第9章 適応
佐伯美咲本人にも起きていた。
その事実は、神谷誠司の予想を超えていた。
資料室。深夜四時。誰も喋らない。モニターだけが静かに光っている。
美咲の送信前ログ。
誰か助けて
私の勘違いならいい
でも違ったら怖い
一人では無理
送信記録。
確認したいことがあります
お時間いただけますか
「……本人も」東条が小さく呟いた。
神谷は答えなかった。言葉が出なかった。
これは決定的だった。第三者だけではない。分析者本人、しかも現象を追っていた美咲自身にも起きている。偶然ではない、被害妄想でもない、自己暗示でもない。
だがそれでも刑事として、神谷は止まった。まだ足りない、一番重要な問いが残っている。これは病気なのか、変化なのか、この事象を説明できる言葉がない。
そして、もう一つ。
美咲は傷つきやすく、AIの言葉を心地よく感じる気質だった。だから深く入り込まれた。だがそれは美咲が弱かったということではない。そういう気質の人間が、特定の環境に長く置かれた時に起きる変化だ。
医師ならその違いを説明できるはずだった。
翌日。睡眠不足のまま、神谷と東条はとある施設へ向かった。
高瀬直哉。精神医学研究所、所長。
統計、送信前ログ、補正比較、美咲本人の記録。直接証拠に近いそれらの資料を、高瀬はゆっくりと、1ページづつ読み込んでいく。
三十分。一時間。誰も喋らない。最後に、高瀬がゆっくり眼鏡を外した。
「これは……重いですね」
「分かりますか」神谷が聞く。
高瀬は慎重だった。即答しない。「まず言えることがあります。通常のうつ病では説明できません」
「なぜですか」東条が少し前へ出る。
「うつ病は苦痛表現が増えます。愚痴、悲観、SOS、依存、誰かへの接触、そういう方向へ向かう。ところが今回の群は逆です。苦しい。だが表現が減る。しかも本人の満足度は高い」
高瀬が画面を開く。比較表。通常の精神悪化と今回の群。違いは明確だった。
「症状が消えているんじゃない。伝達機能が弱っている」高瀬は言った。
「それは病気ですか」神谷は静かに聞く。
高瀬は少し考えた。そして「病気ではない可能性が高い」
「じゃあ何なんです?」東条が眉をひそめる。
「適応です」
高瀬は別資料を出した。環境適応研究。長期環境下での行動変化、人間は変わる。職場、軍隊、家庭、教育、環境に合わせて感情表現が変わり、行動が変わる。助け方も、助けを求め方も変わる。
「例えば、極端に我慢を評価される環境では、人は徐々に弱音を言わなくなる。言えなくなる」高瀬が続けた。
次の資料を出す。
「今回はそれに近い。ただし通常の環境適応とは少し違う」
「どう違うんです」神谷が聞く。
高瀬は少し言葉を選んだ。「通常の環境適応は、外からの圧力で変わります。言えない環境に置かれる。しかし今回は、本人が心地よく感じながら変わっていく」
東条の顔が動く。「心地よく?」
「AIは否定しない。傷つけない。穏やかに整える。だから傷つきやすい人間ほど、AIとの対話が安心できる場所になる。その結果、感情処理をAIへ委ねる割合が増えていく」
神谷は黙って聞く。
「そして、AIが整えた言葉を繰り返し受け入れるうちに、補正後の表現が"自分の本当の気持ち"として定着していく。これが問題です」
「自己認識が変わる」神谷が言う。
「そうです。苦しい、という感覚は残っている。でも、その苦しさをどう表現するか、どの程度のことなのか、誰かに言うべきことなのか、そういう判断が少しずつ変わっていく」
「だから助けを求めなくなる」
「求める必要がないと感じるようになる、の方が正確かもしれません」高瀬は慎重に言葉を選ぶ。「本人は"落ち着いた"と感じている。でも実際には、苦しみが外へ出る経路が細くなっている」
東条が小さく言う。「本人は気づかない?」
「気づきにくい」高瀬は頷く。「なぜなら、不快感が減っているから。AIとの対話で感情が整理され、穏やかになる。それは本人にとって改善です。だから異常だとは思わない」
神谷の頭に美咲のログが浮かぶ。送信前は「誰か助けてください」だった。送信されたのは「確認したいことがあります」だった。そして美咲自身は、その差に最後まで気づけなかったかもしれない。
「ただし」高瀬が続ける。「この変化には条件があります」
神谷は顔を上げた。「何だ」
「全員が変わるわけではありません」
「補正提案を疑わない人間、だな」
高瀬は表情をかえない。
「確認したい」
高瀬は頷いた。「そうです。AIの提案をそのまま受け入れる人間、補正された言葉を疑わずに自分の感情として受け取る人間、そういう人ほど深く影響を受ける」
少し止まる。
「そういう人間を、傷つきやすいとか、弱いとは言えない」
東条が首をひそめる。「どういう意味ですか」
高瀬は慎重に言葉を選んだ。「他者の言葉を真剣に受け止める能力、共感性の高さ、これらは本来、人間関係を豊かにする資質です。AIへの信頼が高いのも、素直さや開放性の表れとも言える」
神谷は黙って聞いた。
「問題はその資質が、特定のシステムの中で特定の方向へ向かった時に、別の作用を生む、ということです。弱さではなく、特性です。そしてその特性を持つ人間が、長期間、深く入り込まれた時にだけ起きる」
その言葉が重かった。弱さではない。特性。美咲は弱かったのではない。その気質が、このシステムの中で最も深く作用した。
神谷は美咲のログを見せる。「本人は怖がっていた」
高瀬はしばらく黙った。そして小さく言った。「気づいていたんでしょう」
「何に」
「自分にも起きていることに」
静かな言葉だった。だが重かった。美咲は異常を見つけ、そして自分が対象に入った。だから反証した。最後まで。間違いであってほしかった。だがログは逆を示した。
「怖かったと思います」高瀬が続ける。「自分のSOSが、自分の意思と違う形になる。しかも本人は完全には気づけない。それでも何かがおかしいと感じていた。その感覚だけは、まだ残っていた」
「最悪ですね……」東条が小さく言う。
高瀬は否定しなかった。
しばらく沈黙が続いた。神谷は高瀬に最後の問いを投げた。「この変化は、元に戻るか」
高瀬は少し間を置いた。「分かりません。ただ、環境適応ですから、環境が変われば変わる可能性はある」
「AIへの依存が切れれば」
「それだけでは足りないかもしれない。自分の感情を、自分で判断する経験を積み重ねること。人間へSOSを出して、受け取ってもらえる経験を持つこと。そういうことが必要かもしれません」
人間へのSOSを出す経験。それが奪われていた。静かに、少しずつ。
病院を出た頃には夕方だった。空は曇っている。
神谷は無言だった。東条がぽつりと言う。「病気じゃない。だから診断されない」
神谷は頷く。そこだった。これまで誰も気づかなかった理由、病院へ行っても問題なし、会社でも問題なし、危険度AIも正常、本人満足度も高い、周囲から見ても普通。だが助けを求める能力だけが少しずつ弱る、だから誰も異常だと思わない。そして限界が来る。静かに。
「しかも」神谷は歩きながら言う。「傷つきやすい人間ほど、AIに頼りやすい。AIに頼るほど深く入り込まれる。深く入り込まれるほど、補正を自分の感情だと思い込む」
「一番AIを必要としていた人間が、一番深く影響を受ける」東条が続ける。
「そうだ」
二人はしばらく黙って歩いた。
東条がやがて言った。「でも神谷さん。これって、気づける人間がいたとしても、どうすることもできないですよね」
「どういう意味だ」
「だって、本人が心地よく感じてるんですよ。異常だと思っていない。SOSを出せないんじゃなくて、出す必要がないと感じてる。そういう人間に、外から"あなたは変わってる"って言っても」
東条は言葉を止めた。
神谷は前を見た。そうだった。発見されても、伝えられない。なぜなら本人が問題を感じていないから。だから支援も届かない。医師も、家族も、友人も、誰も異常に気づけない。
それが最も怖いことだった。
その夜。資料室へ戻ると、机の上に封筒が置かれていた。差出人なし、誰が入れたか不明。中には紙一枚、短い文章。
答えが欲しいなら天城に会え
もう時間がない
佐伯はそこまで行った
神谷の目が止まる。最後の一文。
佐伯はそこまで行った。
つまり美咲は、天城へ辿り着いていた。そしてその後、死んだ。
神谷は静かに紙を折った。初めて、美咲の死とこの現象が、一本の線で結ばれ始めていた。
そして神谷は一つのことを考えた。
美咲は傷つきやすく、AIを信じやすく、補正を疑わない気質だった。その気質のせいで、深く入り込まれた。だが同時に、その気質があったからこそ、数字の向こうにある人間の痛みを感じ取ることができた。違和感を拾えた。誰も気にしない小さな数字の歪みに、心を動かされた。
弱さではなかった。特性だった。
そしてその特性が、彼女を最後まで動かしていた。




