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私は地学準備室で、五年前に自分が即席で描いた地図を手にして固まっていた。
窓の外でゴロゴロと不気味な雷が鳴り、どうも雨が降ってきたらしかった。最近こういう、季節外れの夕立が多い。水滴が窓を叩く音が部屋に響き始めた。
あの日、私の目の前で宙を跳んだ女の子が、三卜先輩だったのだ。当時とはさすがに面影も変化しているし、何より年下だと思い込んでいたので考えに浮かばなかった。けれど思い返せば返すほど、あの超然とした態度も、関心事を見つけたときの目の輝きも、ニヤリと微笑む口元も、モサモサの髪も、紛れもなく同一人物だ。
そんな偶然ってあるんだろうか。
運命の出会いというやつだろうか!
これまでの態度からして、先輩も気づいていないだろう。覚えていたとしても、向こうも年下だとは思ってないだろうし。
先輩が戻ってきたらなんと言えば良いのか、と考えて、そもそも勝手にこれを見たのはまずかったと地図を元通りファイルにしまう。けれど話の流れからしたら、遅かれ速かれ先輩はこれを私に見せてくるはずだ。そのとき私はなんと言えば良いのだろう。描いたのが自分だって言ったら、どういうことになるだろう?
急にぐるぐるし始めた頭と心臓を抱えて右往左往していると、がらりと地学準備室の戸が引かれた。
「ただいま」
びしょ濡れだった。
三卜先輩は頭からつま先まで水を被っており、さすがに勢いを失った髪の毛から足下に水滴をポタポタと垂らしていた。制服の上に着たカーディガンが水を吸って重そうだ。
「どうしたんですか先輩!? 雨で!?」
「雨で」
先輩は事もなげに答えた。
「いやなんでそんな雨で濡れるんですか!」
「東京とかだと流行ってるらしいが……」
「絶対流行ってない!」
私はバッグに入っていたタオルを取り出して先輩を拭こうとするが、あまりにも全身濡れているのでどこから拭いて良いのか分からない。
「ゲリラ豪雨予知班の知見が生かせなかったな……地学部の名折れだよ」
「そんな訳わかんない班もあるんですか!?」
「すべてだから。四月ってヒーター使えるのかな。無理か?」
先輩は地学準備室の端にあったファンヒーターのボタンを押すが、反応はない。
「先輩それ濡れた手で触ると危ないですよ」
「動かないや。ま、じきに乾くでしょ」
「絶対乾かないですよ! 着替え持ってないんですか!? 体操着とかは?」
「持ってない」
「風邪引きますよ!」
「うん、私結構賢いからなぁ、引くかもね」
いくら何でもクールすぎる。
変わった人だと思っていたけれど、ちょっと度を越している。
「これ! じゃあせめてこれに着替えてください!」
*
「でかいな」
私のジャージを着た先輩は、むしろ私のジャージに着られていると言う方が似合っていた。袖が余りまくっている。先輩の制服は椅子に引っかけて、扇風機で乾かすことにした。なんだか夏みたいな妙な景色だった。先輩の髪の毛はタオルで拭いた。シャンプーをめちゃめちゃ嫌がった犬が不服そうに拭かれるみたいだった。
「ありがとう霧島さん、風邪引かずに済みそう」
「いえ、別にたいしたことでは」
「本当にありがとう。大したお礼も出来ないけど。ない袖は振れないけど」
余った袖をぶらぶら振りながら先輩は言った。それ言いたかっただけでしょう。
「まあでも、これで霧島さんの謎も解けるね」
「……え?」
また先輩はあの不敵な笑みを浮かべて、言う。
「この格好の私、どう見える?」
そう言ってまた袖を振る。
「え………………小さくてかわいい?」
「そういうことじゃないんだよ」
「いえ、実際サイズが合ってないのは事実じゃないですか。でも似合ってますけど」
「かわいいとか似合ってるとかよく分からないのは置いて、そうだな、私がこの格好で廊下を歩いたらどうなるか」
「どうって、まあ、一年生に見えるのでは…………あ!」
「それだよ」
先輩は、緑色の袖を振って頷いた。
*
先輩は語った。
まずその男子生徒は、なんでそんな場所で着替えているのか。部活だったら、部室で着替えればいいじゃない。それなのにあえて、一年の教室からも、部活の練習場所、だいたい外だよね、そのどちらからも遠い3棟の屋上入り口なんかで着替えるんだ。部室では着替えられない理由があるんだよ。見られたら困るわけだ。それは何か?
霧島さんは一年の教室を全部回って、顔をチェックして、名前もチェックして、それでもその男子を見つけられなかった。
でもそもそも、私にも説明すらしなかったくらい当たり前に流していたけれど、どうしてその男子が一年だと思ったの?
「それは、ジャージが緑だったから……」
そう、流鶯高校は学校指定のジャージは学年色になっていて、今年の一年は緑、私の二年は青、三年は赤だね。青ジャージはまだましだけど、緑と赤は最悪だよね。これは残念ながら三年間固定、学年が上がるとスライドしていくから霧島さんは三年間このどぎつい緑のジャージを使うわけだ。ご愁傷様。
この色はだから、学年を見分けるには便利だ。で、便利すぎるから、今回みたいにハックされてしまうんだ。
「あの人は、一年生じゃなかった、ってことですね」
そう。おそらくジャージは去年卒業した先輩のものを譲り受けてるんだ。綺麗に使ってたんだろうね先輩。だから及川っていう名前の生徒も見つからないわけ。まあ卒業したらこのド緑のジャージ要らないよな。私の青でさえ要らなそう。欲しかったら霧島さんにあげるよ。要る?
「要ります。つまり、二年生か三年生が、一年の振りをして」
そう。え、要るの? まあいいけど。
うん、二年生か三年生、っていうか普通二年生だよそういうことするのは。
私の回答を言おう。
いま、色んな部活が新入生を勧誘して、仮入部期間とか銘打って練習をしてる。その期間中に、二年生が一年生の振りをして混ざっている、っていうドッキリを仕掛けてるんだ。だから部室で着替えるのが無理なわけ。一年生ですって顔して新入生の輪に入っておいて、本入部のタイミングでそれをネタばらしするっていう伝統ドッキリだよ。
先輩は一気に語り終えた。
跳んでいる。飛躍しすぎだと私は思った。やっぱりこの人があの女の子なんだと思った。
「いや、そんなドッキリ成立するんですか? 仮入部期間ってどれくらいか知りませんけど、絶対バレません?」
「仮入部って部活がそれぞれ好きなように決めてるだけだから時期はバラバラだけど、大体四月いっぱいとかじゃない? 伝統っていうからにはそれなりに成功率があるんだと思うけど。絶対バレそうだからこそ騙されるとかね」
「だってそれ、私と同じことが起きるじゃないですか! 及川君を学年中探しても存在しないぞってなったら、すぐバレるでしょう」
「学年中探す人は珍しいんじゃない? 一クラス一クラスしっかり回っていくのって、霧島さんくらいしかやらないんじゃないかな」
「ええ……」
「それに水泳部だから、四月はそんなに練習も多くないんだよきっと。多分筋トレだけだし。プール開き、は早いか。プール掃除のときにネタばらしするんじゃない?」
「ええ? 水泳部ってことまでどうして分かるんですか? そういう伝統があるって知ってたんですか?」
「あ、いや、そういう伝統がどっかの部活にあるっていうのは、聞いたことがあったけど。どの部活とまでは覚えてなかった。一応手がかりとしては、及川君が若干茶髪っぽいのは、あれは塩素でしょ。っていうか他の運動部は染めるの無理だから。うちで地毛じゃない茶髪があり得る運動部って、水泳部だけなんだよね」
「それだけで水泳部って結論まで行けるんですか……?」
「ああ、まあ、これはアンフェアなんだけど、さっき戻ってくるときに見た。水泳部そこの渡り廊下で筋トレしてるから。いたよ、緑ジャージの及川くん」
「は!? それズル! ズルいですよ先輩!」
アンフェアすぎる。
そんなズルをしてまで跳んでしまう。
私とは違うところにいて、出発点が違い、着地点が違う。
ぶかぶかの緑の袖を振って不敵に笑う。
「まあだから、すぐそこだし、服乾くまで時間もあるし。今から及川君に返しに行く? その傘。帰りまでには雨やんでるとは思うけどね」
この人は跳べる人。
私はこの先輩についていこうと思った。
「先輩、私ついて行きます」
「え? 逆じゃない? 折りたたみ傘持ってるの霧島さんでしょうが」
「いいえ、ついていきます」
「近い」
「憑いていきます!」
「幽霊?」
そういうわけで、私は地学部に入部したのだった。
地学部は全てだ。ゆりかごから墓場まで。
色々と変な班があるのだが、私は先輩班に所属している。
第3話『先輩はなぜ私のジャージで跳べるのか?』完




