4話 悪意の一手
ロザリンデはよく眠るタイプの人間だ。一度眠れば滅多なことでは起きないが、その日はなぜかふと目が覚めた。
「どうして、目が覚めたのかしら……」
こんなことは初めてだった。再び眠ろうとしたが、妙にそわそわして眠れない。
気分を変えようと、カーテンを開ける。まだ夜明けは遠く、丸い月が夜空に煌々と輝いていた。
鍵を開け、ベランダに出る。ロザリンデのために整えられた美しい庭を眺めようと、庭に目を向けた。
「え……」
庭にひとつの影があった。
男が、ロザリンデのいる部屋を見上げている。
「あなた、まさか――」
ロザリンデと目が合ったことに気付いたのか、男は慌てたように踵を返した。
「待ちなさいっ!」
男の影がみるみるうちに小さくなっていく。
ロザリンデはベランダの手すりから身を乗り出し、逃げていく男を食い入るように睨みつける。
間違いない、あの男は――。
「お嬢様!? どうなさったのですか!」
異変を聞きつけた護衛がロザリンデに駆け寄る。夜着のままベランダに出ていたことに眉をひそめ、彼女は着ていた上着をかけようとした。
だが、ロザリンデはその手を払いのけ、外を指さした。
「あの男がいたの。今すぐ追いかけて捕まえなさい!」
「え……あの男とは」
「ライナスよ! あの無礼者、まだこの屋敷にいたの! 解雇したはずなのに……ふざけてるわ! 相応の報いを与えてやらないと、気がすまないの!」
護衛は困惑したまま動こうとはしない。苛立ったロザリンデは彼女を叱責し、ライナスを追いかけさせた。
だが、時間が経ってしまったからか、ライナスを捕まえることはできなかった。
翌日、ロザリンデは兄に抗議した。
何故、解雇したはずの男がまだこの屋敷にいるのかと。自分に嘘をついたのかと。
「ライナスには相応の罰を与えたと言っただろう? その男は他の使用人の誰かだ。寝ているはずのお前がいたから、びっくりして逃げただけだろう」
「嘘よ! この目でしっかり見たもの! あの男は間違いなくライナスだったわ!」
「……お前は寝ぼけていたんだよ」
言い聞かせるように告げる兄に、ロザリンデは悟った。
兄は本当のことを言うつもりがなく、適当にこの場を凌ごうとしている。
たとえロザリンデがライナスをひっ捕らえて兄の前に差し出したとしても、兄は理由をつけてライナスを解雇しないだろう。
ライナスの剣の腕は相当なものだと聞いている。治安の悪化している今、優れた護衛を手放す気がないのだろう。
ロザリンデは腹を立てた。嘘をつかれていたことも、自分の希望が叶えられないことも、苛立たしくて仕方なかった。
どうすれば、あの男をこの屋敷から追い出すことができるのか。
ロザリンデは一晩考え、答えを出した。
「呼び出してほしいって……ライナスさんをですか?」
勤め始めて日が浅い侍女は、ロザリンデの頼みに戸惑いを見せた。
兄にライナスの存在をロザリンデに悟らせるなと厳命されているのだろう。
「そう。……ああ、隠しても無駄よ? まだこの屋敷にいるのはわかってるんだから」
「ですが、お嬢様……」
「別に解雇するつもりはないわ。ただ話がしたいだけ。お兄様には内緒で来るようにと伝えるのも忘れずにね。……呼んできてくれるでしょう?」
圧を強めて言えば、侍女は怯えながら了承した。
そして約束の日時に、侍女はロザリンデの部屋にライナスを連れてきた。
「お嬢様……」
気まずそうな表情を浮かべたライナスに、ロザリンデは笑顔を浮かべた。
「この間は悪かったわ。せっかくあなたが持ってきてくれた花をダメにしてしまって」
「……! い、いいえ! あれは俺が無神経だったせいです! お嬢様に不快な思いをさせてしまい、申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げるライナスを、ロザリンデは静かに見下ろす。
「あの花は私を喜ばせるために持ってきたのよね? 私のためを思って」
「……はい」
「なら、あなたにお願いがあるんだけど」
ライナスが顔をあげる。先日の失態を挽回できるチャンスだと思っているのか、期待の籠もった眼差しをロザリンデに向ける。
「私を、ここから連れ出してくれない?」
緑の目が大きく見開かれる。
神の子が外に出ることは滅多にない。希少で神秘的な存在は邪な者に狙われやすく、拐かして生贄や儀式に用いる者が過去に続出したからだ。
神の子は屋敷なり大聖堂なりに大事に囲われる。大聖堂では時折開かれるミサなどで民衆へ講演をすることもあるらしいが、保護されてからは一度も外に出ることなく生涯を終えるのがザラだった。
「お嬢様、それは……」
ロザリンデは神の子であり、貴族でもある。ただの使用人が護衛もなしに連れ出すなど大罪だ。
バレれば、ただではすまないだろう。
「少しの時間でいいのよ。ちょっと街を見てみるだけ。いなくなったのに気づかれる前に戻るわ。……ダメかしら?」
惑うように緑の瞳が揺れる。
それをロザリンデはじっと見つめた。この男は必ず頷くだろうと信じて。
ライナスは目を閉じ、大きく息を吐いた。次にその瞳が開かれた時、そこには覚悟の色があった。
「お嬢様が望まれるのでしたら……お連れいたします」
ロザリンデは満足気に微笑んだ。
これで、この男を屋敷から排除できると。
ライナスと約束してから三日経った雨の日、作戦は実行された。
事前に用意していた町娘の服をまとい、焦げ茶のウィッグをつける。赤い瞳を隠すことはできないが、帽子を被ればバレにくいだろう。
今日は雨だから、雨傘で隠すこともできる。
護衛や侍女には一日部屋に籠もるから放っておくように命じ、ロザリンデはこっそりと部屋を抜け出した。
あえて癇癪を起こしたフリをしたから、彼女たちはロザリンデが呼ぶまで控室で待機している。そうしなければ、叱責されると学習しているから。
おかげで誰に見咎められることもなく、ロザリンデは屋敷を抜け出すことができた。
日頃の行いはこういうところで役に立つのだとロザリンデはしみじみ思った。
「お嬢様」
約束の場所にライナスは既に来ていた。彼は緊張した面持ちでロザリンデに手を差し出す。
「行きましょう。……まだ午前中なので、散策も十分楽しめるでしょう」
使用人用の出入り口に向かう。この屋敷は厳重に警備がされていて、常にふたりの門番が配置されている。
だが、外から中への審査は厳しくとも、中から外へはおざなりであることが多い。外出時にライナスと共にいたと門番が覚えていれば、入る時も容易いだろう。
ライナスにはそう伝えていた。
「お嬢様は甘い物がお好きでしたよね? おすすめのお店があるんです。女性に人気のところでーー」
ロザリンデの手を引きながら、ライナスは語る。やけに饒舌なのは緊張をほぐすためだろうか。
使用人の出入り口が近づくと、ロザリンデの正体を悟らせないために、ライナスは敬語を外した。
ライナスは門番に連れの侍女とともに外出をすることを告げる。
門番はちらりとロザリンデに目を向けたが、ただの侍女だと判断したのか、すぐにライナスに視線を戻し、通行の許可を出した。
「さあ、行こうか」
安堵した様子のライナスは、ロザリンデの手を引いて屋敷の外に一歩足を踏み出す。
その時だった。
「――お待ち下さい、お嬢様!」
あの協力者の侍女の声が響き渡る。
繋いでいたライナスの手が強張ったのが、ロザリンデにもはっきりとわかった。
ロザリンデはライナスの手を振り払う。
「えっ……」
ライナスがロザリンデを振り返った。驚愕に見開かれた瞳が、ロザリンデを見つめている。
「もう、茶番は終わりよ。……ちょっと! 何ぼさっとしてるの! この誘拐犯を捕まえなさい!」
帽子を脱ぎ、白銀の神と赤い瞳をあらわにしたロザリンデは、門番を睨みつける。
門番は顔色を変え、慌ててライナスを捕らえた。
地面に押さえつけられたライナスは泥にまみれながら、ロザリンデを見上げる。拘束された時に打ちつけたのか、その額から血が流れている。
「最初から……このつもりだったんですか?」
ライナスが声を震わせ、ロザリンデに問う。
「全部、嘘だったんですか? ここから連れ出してほしいって、言ってたのに――」
「当たり前よ。こんな快適なところから、誰が出たいと思うの? それに、あなたのような薄汚い男に連れ出してもらいたいなんて思わないわ」
「そう、ですか……」
ライナスの顔はひどく青ざめていた。
彼はうつむき、肩を震わせたかと思うと笑い声を上げた。
笑い声にロザリンデに眉をひそめると、ライナスはロザリンデを睨みつけた。
「――なら、お前には報いを受けさせてやる。傲慢でわがままなお前に相応しい報いを」
吐き捨てるように告げたライナスの声はさほど大きくなかったのに、ロザリンデの耳にはっきりと届いた。
不敬を重ねる男の表情には後悔も恐怖もなく、ただ煮えたぎるような怒りがあった。
慌てて門番がライナスの首を押さえつける。彼の呻きが響く中、ロザリンデは興味を失ったように踵を返した。
ロザリンデ・グレイディがライナスの姿を見たのはそれが最後だった。




