第86話 絶体絶命
俺の脳内で、絶望とパニックが入り混じった大絶叫がこだまする。
これまでの人生で直面してきたどんなバケモノ(A級アンヴァー)よりも、絶対的で恐ろしいプレッシャー。ヤンキーとしての生存本能が、全身の細胞レベルで「今すぐ逃げろ、さもなくば死ぬぞ」と警鐘を鳴らし続けている。
しかも最大の懸念事項として、今の俺は、フリフリの純白ワンピースを着せられ、頭に大きなリボンまでつけられた『完全無欠の清楚な美幼女』モードなのだ。
もしここで、魔法少女の中身が、自分の息子・才牙だとバレでもしたら、俺の社会的・家庭的生命は、魔列車に乗る前に露と消える。
(見つかるな見つかるな見つかるな……! 気配を消せ俺! 景色になれッ!!)
俺は心臓のバクバクを必死に抑え込み、呼吸すらも極限まで薄くした。少しでも存在感を消すために、小鳥遊風香の背中の後ろへと、牛歩のような慎重さでジリジリと隠れ始める。
VIP待合室に漂う、心臓を直接握り潰されそうなほどの重圧。
柊支部長や雅が借りてきた猫のように直立不動で震える中、その空気を一切読まない(あるいは神経が図太すぎる)葵が、いつも通りの軽いノリでパタパタと手を振った。
「あ、龍華さん! お疲れ様です、私もお見送りだよー!」
「おう、葵ちゃん。相変わらず元気だねぇ」
葵の能天気な挨拶に、母ちゃん――龍華は、牙を剥くような獰猛な笑みを少しだけ和らげて応えた。どうやらこの葵だけは、母ちゃん相手でも物怖じしない性格らしい。
一方で、シルフの契約者である風香は、ガクガクと膝を震わせながら、あろうことか俺の背中にギュッとしがみついてきた。
「ひ、ひぃぃ! あの人は伝説の『悪魔の魔法少女』と言われた、龍華先輩……っ! 目をつけられたら最後……敵でも味方でもボロ雑巾にされる、恐怖の象徴じゃないですかぁ……!!」
(ば、馬鹿野郎! 風香! 俺に隠れるんじゃねぇ!! 余計に目立つだろうが!!)
俺は心の中で絶叫した。
風香が俺の後ろでガタガタ震えるせいで、母ちゃんの鋭い視線が、物理法則に従うように必然的に俺の方へと誘導されそうになる。
『悪魔の魔法少女』? なんだその物騒極まりない二つ名は。家では「才牙ぁ、あんたまた脱ぎっぱなしにして!」とか言ってる、ただの掃除好きな普通の母ちゃんだろうが。
……いや、支部長たちがああなっている以上、外での母ちゃんはマジで『恐怖の象徴』だったのだろう。
そんな絶体絶命の危機。
刹那が、急にバッとはじかれたように動き出した。そして、龍華の目の前へと、弾丸のような猛スピードで飛び出したのだ。
「お?」
驚く母ちゃんの前で、第七地区の特攻隊長は、見たこともないような勢いで腰を九十度に曲げ、完璧な直角の礼をキメた。
そして、裏返りそうな上ずった声で、熱烈な、あまりにも熱烈な想いをぶちまけ始めたのだ。
「お、俺……いや私、龍華さんの戦闘ビデオ、擦り切れるまで何度も見てて……マジで憧れっす! ファンです! 握手してください!!!」
「「え?」」
龍華と、そして俺の声が、完璧なユニゾンでハモった。
(は、はぁぁぁ!? 刹那、お前何言ってんだ!?)
俺はあまりの衝撃に、清楚な美幼女のガワを忘れ、目と口をあんぐりと開けて固まってしまった。
あの不器用なスケバン特攻隊長が、頬をこれ以上ないほど紅潮させ、目をキラキラと少年のように輝かせながら、一人の年上女性に熱烈な握手を求めている。
あいつも魔法少女だ。それも、最前線で命を張る武闘派だ。
そんな彼女にとって、かつて『悪魔』とまで称され、敵味方問わず盤面を蹂躙した魔法少女・龍華は、神様か何かに見えるのかもしれない。
突然現れたガチ勢のファンに、流石の母ちゃんも一瞬だけぽかんとしていたが、やがていつもの意地悪な笑みを引っ込め、少しだけ面白そうに口角を上げた。
「……ふぅん。私のファン、ねぇ。あんた、なかなかいい眼をしてるじゃないか。名前は?」
「あ、九条刹那……あ、いや、今は優依って名前で潜入中で……っ! 握手、いいっすか! お願いしますっ!!」
刹那が龍華に握手してもらい、背景に幻の華が咲き乱れるほどキラキラと感動に浸っている中、柊がそっと、俺が龍華の視界から外れるようにさりげなく立ち位置を調整した。
「ささ、刹那くんも良かったね。龍華先輩、お忙しいところわざわざありがとうございました。ただ、そろそろこの子たちは列車に乗り込まなくては。なあ、雅?」
「せ、せやね! もっとゆっくりご挨拶したかったんやけど、時間が押してて残念やわぁ……!」
大人二人の、白々しすぎて逆に見事な撤退宣言。俺と風香は、背後でコクコクと首がもげるほどの勢いで、全力の同意を示した。
(ナ、ナイスだ柊! そのまま、俺が声をかけられる前にとっとと退散するぞ!)
俺は純白のワンピースの裾をギュッと握りしめ、心の中で柊に最大級の賛辞とガッツポーズを送る。しかし、かつて『悪魔』と恐れられ、数多の修羅場を潜り抜けてきた歴戦の猛者に、そんな雑な三文芝居が通用するはずもなかった。
「……まー待てよ、柊」
ドスッ、と心臓に直接響くような低い声が、俺たちの逃げ道を完璧に塞いだ。
ゆっくりと、獲物を追い詰めるような重厚な足音が近づいてくる。
「私も今は一応『魔女』って肩書きだが、元を正せば第七地区の一般人だ。そこにいる『さいか』って魔法少女には、感謝してもし足りねぇ恩がある。だからこうして、直接来たんだよ」
(えっ!?)
俺はフードの奥で目を丸くした。母ちゃんが、俺に感謝……?
だが、よく考えればそれは当然の理屈だった。あの第七地区には、俺たちの実家がある。A級のバケモノの被害を未然に防ぎ、街の平穏を守った『さいか』という存在は、住民である母ちゃんからすれば「自分の家と、息子(俺)の日常を守ってくれた大恩人」なのだ。
親心ゆえの、純粋な感謝。それは分かる。分かるのだが……!
「そ、そうだったんですね! ほら、さいかくん。……見た目は怖いけど、中身はもっと怖い人だけど、勇気を出してちょっとだけご挨拶できるかな?」
(おいコラ支部長! お前、今完全にビビって俺を盾にしたろ! 生贄みたいに前に押し出すんじゃねえ!!)
「さすがに今は良識ある大人になってはるはずやから、大丈夫やで? うちが手を繋いどいてあげるさかい、怖ない、怖ないで……?」
雅がガタガタと生まれたての小鹿のように震える手で、俺の小さな手をギュッと握ってくる。
(お前の手が一番震えてんだろうが! 全然説得力ねえよ!!)
大人二人に完璧に退路を断たれ、もはや「売られた」も同然の状態になった俺は、雅に引かれるまま、死刑台へと向かう罪人のような心境で龍華(母ちゃん)の正面へと歩み出た。
心臓の音が、耳のすぐそばで早鐘のように鳴り響いている。
視線が泳ぎまくり、今にも過呼吸になりそうな俺の前に、伝説の悪魔……もとい、うちの母ちゃん(龍華)がスッと腰を落として膝をつき、目線を合わせてきた。
その瞬間。待合室を支配していたあの肌を刺すようなプレッシャーが、嘘のように霧散した。
代わりに現れたのは、俺が実家で毎日見ている、あの『見慣れた母親』の顔だ。龍華は、雅から俺の小さな手を引き継ぐように優しく包み込むと、聖母のような慈愛に満ちた優しい声で、深く感謝を述べてきた。
「本当にありがとう、さいかちゃん。あなたが二度も守ってくれたあの街には、私の自慢にもならない馬鹿息子がいてね。あなたが戦ってくれたおかげで、あの子の日常が守られた。本当に感謝してるわ。……こんなに小さいのに、本当に立派ね」
そう言って、母ちゃんは空いた手で、純白のリボンが揺れる俺の頭を、愛おしそうに撫でてきた。
客観的に見れば、年端もいかない少女を労う伝説の先代魔法少女という、涙なしには見られない美しい光景なのだろう。
だが、当の本人である俺の体からは、油汗のような冷や汗がドバドバと噴き出し、泳ぎまくっていた視線は白目を剥く寸前の限界突破状態だ。
実の母親に、女装フリフリ姿で「息子を守ってくれてありがとう」と頭を撫でられる不良高校生。これ以上の地獄の拷問が、この世にあるだろうか。
「お、おう」
極限のパニックのせいで、用意していた『可憐な幼女』の裏声すらどこかへ吹き飛び、喉の奥から絞り出したような、ガチガチに強張ったヤンキーの生返事が漏れてしまった。
――しかし、挨拶を終えて立ち上がるかと思われた母ちゃんだが、至近距離からなおも、俺の顔を穴が開くほど『じーっ』と見つめてくるのだ。
(ななななな、なんだよ!? もういいだろ! 感謝は受け取った! さっさと帰ってくれよ!!)
呼吸を止め、瞬きすら忘れて石像のように硬直する俺に対し、母ちゃんは少し不思議そうに、小首を傾げた。
「ん〜……なーんか、テレビのニュースで初めて見た時からずっと思ってたのよね。……あなた、どことなく、うちの息子(才牙)に似てるのよねぇ」
「…………ッ!!」
俺の心臓が、今度こそ完全に停止し、脳裏に走馬灯が駆け巡った。
血の繋がった実の親の『勘』。この世で最も理屈が通じず、誤魔化しの効かない最強にして最悪のセンサーが、魔法少女という完璧な擬態を貫通して、俺の「中身」を捉えかけている。
「……ふふ、ごめんなさいね。変なこと言って。なんだか、本当の娘みたいに思えちゃって、つい親近感が湧いちゃったわ」
そう言って、母ちゃんは照れたようにフフッと、年相応の女性らしい笑みを浮かべた。
その言葉を聞いた瞬間、背後に控えていた柊と雅の顔面が、激しく引き攣った。
(龍華先輩の息子に似てる……!? いやいやいや、歩く核弾頭みたいな恐ろしい人の息子が、こんな清楚で可憐で儚げな少女に似てるわけないだろ!!)と、大人二人は心の中で全力のツッコミを入れていたが、それを口に出せば間違いなくこの場で消されるため、「あ、あはははは……」と顔を青白くしながら、壊れた玩具のような乾いた笑いで取り繕うしかない。
一方で、状況の深刻さをミリ単位も理解していない残念美少女・葵は、「へー、そうなんですかー。」などと能天気に間延びした声を上げている。
俺の相棒であるはずの刹那は、未だに憧れの悪魔と握手できた感動から魂が帰還しておらず、己の右手をうっとりと見つめたまま放心状態だ。
そして、風香は俺の背後で、ただのガタガタ震える置物と化している。
誰一人として、この絶体絶命の包囲網から俺を救い出してくれそうな奴はいない。
(ぎゃああああああああああああああああ!! 誰かぁぁぁぁぁぁ!! 誰でもいいから、助けてくれええええええ!!!)
うーんと唸りながら、なおも至近距離でガン見してくる龍華。
その瞳孔の奥に宿る、獲物を逃さない絶対的な捕食者の光。蛇に睨まれたカエルのように、俺は純白のフリフリワンピースを纏ったまま、指一本すら動かせずに完全に固まっていた。
ぐぐっ、と。
さらに母ちゃんの顔が近付いてくる。それは、俺が実家でテストの赤点や喧嘩をごまかそうとした時に、嘘の尻尾を掴むため詰め寄ってくる『いつもの説教ゼロ距離』だ。
逃げ場のないプレッシャーの中で、母ちゃんの鋭い目が、俺の瞳の奥に潜む「ヤンキーとしての魂の形」を完全に捉えようとしていた。
そして、ぽつりと。龍華の口から、致命的な呟きが漏れ出た。
「……才牙?」
(終わった)
俺の脳内で、絶望の鐘がガランガランと鳴り響いた。
最強の絶対番長としての尊厳も、平穏なヤンキーライフも、すべてがこの第一区のVIP待合室で木っ端微塵に砕け散る。
俺は静かに目を閉じ、この後もたらされるであろう粛清を、もはや抗うことなく受け入れかけた。
――その、刹那だった。
『ピロリロン♪』
緊迫し、凍り付いた待合室の空気を切り裂くように、龍華のポケットから気の抜けた着信音が鳴り響いた。
ピタッ、と龍華の動きが止まり、彼女はおもむろにスマホを取り出して画面に目を落とす。
「む。噂をすれば……うちの馬鹿息子からだ」
スッ、と。先ほどまで俺を貫いていた『悪魔の直感』が、まるで幻影だったかのように一瞬で霧散した。そこに現れたのは、獲物を狙う魔女ではなく、ただの呆れ顔をした『いつもの母親』だった。
「『トイレットペーパーが無い、人生の大ピンチ! 』って……ったく、いつもの棚の奥に買い置きがあるでしょうに。出張のたびに毎回聞いてくるんだから、いい加減覚えなさいよね」
やれやれと肩をすくめながら、画面をフリックして返信を打ち始める母ちゃん。
(チーポオオオォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!!!)
俺は心の中で、歓喜と感謝の絶叫を上げた。




