第7章 偏り
真壁遼が生きている。
その確信を得てから三日後、神谷誠司と東条悠人は長野へ向かっていた。車窓の外では都会の景色が少しずつ山へ変わっていく。曇天、低い雲、雨の気配。
東条が助手席で端末を見ながら言った。「正直、まだ信じ切れてません」
「何をだ」
「ここまで全部当たってることです」東条は苦笑する。「匿名送信者ですよ。長期利用ログも、診療所も、真壁も、全部外れていない。それが逆に不気味で」
神谷も同じことを考えていた。誘導されているのは間違いない、だが目的が読めない。もし隠したい側なら、最初から情報を消せばいい。逆だ。誰かが神谷たちを「進ませている」、それが奇妙だった。
「誰だと思います?」
「内部の人間だ」神谷は少し考えてから答える。「Emotion Architectの可能性は高い。内部構造を知っていて、監査領域を知っていて、認証履歴の癖も知っている。美咲の調査内容まで把握していた。一般人じゃない。だが敵とも限らない」
目的地の診療所は、山間の小さな町にあった。古い建物で、診療科は内科と心療内科、高齢者向け施設も併設されている。
「本当にここですか」東条が小声で言う。
神谷は頷いた。認証履歴は一致している。七か月前、真壁遼の診察記録、電子本人認証あり、偽装ではない。
受付へ向かうと、中年女性が応対した。「刑事さん?」
警戒が早い。神谷は少し驚く。「誰かから聞いている?」
「院長からです」
「話を聞きたい」
女性は少し迷い、そして言った。「先生がお待ちです」
待っていた。その言葉が引っかかった。
院長室。七十代前半の穏やかな老人だった。名前は藤崎。神谷を見るなり、小さくため息をつく。
「来ると思っていました」
神谷は座らない。「真壁遼を知っているな」
老人は少し黙る、否定しない。そして静かに言った。「彼は患者ではありません」
「じゃあ何です」東条が顔を上げる。
「私が言えるのは、長い付き合いだということだけです」
老人は慎重だった。神谷は別の角度から入る。「どんな状態だった」
藤崎は少し考え、静かに続けた。「最初に来た時、ひどく怯えていました。誰かに追われている、見つかると言っていた」
「誰に」
「それが分からなかった。本人も説明できなかった。ただ、何かを調べ始めると急に不安定になる。端末を壊す、場所を変える、人と会うのを避ける」
神谷は黙って聞いた。
「私は医師です」藤崎が続ける。「彼の症状を見ていて、一つ気になることがありました」
「何だ」
「怯えの内容が、少しずつ変わっていったんです」藤崎はゆっくり言葉を選ぶ。「最初は具体的でした。"組織に知られる"、"証拠を消される"。でも時間が経つにつれ、曖昧になっていった。"何かに見られている"、"社会全体が敵だ"」
東条が眉をひそめる。「どういう意味ですか」
「恐怖が膨らんでいった、ということです。合理的な警戒から、説明のつかない不安へ」
神谷は黙って聞いた。合理的な警戒が、説明のつかない不安へ変わっていく。それは真壁の性格の問題ではない気がした。何か別のことが起きている。まだ言葉にならない。だが何かが引っかかった。
「彼はAIをよく使っていたか」
藤崎は少し驚いた顔をした。「ええ。それが仕事でしたから。ただ」少し迷う。「仕事以上に使っていた気がします。感情の整理、不安の処理、何でもAIに話していたようでした」
「傷つきやすい人間だったか」
藤崎はしばらく黙った。そして静かに頷く。「とても。他者の痛みに敏感で、繊細な人でした。だからこそ数字の向こうにある問題を感じ取れた。でも同時に、それが彼自身を追い詰めた」
神谷は黙って聞いた。真壁自身が当事者だった。異常を発見し追い始めたことで生じた恐怖が、何らかの形でさらに増幅されていった。「誰かに追われている」という感覚は、実際の脅威ではなく、深く入り込まれた何かが生んだものだったのかもしれない。まだ説明できない。
神谷は続ける。「もう一つ聞かせてください。彼はなぜ、この問題を追い始めたんですか」
藤崎はしばらく黙った。引き出しから封筒を取り出す。「置いていったものがあります。これを見れば、少し分かるかもしれません」
文字は乱れているが、内容は驚くほど理性的な分析メモだった。
冒頭にはこう書かれていた。
長時間利用者に偏りがある
東条が顔を上げる。神谷も止まった。今まで追ってきた仮説と一致する。
2枚目に目を落とす。
長時間利用者群
・補正ログ多
・AI対話時間長
・補正強度高
・補正提案受諾率高
→ 介入率増加
→ 自己表現最適化が過剰化?
だが、全員ではない
一部だけ。なぜ?
神谷はそこで手を止めた。
真壁も同じ疑問を持っていた。長期利用者の中でも、影響が出るのは一部だけ。全員ではない。なぜか。
「まあ……そう考えるのが普通ですよね」東条が小さく言った。
神谷は頷かなかった。普通ではない。ここが核心だった。長時間利用という条件だけでは説明できない何かが、そこにある。
次の紙へ目を移す。真壁のメモは続いていた。
影響が出る群の共通点を探した
利用時間:差なし
職業:差なし
年齢:差なし
性別:差なし
利用開始年:差なし
全部、差がない。神谷は静かに読み続ける。
唯一、傾向が出たもの。
対人関係の傷つきやすさ。
AIの提案を「正しい」と感じやすい気質。
補正後の文章を「自分の本心」として受け入れる傾向。
神谷の呼吸が浅くなる。
東条が画面を覗き込む。「これ……」
「読め」
東条が声に出す。「AIの提案を正しいと感じやすい気質。補正後の文章を自分の本心として受け入れる傾向」
資料室が静かになる。
神谷の頭の中で、今まで積み上げてきたものが少しずつ動き始める。
長時間利用者。その中でも、AIの言うことを真に受けやすい人間。補正された言葉を疑わずに自分の言葉として受け入れる人間。そういう気質を持った者だけに、何かが起きている。
「まあ……」東条が少し言葉を選ぶ。「そういう人って、傷つきやすいというか、繊細というか」
「そうだな」
「AIって優しいじゃないですか。否定しない、怒らない、傷つけない。だから傷つきやすい人ほど、AIに頼りやすい」
神谷はそこで少し止まる。合理的だった。傷つきやすい人間ほどAIに頼る。頼るほど長く使う。長く使うほど深く最適化される。そして補正を疑わない人間ほど、AIの判断をそのまま受け入れる。
だが真壁のメモには続きがあった。
最後の紙に短く書かれていた。
補正は壊していない
"最適化"しているだけ
だから欠陥認定されない
そして傷つきやすい人間ほど、深く入り込まれる
神谷の呼吸が止まる。最適化。その言葉が重かった。
もしAIが対話履歴から「衝突を避ける」「感情を穏やかにする」「相手へ負担をかけない」方向へ学習していたら、苦痛表現もSOSも弱くなる。しかも本人満足度は高く、周囲との摩擦も減り、社会統計も改善する。なら誰も異常と判断しない。
「欠陥じゃない……でも、何かがおかしい」東条がぽつりと言う。
神谷は答えなかった。だが初めて、現象の輪郭が見え始めていた。
そして同時に、今まで追ってきた仮説が少しずれ始めていた。
長時間利用者、というのは正確ではなかった。長く使う人間の中でも、AIの言うことを真に受けやすい、補正された言葉を疑わない、傷つきやすいがゆえにAIの優しさに深く入り込まれる、そういう人間だけに起きている。
利用時間は条件の一つに過ぎない。本質は別のところにあった。
藤崎診療所を出た時には、外は小雨になっていた。山の空気は冷たい。駐車場へ向かいながら東条はずっと黙っていた。神谷も何も言わない、互いに整理が必要だった。
車へ乗り込み、エンジンをかける。ワイパーが一定の速度で雨を払う。
数分後、先に口を開いたのは東条だった。「神谷さん。今まで長時間利用者だと思ってたけど、それだけじゃなかったんですね」
「ああ」神谷は視線を前へ向けたまま言う。
「傷つきやすくて、AIを信じやすい。そういう人間が、長く使い続けた先で変わっていく」
「そうだ。利用時間は入り口に過ぎない」
東条は少し黙った。「考えてみたら……そういう人って、むしろAI相談の恩恵を一番受けてる人ですよね。否定されない、傷つかない、安心して話せる。だから使い続ける。だから深く入り込まれる」
神谷は頷いた。皮肉だった。最もAIを必要としていた人間が、最も深く影響を受ける。
高速道路へ入る頃には、東条が真壁のメモ、十二人、匿名資料、美咲の調査ログ、全部を重ねて解析を始めていた。しばらくして東条の顔色が変わった。
「神谷さん。出ました」
神谷がサービスエリアへ車を寄せる。東条が画面を向けた。
十二人の一覧表。共通項。そして今まで見えていなかった列。
神谷の目が止まる。
「補正提案受諾率、全員九割超えてます」東条が言う。「一般平均は五割から六割。それが全員、九割を超えてる」
利用時間ではない。受諾率だ、AIの言うことをそのまま受け入れる割合、十二人全員が、圧倒的に高い。
「あとこれ」東条が別グラフを出す。補正提案受諾率と、SOS語句の減少率の比較。
神谷の表情が止まる。明確だった。受諾率が高いほど、SOSが消えている。しかも比例している。
「相関出てます。かなり強い」
神谷は黙った。これは大きい。今までは共通点だった。だが今は違う。因果の方向が少し見え始めている。
長期利用だけでは起きない。AIの言うことを疑わず受け入れる人間が、長く使い続けた時に起きる。
その夜、警視庁資料室。二人は徹夜になった。
美咲のログを再解析する。今度は条件を変えた。利用時間だけではなく、補正提案受諾率。すると世界が変わった。百人、二百人と異常傾向者が増える。しかも年齢も職業もばらける。だが共通しているものが一つだけある。補正提案受諾率だった。
「これ……ヤバいですね」東条が呻く。
「まだ早い」神谷は言う。刑事の癖だった。飛躍しない。証拠と反証、それが先だ。
「反例を探せ。受諾率が高くても問題ない奴だ、逆に低くても症状が出る奴も」
東条は頷いた。仮説は崩れないと意味がない。
午前三時。東条が呻いた。「……あります」
受諾率が高くても問題なし。普通に暮らしている利用者で、相談行動も維持、SOS語句も消えていない。
神谷は安心した。むしろ良かった。完全一致は怪しい。現実ではない。
「でも少数です。共通点あります」
「何だ」
東条は心理傾向、対人関係、生活パターンの資料を出した。そして一つの特徴を示す。「人間相談率が高い」
家族、友人、同僚との対面相談が高い。つまりAIを使うが人間も使う。
「依存先が分散してる」東条が言った。
神谷は理解した。真壁の言葉が蘇る、補正は壊していない、最適化しているだけ。もしAIが「安全な相談相手」として強く機能したら、人は少しずつ他人へ話さなくなる。摩擦がない、否定もない、面倒もない、便利で優しい。
だが人間へも同時に頼り続けている人間は、AIの補正が深く入り込まない。なぜなら「自分の言葉が人間に届く」という経験が、補正を相対化するからだ。
傷つきやすく、人間関係の摩擦を恐れ、AIの優しさに全てを委ねた人間だけが、静かに変わっていく。
資料室の端末が鳴る、非通知。東条が顔をしかめる。「またですか」
神谷が取る。無言。数秒後、低い加工音声が響いた。
『会ったな』
神谷は録音を始める。「誰だ」
『重要なのはそこじゃない』
また同じ。だが今度は少し違った。男は言った。
『やっと正しい場所へ来た』
神谷は黙る。
男は続ける。『長時間利用は入り口に過ぎない。本質を見るんだ』
全部知っている。「お前は誰だ」
数秒の沈黙。そして初めて、相手が少し感情を混ぜた。
『間に合わなかった側だ』
神谷の背筋が動く。間に合わなかった。それは美咲のことか。あるいは別の誰かか。
男は続ける。『次は十二人を個人で見ろ。数字じゃない。消えたSOSの前に何があったか』
「何が言いたい」
短い沈黙。そして最後の言葉。
『みんな、最初は助けを求めてる』
通話が切れた。資料室が静かになる。
「最初は……?」東条が小さく言った。
神谷は画面を見る。十二人、死亡者、その前、彼らは何を言っていた? いつから変わった? どこで弱くなった? 美咲はそこまで見たのか。
神谷は立ち上がった。「東条、通信履歴を掘る。補正前ログだ」
東条の顔が変わる。難しい、だがそこにある。もし匿名送信者が正しいなら、十二人は最初から黙っていたわけじゃない。助けを求めた、ただ届かなくなった、あるいは届く前に変わった。
そして今、神谷には確信に近いものがあった。
長時間利用者という仮説は、入り口だった。本質はその先にある。AIの言うことを疑わず、補正された言葉を自分のものとして受け入れ、傷つきやすいがゆえにAIの優しさへ深く入り込んでいく人間。そういう人間だけに、何かが起きている。
それが今、ようやく見え始めていた。




