると良いなと思う。憧れる。けれど同時に、自分に向いているのは違うやり方だと知っている。


 私はその後も霧の街を歩き続けたけれど、ついぞあの子にもう一度出会うことはなかった。


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