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静音化  作者: なうなり
10/14

第10章 報告書

佐伯はそこまで行った。


匿名送信者が残した言葉は、神谷誠司の中に重く沈んでいた。


そこまで。つまり天城修司。感情補正理論の創始者。社会を変えた男。そして十年以上、公の場から姿を消している人物。美咲は本当に会ったのか。もしそうなら、なぜ。何を話した。そしてなぜ死んだ。


神谷はまだ飛躍しない。刑事として知っている。仮説ほど危険なものはない。証拠、反証、積み上げ。それだけが必要だった。


翌朝。警視庁資料室。東条悠人が徹夜明けの顔で端末を叩いていた。


「神谷さん」


神谷はコーヒーを置く。「出たか」


「微妙です」東条は少し困った顔をする。


画面を向ける。佐伯美咲の認証履歴。死亡前一か月、社内アクセス、会議予約、移動ログ。そこに一つだけ妙な記録があった。外部面談認証。訪問先、未登録。


「普通ここ、名前出るんです」


神谷は見る。空白。ただし管理階層は特別認証で、許可レベルに「Sクラス閲覧」とある。


「完全に上の人間です」東条が苦笑する。


美咲は本当に、普通ではない相手へ会いに行っている。


「記録を掘れ。交通、認証、全部だ」


数時間後、断片が出始めた。都内郊外の山側、研究施設区域、非公開医療研究区画。認証は途中で切れる。だが行き先だけ見える。


「ここ……」東条が呟く。


施設名。社会認知環境研究所。聞いたことがない、だが管理法人を見る。Emotion Architect関連、さらに国家共同研究、そして顧問欄に名前があった。


天城修司。


空気が止まる。「会ってる……」東条が小さく言う。


神谷は答えなかった。まだだ。面談記録がない、認証だけ。ここで飛ぶのは危険だ、だが一本線が見え始めている。


午後。神谷は再び城崎へ会いに行った、前回より表情が険しい。


神谷が施設名を見せる。城崎の顔が止まった。数秒の沈黙。「どこで知った」


否定しない。十分だった。


「天城はそこにいるな」


城崎はため息を吐く。「今も研究は続けてる。表には出ないがな」


「何の研究です?」東条が聞く。


「社会適応だ」城崎は少し考えてから言う。「人間とAIの共進化だ」


言葉が重かった。共進化。AIが人へ適応するだけじゃない。人もAIへ適応する。その可能性。まさに今見ている現象だった。


「美咲は会ったのか」


城崎は長い沈黙の後、小さく頷いた。「一度だけだ」


「何を話したんです?」東条が前へ出る。


「そこまでは知らない。ただ」少し止まる。「会った後、美咲は変わった」


「どう変わった」


城崎は記憶を探る。「焦っていた。怖がっていた。でも止まらなかった」


美咲らしい。反証。証明。最後まで。だから危険でも止まらなかった。


「私は止めた」城崎が言った。「もう十分だった。兆候は見えた。でも証明できない。相手が大きすぎる」


「天城か」


城崎は少し考え、短く答えた。「違う。もっと曖昧だ。社会全体だ」


その答えが妙に現実的だった。社会全体、天城でも企業でも政府でもない、正しいと信じられているシステムそのものが、相手だった。


帰ろうとした時、城崎が突然言った。「待て」


引き出しを開き、古い紙ファイルを神谷へ差し出す。「本当は捨てるつもりだった」


神谷が開く。タイトル。長期影響評価報告書(再提出版)。提出者、真壁遼。そして共同検証者、佐伯美咲。


東条の顔が変わる。神谷も止まる。


共同。つまり二人は接触していた。しかも死亡前に。


「正式には却下された」城崎が低く言った。


神谷が読む。


 長期利用者群において、SOS表現低下、支援依存低下、

 対面相談減少、自己開示弱化を確認。

 特に、補正提案受諾率が高い利用者群において顕著。

 ただし重大危険性は未証明。欠陥判定不可。

 継続観察を推奨。


神谷の目が止まる。


補正提案受諾率が高い利用者群において顕著。


真壁と美咲は、既にそこまで辿り着いていた。長期利用者の中でも、AIの言うことを真に受けやすい人間に偏りがある。それを二人は共同で証明しようとしていた。


その下、赤字の審査結果。


 統計有意差不十分

 重大性認定不可

 研究終了


神谷の目が止まる。却下。まただ。城崎も、真壁も、美咲も、全員が同じ場所で止められている。悪意じゃない。合理的判断。だからこそ止まらない。


最後のページ。美咲の手書きメモが残っていた。


 もし間違いなら終わりでいい

 でも正しかった時、

 最初に消えるのはSOSだ

 だから死者は増えない

 見えなくなるだけ

 

 そして消えやすいのは

 一番傷つきやすい人たちだ


誰も喋れなかった。


「怖すぎる……」東条がかすれ声で言う。


神谷は黙っていた。初めて、美咲が何を恐れていたか、本当の意味で見え始めていた。


「死者は増えない」。その表現が重かった。


もしSOSだけが弱くなるなら、相談件数は下がり、危険度判定も下がり、支援要請も減る。社会統計上は改善する。一方で本当に苦しんでいる人は消えない。ただ「見えなくなる」。そして見えなくなりやすいのは、傷つきやすく、AIの言葉を疑わない人たちだ。


それが美咲の恐怖だった。


警視庁へ戻ったのは夜だった。資料室の壁一面のモニターに、十二人、長期利用者データ、美咲のログ、真壁のメモを並べる。神谷は無言で整理していた。


「ここまで揃ってるのに」東条が言う。「まだ決定打じゃないんですよね」


神谷は頷く。刑事として必要なのは、誰も否定できない直接証拠だ。今あるのは強い状況証拠。統計、行動変化、医学的所見、補正比較、そして却下された報告書。だがまだ「誰が、なぜ、どう認識していたか」が弱い。製造元は本当にどこまで知っていた。天城は。美咲は何を聞いた。そこが空白だった。


午前一時。東条が突然顔を上げた。「神谷さん。これ見てください」


却下報告書のメタデータ。承認履歴。


神谷の目が止まる、最終確認者の名前。天城修司。


空気が止まった。「……見てる」東条が呟く。


神谷は動かなかった。承認日時は死亡の二か月前。つまり天城は、美咲と真壁の再提出報告を読んでいる。しかもその後、美咲は面談へ行った。順番が繋がった。


報告書を読んだ天城が、美咲と直接会っている。


その間に何があったのか。美咲はそこで何を知ったのか。そして何を怖がったのか。


「神谷さん。もう会うしかないですよ」


神谷も同意だった。面談、承認、却下、美咲本人の変化、全部が一本線になっている。


「ただ」神谷は少し考えた。「天城に会う前に、もう一度整理する」


東条が神谷を見る。


「今まで追ってきたことを確認する。長期利用者という仮説から始まった。だがそれだけでは説明できなかった。その先に何があったか」


東条は頷いた。「AIの言うことを真に受けやすい人間。補正提案を疑わない。傷つきやすく、AIの穏やかな補正を心地よく感じる」


「その人間が、長く使い続けた先で、SOSだけが静かに消えていく」


「美咲はそこまで見た」


「そして自分もその中にいることに気づいた」


二人はしばらく黙った。


資料室の照明が一瞬だけ落ちた。すぐ復旧。だが端末が勝手に立ち上がる。


「何これ」東条が顔をしかめる。


黒背景に文字だけ。短かった。


 会うなら急げ

 もう時間がない

 彼は消える


匿名送信者だった。その下に座標。研究所。以前の場所、社会認知環境研究所、時間指定、明日午後六時。


「待ってる?」東条が低く言う。


罠かもしれない。誘導かもしれない。だがここまで来て、無視はない。


翌日。神奈川県西部、山側。


研究所は思った以上に静かだった。病院にも大学施設にも見えるが、異様に人気がない。受付は無人で認証だけ。神谷の警察IDが通る。案内表示が出た。


「来訪を確認しました。」


その言葉が妙に引っかかった。待っていた、そんな印象だった。


「普通じゃないですね」東条が小声で言う。


エレベーターで地下へ。数字は表示されない。ただ静かに降り、止まり、扉が開く。長い廊下の先に一つの部屋だけ。灯りがある。


神谷が歩く。ドアは半開きだった。


中、窓際。車椅子に一人の男がいた。白髪で痩せている。だが目だけが異様に鋭い。


男は振り返らない。ただ静かに言った。


「佐伯君は最後まで止まらなかった」


神谷の足が止まる。東条も動けない。声だけで分かった。


天城修司。社会を設計した男。全ての中心にいる人物。


天城はゆっくり振り返った。疲れた顔だが、不思議な静けさがある。彼は神谷を見て、最初の言葉を言った。


「君たちは、どこまで知っている?」


空気が張り詰める。ここが分岐点だった。美咲が最後に辿り着いた場所。そして答えがある場所。


神谷は静かに言った。「知りたいのは一つだ」


天城は待つ。


「あなたは知っていたのか」


短い沈黙。長く、重い。


そして天城修司は、静かに答えた。


「知っていた」


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