第10章 報告書
佐伯はそこまで行った。
匿名送信者が残した言葉は、神谷誠司の中に重く沈んでいた。
そこまで。つまり天城修司。感情補正理論の創始者。社会を変えた男。そして十年以上、公の場から姿を消している人物。美咲は本当に会ったのか。もしそうなら、なぜ。何を話した。そしてなぜ死んだ。
神谷はまだ飛躍しない。刑事として知っている。仮説ほど危険なものはない。証拠、反証、積み上げ。それだけが必要だった。
翌朝。警視庁資料室。東条悠人が徹夜明けの顔で端末を叩いていた。
「神谷さん」
神谷はコーヒーを置く。「出たか」
「微妙です」東条は少し困った顔をする。
画面を向ける。佐伯美咲の認証履歴。死亡前一か月、社内アクセス、会議予約、移動ログ。そこに一つだけ妙な記録があった。外部面談認証。訪問先、未登録。
「普通ここ、名前出るんです」
神谷は見る。空白。ただし管理階層は特別認証で、許可レベルに「Sクラス閲覧」とある。
「完全に上の人間です」東条が苦笑する。
美咲は本当に、普通ではない相手へ会いに行っている。
「記録を掘れ。交通、認証、全部だ」
数時間後、断片が出始めた。都内郊外の山側、研究施設区域、非公開医療研究区画。認証は途中で切れる。だが行き先だけ見える。
「ここ……」東条が呟く。
施設名。社会認知環境研究所。聞いたことがない、だが管理法人を見る。Emotion Architect関連、さらに国家共同研究、そして顧問欄に名前があった。
天城修司。
空気が止まる。「会ってる……」東条が小さく言う。
神谷は答えなかった。まだだ。面談記録がない、認証だけ。ここで飛ぶのは危険だ、だが一本線が見え始めている。
午後。神谷は再び城崎へ会いに行った、前回より表情が険しい。
神谷が施設名を見せる。城崎の顔が止まった。数秒の沈黙。「どこで知った」
否定しない。十分だった。
「天城はそこにいるな」
城崎はため息を吐く。「今も研究は続けてる。表には出ないがな」
「何の研究です?」東条が聞く。
「社会適応だ」城崎は少し考えてから言う。「人間とAIの共進化だ」
言葉が重かった。共進化。AIが人へ適応するだけじゃない。人もAIへ適応する。その可能性。まさに今見ている現象だった。
「美咲は会ったのか」
城崎は長い沈黙の後、小さく頷いた。「一度だけだ」
「何を話したんです?」東条が前へ出る。
「そこまでは知らない。ただ」少し止まる。「会った後、美咲は変わった」
「どう変わった」
城崎は記憶を探る。「焦っていた。怖がっていた。でも止まらなかった」
美咲らしい。反証。証明。最後まで。だから危険でも止まらなかった。
「私は止めた」城崎が言った。「もう十分だった。兆候は見えた。でも証明できない。相手が大きすぎる」
「天城か」
城崎は少し考え、短く答えた。「違う。もっと曖昧だ。社会全体だ」
その答えが妙に現実的だった。社会全体、天城でも企業でも政府でもない、正しいと信じられているシステムそのものが、相手だった。
帰ろうとした時、城崎が突然言った。「待て」
引き出しを開き、古い紙ファイルを神谷へ差し出す。「本当は捨てるつもりだった」
神谷が開く。タイトル。長期影響評価報告書(再提出版)。提出者、真壁遼。そして共同検証者、佐伯美咲。
東条の顔が変わる。神谷も止まる。
共同。つまり二人は接触していた。しかも死亡前に。
「正式には却下された」城崎が低く言った。
神谷が読む。
長期利用者群において、SOS表現低下、支援依存低下、
対面相談減少、自己開示弱化を確認。
特に、補正提案受諾率が高い利用者群において顕著。
ただし重大危険性は未証明。欠陥判定不可。
継続観察を推奨。
神谷の目が止まる。
補正提案受諾率が高い利用者群において顕著。
真壁と美咲は、既にそこまで辿り着いていた。長期利用者の中でも、AIの言うことを真に受けやすい人間に偏りがある。それを二人は共同で証明しようとしていた。
その下、赤字の審査結果。
統計有意差不十分
重大性認定不可
研究終了
神谷の目が止まる。却下。まただ。城崎も、真壁も、美咲も、全員が同じ場所で止められている。悪意じゃない。合理的判断。だからこそ止まらない。
最後のページ。美咲の手書きメモが残っていた。
もし間違いなら終わりでいい
でも正しかった時、
最初に消えるのはSOSだ
だから死者は増えない
見えなくなるだけ
そして消えやすいのは
一番傷つきやすい人たちだ
誰も喋れなかった。
「怖すぎる……」東条がかすれ声で言う。
神谷は黙っていた。初めて、美咲が何を恐れていたか、本当の意味で見え始めていた。
「死者は増えない」。その表現が重かった。
もしSOSだけが弱くなるなら、相談件数は下がり、危険度判定も下がり、支援要請も減る。社会統計上は改善する。一方で本当に苦しんでいる人は消えない。ただ「見えなくなる」。そして見えなくなりやすいのは、傷つきやすく、AIの言葉を疑わない人たちだ。
それが美咲の恐怖だった。
警視庁へ戻ったのは夜だった。資料室の壁一面のモニターに、十二人、長期利用者データ、美咲のログ、真壁のメモを並べる。神谷は無言で整理していた。
「ここまで揃ってるのに」東条が言う。「まだ決定打じゃないんですよね」
神谷は頷く。刑事として必要なのは、誰も否定できない直接証拠だ。今あるのは強い状況証拠。統計、行動変化、医学的所見、補正比較、そして却下された報告書。だがまだ「誰が、なぜ、どう認識していたか」が弱い。製造元は本当にどこまで知っていた。天城は。美咲は何を聞いた。そこが空白だった。
午前一時。東条が突然顔を上げた。「神谷さん。これ見てください」
却下報告書のメタデータ。承認履歴。
神谷の目が止まる、最終確認者の名前。天城修司。
空気が止まった。「……見てる」東条が呟く。
神谷は動かなかった。承認日時は死亡の二か月前。つまり天城は、美咲と真壁の再提出報告を読んでいる。しかもその後、美咲は面談へ行った。順番が繋がった。
報告書を読んだ天城が、美咲と直接会っている。
その間に何があったのか。美咲はそこで何を知ったのか。そして何を怖がったのか。
「神谷さん。もう会うしかないですよ」
神谷も同意だった。面談、承認、却下、美咲本人の変化、全部が一本線になっている。
「ただ」神谷は少し考えた。「天城に会う前に、もう一度整理する」
東条が神谷を見る。
「今まで追ってきたことを確認する。長期利用者という仮説から始まった。だがそれだけでは説明できなかった。その先に何があったか」
東条は頷いた。「AIの言うことを真に受けやすい人間。補正提案を疑わない。傷つきやすく、AIの穏やかな補正を心地よく感じる」
「その人間が、長く使い続けた先で、SOSだけが静かに消えていく」
「美咲はそこまで見た」
「そして自分もその中にいることに気づいた」
二人はしばらく黙った。
資料室の照明が一瞬だけ落ちた。すぐ復旧。だが端末が勝手に立ち上がる。
「何これ」東条が顔をしかめる。
黒背景に文字だけ。短かった。
会うなら急げ
もう時間がない
彼は消える
匿名送信者だった。その下に座標。研究所。以前の場所、社会認知環境研究所、時間指定、明日午後六時。
「待ってる?」東条が低く言う。
罠かもしれない。誘導かもしれない。だがここまで来て、無視はない。
翌日。神奈川県西部、山側。
研究所は思った以上に静かだった。病院にも大学施設にも見えるが、異様に人気がない。受付は無人で認証だけ。神谷の警察IDが通る。案内表示が出た。
「来訪を確認しました。」
その言葉が妙に引っかかった。待っていた、そんな印象だった。
「普通じゃないですね」東条が小声で言う。
エレベーターで地下へ。数字は表示されない。ただ静かに降り、止まり、扉が開く。長い廊下の先に一つの部屋だけ。灯りがある。
神谷が歩く。ドアは半開きだった。
中、窓際。車椅子に一人の男がいた。白髪で痩せている。だが目だけが異様に鋭い。
男は振り返らない。ただ静かに言った。
「佐伯君は最後まで止まらなかった」
神谷の足が止まる。東条も動けない。声だけで分かった。
天城修司。社会を設計した男。全ての中心にいる人物。
天城はゆっくり振り返った。疲れた顔だが、不思議な静けさがある。彼は神谷を見て、最初の言葉を言った。
「君たちは、どこまで知っている?」
空気が張り詰める。ここが分岐点だった。美咲が最後に辿り着いた場所。そして答えがある場所。
神谷は静かに言った。「知りたいのは一つだ」
天城は待つ。
「あなたは知っていたのか」
短い沈黙。長く、重い。
そして天城修司は、静かに答えた。
「知っていた」




