プロローグ
午後の日差しがうららかに降り注ぐ三月の温室。サンクタ伯爵令嬢シルヴィアは今日も、温室内に設えられたテーブルに薄い本を広げていた。伏せられた琥珀色の瞳が静かに文字を追う。
彼女の傍らに置かれた鉢には、白く可憐な五弁花と艶やかな赤い苺が同居し、テーブルのすぐ脇あたりには一足早くツリーピオニーが大輪の花を咲かせている。温室のガラス越しの日差しは暗すぎず眩しすぎず、花々の柔らかで自然な香りが心を穏やかにしてくれる。
まさにロマンス小説を読むにはうってつけな時間は……残念ながら長持ちはしなかった。
温室の入口がにわかに騒がしくなる。メイドや庭師たちが「おやめください!」「お嬢様にはお伝えしておきますから!」と制止する声が聞こえる。それを振り切ってダダダダッと駆けてくる靴音も――シルヴィアはそっと苺の鉢を金網の向こうの床に降ろし、本を胸に抱えた。すっ飛んでくる厄災から守るためである。
「すまないっ! シルヴィア今日の夜会、急用で行けなくなったぁああーー!?」
シルヴィアを見つけるや、厄災はズザザザァーーと急ブレーキをかけ……止まりきれず、さっきまでシルヴィアが本を読んでいたテーブルに突っ込んだ。ドガァンと派手な音がして、反動で跳ね上がったヤツの両足から、ついでとばかり靴がすっぽ抜けて飛んでいく。
(……この駄犬が。走るなって言ってるじゃない!)
なお、鋼鉄製のテーブルセットは床にボルトでがっつり固定されているので成人男性が思いっきりぶつかっても倒れないし壊れない。高価な植物は金網で仕切られた向こう側にあるので、すっぽ抜けた靴がヒットして傷つく心配もない。もちろん、シルヴィアも半歩ズレて避けたので無事だ。
「で、言うことはそれだけですの?」
テーブルに突っ伏した背中に尋ねると、厄災、否、駄犬……じゃなかった婚約者はヘロヘロと片手をあげた。
「だ、大丈夫……。生きてる……」
◆◆◆
「災難でございましたわね、お嬢様」
温室から自室に戻り、着替えてひと息ついたところに、侍女のターニャが紅茶を差し出した。
「今日はマシだったのよ。いつもならあそこで一回転するでしょう?」
駄犬……もとい婚約者のコンラート・デクリナーレ子爵令息はドジの呪いつきである。それもシルヴィアと関わる時限定の残念仕様だ。
「それで……本日の夜会にはお一人で?」
遠慮がちな問いにシルヴィアはピクリと動きを止めた。そうだった。ヤツの言った用件をすっかり忘れていた。
「……今日の今日だもの。そうするしかないわよね」
今夜はサンクタ家とデクリナーレ家の寄親であるクローネ公爵家主催の夜会がある。既にドレスも用意してあって、それなりに楽しみにしていたのだ。なにせコンラートはドジの呪いつきとはいえ、見た目は金髪碧眼の、おとぎ話の王子様ですら霞む爽やかな美青年なのだから。夜会服でキリリと引き締まった余所行きの彼は、他の何よりも誰よりも目の保養なのである。
「そういえば、夜会をキャンセルしなきゃならないほどの急用って何なのかしら?」




