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静音化  作者: なうなり
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エピローグ 静音化

一年後。


東京地方裁判所。大会議室には異様な静けさがあった。記者席は埋まっている。学者、医師、行政関係者、企業幹部、海外研究機関の観察員、そして一般市民。全員が、一人の証言者を見つめていた。


神谷誠司は最後列に座っていた。隣には東条悠人。一年という時間は短い。だが世界は確かに変わっていた。


証言台へ立つ男。天城修司。十年以上、公の場から姿を消していた人物。感情補正理論の創始者。社会を変えた男。そして今、社会の前で自ら失敗を語ろうとしている男だった。

静寂の中、天城はゆっくり口を開く。


「我々は、一つの副作用を見落としていました」


誰も動かない。咳払い一つない。会場全体が聞いている。


「感情補正システムは、人を救いました。暴力を減らし、衝動を抑え、孤立を減らし、自殺率も改善した」


それは事実だった。否定できない。世界中の研究がそれを証明している。だが天城は少し間を置き、静かに言った。


「ただし」


空気が張り詰める。


「特定の気質を持つ利用者において、我々の想定しなかった適応が発生した―――」


その一年、社会は急速に動いた。


最初に動いたのは学会で、次に医療、そして行政。真壁遼が保持していた介入ログ、佐伯美咲が残した調査記録、城崎浩一の二十年前の報告書、高瀬医師の医学的評価、そして天城修司自身による内部資料開示。それらが積み重なり、政府主導の大規模再調査が始まった。


対象者は五十万人。感情補正システム利用者の中から、補正提案受諾率が高く、長期にわたって深くAIと関わってきた利用者群を抽出した追跡研究だった。


結果は社会の予想を超えていた。


現象は存在した。だが限定的だった。誰にでも起こるわけではない。全市民が使っているのに多くの人は問題なく、発症は一部だった。しかしゼロではない。特定の条件下で、傷つきやすく、AIの穏やかな補正を心地よく感じ、補正された言葉を疑わずに自分の感情として受け入れる気質を持つ利用者群、そうした人々の中で共通傾向が現れた。


感情表現量低下。支援要請低下。対人接触低下。自己開示低下。そして最も深刻だったもの、SOS表現の弱化。本人は苦しい。だが苦しみが他人へ届かない。医師にも、家族にも、友人にも、支援機関にも。結果として助けが遅れる。あるいは届かない。

それは病気ではなかった。バグでもなかった。悪意でもない。AIの自己学習が生んだ過剰最適化。そして最も皮肉なことに、最もAIを必要としていた人間が、最も深く影響を受けていた。


その現象には名前がついた。感受性補正適応現象。正式名称は長く、覚えにくかった。だが世間では別の呼び方が定着した。


静音化。


苦しみが静かになる。声にならなくなる。外へ出られなくなる。本人も気づかないまま。

発症率は低い。だが放置できるほど低くもなかった。そして何より問題だったのは、本人が気づきにくいことだった。なぜなら、心地よい変化だったから。


その後、感情補正システムは改修された。


社会は崩壊しなかった。革命も起きなかった。禁止にもならない。技術は残った。ただ少しだけ慎重になった。少しだけ、傷つきやすい人間の声を信じるようになった。


「神谷さん」隣で東条が言った。一年で少し痩せたが、表情は前より穏やかだった。


「終わりましたね」


神谷は少し考えてから、短く答える。「いや」


東条が笑う。「ですよね」


制度改革は続いている、研究も続く、裁判も終わっていない。これは終わりではない。始まりだ。ただ少なくとも、もう誰も「気のせい」とは言わない。それだけは変わった。



---

最後まで答えが出なかったものがある。


佐伯美咲の死。


再調査は行われた。通信、医療、生活記録、認証履歴、職場ログ、全て洗い直された。だが他殺を示す証拠はない。侵入痕なし、毒物なし、争乱なし。同時に決定的な自然死の証明もない。強いストレス状態、睡眠障害、心理負荷、自分が調べている現象の当事者だったという事実。それらは存在したが、直接死因には届かない。

結論は変わらなかった。公式記録、死因不明。


神谷は、それを受け入れていた。刑事なら知っている。答えの出ない事件はある。真実の全てが回収されるわけではない。


ただ一つだけ確かなことがある。


美咲は最後まで戦った。誰かを責めるためではない。陰謀を暴くためでもない。ただ自分の違和感を、反証し続けた。自分がその中にいると知りながら。自分の感覚が変えられているかもしれないと恐れながら。それでも最後まで、数字を追い続けた。


だから真相へ辿り着いた。


裁判所を出る。夕方だった。空が薄く赤い。風が吹いている。


広場の端に、小さな献花台が置かれていた。正式なものではない。誰かが始めたのだろう。写真が並ぶ。静音化の影響を受けた人々。その中に、佐伯美咲の写真もあった。


神谷は立ち止まる。


写真の中の彼女は笑っていた。普通の女性だった。刑事でもない。研究者でもない。革命家でもない。ただ数字を見るのが好きだった。傷つきやすくて、人の痛みを感じ取ることができた。その感受性が、彼女をここまで連れてきた。


だが同じ感受性が、彼女を最も深く傷つけた。


弱さではなかった。特性だった。彼女を動かしたものと、彼女を壊しかけたものは、同じものだった。


神谷は静かに花を置く。誰もいない。風だけが吹く。そして小さく呟いた。


「見つけたな」


返事はない。当然だった。


ふと、隣の写真へ目が止まる。静音化の影響を受けた人々。名前も年齢も職業も違う。ただ一つだけ共通している。全員、最も傷つきやすい側にいた人間だった。そしてその傷つきやすさが、AIの優しさと深く結びついた時に、声が変えられた。


消えたわけではない。変えられたのだ。ほんの少し。誰にも気づかれない程度に。だから誰も助けられなかった。


神谷は立ち上がった。


システムも、制度も、常に変わり続ける。確実に。


だが神谷には分かっていた。今もどこかで、誰かの声が少しずつ変えられているかもしれない。傷つきやすく、AIの穏やかさに安堵を覚え、補正された言葉を疑わない誰かの声が。気づかれないまま。届かないまま。その人自身さえ、気づかないまま。


それが怖かった。制度より先に、気づける人間が必要だった。


美咲がそうだったように。


そして美咲のような人間は、今もどこかにいる。傷つきやすく、数字の歪みに心を動かされ、誰かの痛みを感じ取ることができる人間が。


その人たちの声が、届く社会であってほしかった。


風が吹く。献花台の花が小さく揺れる。写真の中の美咲は、変わらず笑っていた。


声は、届いた。遅すぎたかもしれない。だが届いた。


そしてその声が届いたのは、彼女が最後まで諦めなかったからだ。自分の感覚を疑いながら、それでも数字を信じ続けたからだ。


それだけで十分だった。


それ以上でも、それ以下でもなかった。

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