3話 希望と失望
「お兄様、それ本当なの!?」
目を輝かせるロザリンデに、兄ジョルジュは朗らかに笑った。
「ああ。お前がどうしても本物が見たいと言っていたからね、分けてもらえることになったんだ」
「まあ……! あの幻の花がこの目で見れるなんて、夢みたい!」
ロザリンデが一目見て心を奪われ、よく刺繍している異国の青い花。その現物を兄が取り寄せる手配をしてくれるという。
「友人の令息にあの国の伝手があったんだ。多少無理は言ったけど、なんとかなりそうだよ」
ロザリンデは青い花が届くのが待ち遠しかった。
外に出れない身である以上、実物を見ることはできないと諦めていた。だから、その虚しさを埋めるために花を刺繍して気を紛らわせていた。
叶わぬはずの夢が叶えられることに、ロザリンデはとても喜んだ。生まれて初めて神に感謝した。心から祈りを捧げることができた。
けれど、ロザリンデの期待は裏切られることになった。
「すまない、ロザリンデ……。あの花は、輸送途中に盗まれてしまったらしい」
兄から告げられた言葉が、ロザリンデには理解できなかった。
呆然とするロザリンデに、兄は言い訳を並べ立てる。
厳重に監視をつけて運んでいたのだが、盗賊団に襲われ、多勢に無勢で荷をすべて奪われてしまった。王都は平穏だが、地方では治安が悪いところもあり、襲撃されてしまったらしい。
「また譲ってもらえないか頼んではいるが、難しいかもしれない。……でも、どうにかしていつかは手に入れるから――」
「いらない!」
「ロザリンデ……」
ロザリンデは次から次へとこぼれる涙を拭うこともせず、目の前の兄を睨みつけた。
「もう何もいらないっ! お兄様の嘘つき! 大嫌い!!」
手元のクッションを兄に投げつけ、ロザリンデは寝室に駆け込んだ。怒りのままに青い花が描かれた絵画を破り捨て、自ら刺繍を施したハンカチを地面に叩きつける。
そして、ベッドに飛び込み、ひたすら泣きじゃくった。
ロザリンデは失望した。この世のすべてが憎いと思うほど絶望した。
部屋に引きこもり、食事や入浴などの世話をする侍女以外との関わりを絶った。
数日経ち、ロザリンデはようやく気を持ち直した。ただ、あの青い花を見るのは嫌で、絵画も刺繍もすべて捨てさせた。
ロザリンデの荒れ具合を見てか、家族も使用人もその後、青い花の話をすることはなかった。
何事もなかったように、この騒動は終わるはずだった。
だが、ロザリンデが立ち直って二週間後、それは突然訪れた。
「ロザリンデお嬢様」
聞き覚えのある低い声に足を止める。庭の花から声のした方に目を転じれば、久しぶりに見る顔があった。
「ライナス……あなた、最近見なかったわね」
「ええ。しばらく家の都合でお休みを頂いていておりました」
「そう……」
気の抜けたようなロザリンデの返事に、ライナスは戸惑いを見せた。
いつも高慢な態度を見せるか、怒鳴り散らしているかのどちらかだったから、どう対応していいのかわからないのだろう。
家族や他の使用人も同じようにロザリンデへの接し方に苦慮していた。以前にも増して、ロザリンデを腫れ物のように扱う。
それに何も思わないほど、ロザリンデは何もかもがどうでも良かった。毎日何かしらに腹を立てたりわがままを言ったりしたが、ここしばらくはそれもなかった。
「用件はそれだけ?」
「あ……いえ! お嬢様にお渡ししたいものがあって……」
ライナスは後ろ手に隠していたものを、ロザリンデに差し出した。
ロザリンデは息を呑む。時間が止まったかのように感じられた。
瑞々しい鮮やかな緑の葉に、青く輝くような花びら。それらに相応しい美しく高貴な香りがふわりと漂う。
ライナスの腕に抱えられていたのは、ロザリンデが求めてやまなかったあの青い花だった。
「これ……」
「お嬢様、以前この花が好きだとおっしゃっていたでしょう? ドレスブルクに立ち寄った時に見かけたので――」
ライナスは何か言っているが、ロザリンデの耳には入らなかった。
ロザリンデはただ差し出されたそれを見つめる。
異国では奇跡と讃えられる青い花を。一度はロザリンデに夢を見せ、手酷く裏切った希望を。
ロザリンデの胸に強い感情がこみ上げる。その想いに突き動かされるように手を伸ばし――ライナスの頬を打った。
「お嬢、様……?」
「――今さら……今さら何よっ!」
愕然とした表情を浮かべるライナスを、ロザリンデは睨みつける。
ただ純粋に青い花を求めていた時なら、喜んで受け取っただろう。
けれど、もうロザリンデは青い花を求めてはいなかった。ロザリンデの心を弄んだ青い花はこの世で最も見たくないものに成り果てていた。
そんなものを、まるでロザリンデのためのように差し出すなんて。――よりにもよって、この男が。
「私を馬鹿にしているの!? こんなものいらない!」
ライナスから鉢を奪い取り、地面に叩きつけた。
鉢の割れる甲高い音が庭に響く。
何事かと使用人たちが様子を見にやってきたが、ロザリンデは周囲を気にすることなく、ライナスを罵る。
「人を呼び止めてまでこんな無礼なことをするなんて、恥知らず! 無作法者っ!」
ロザリンデはひどく憤り、荒れていた。沸き上がる怒りをライナスにぶつけた。
「お嬢様、とりあえず一度部屋に戻りましょう」
「ライナス、お前はこちらへ」
侍女長に連れられながら、ロザリンデは尚もライナスを詰る。
「だから、男爵家なんて下賎な人間をこの屋敷に入れたくなかったのよ!」
自分を不愉快にした相手を、自分以上に傷つけたかった。だから、あえてライナスの家を、彼の血筋を今まで以上に侮辱した。
ライナスは家柄を馬鹿にされるのを嫌っていたから。もう顔には出さなくても、内心では怒るだろうと思って。
けれど、その場に立ち尽くすライナスは――今にも泣きそうに顔を歪めていた。
ロザリンデはすぐに兄ジョルジュに事の顛末を話し、ライナスを解雇するように頼んだ。不快なあの男の顔を二度と見たくないと。
先程のことを思い出すだけで、ロザリンデはひどく苛立たしい気持ちになる。今すぐ、排除したかった。
兄はいつもロザリンデの願いを叶えてくれた。ロザリンデを誰よりも理解してくれ、心を砕いてくれていた。
だから、今回もすぐにロザリンデの望むように動いてくれると期待した。だが、普段なら笑顔で了承してくれる兄は渋い顔をする。
「ライナスは無神経なことをしてしまったかもしれないが……彼はしばらく不在で、お前の状況を知らなかったんだ。悪気はない」
「でも! あの花を、あてつけのように見せたのよ!? だいたい、どうして希少な花をあの男が持っているの! お兄様が取り寄せてくれたのだって、滅多に手に入るものじゃないのに!」
「お前があの花を欲しがっていたのを知っていたから、わざわざ持ってきてくれたんだよ。ドレスブルクでも手に入りにくい花だから、相当苦労して持ってきてくれたはずだ。彼が屋敷に戻ってきた時に、お前に何があったか、私がすぐに伝えておくべきだったんだ。お前と彼はあまり話さなくなったし、まさか、彼が持ってきてくれているなんて思っていなくてね。怒るなら、私に怒りなさい」
「嫌よ! 私を傷つけたのは、あの男だもの!」
兄は深くため息をついた。
「ライナスには然るべき処分を与えておく。……もう、お前の前に姿を現すことはないから、安心しなさい」
兄はロザリンデの頭を撫でた。
まだ文句を言い足りなかったが、これ以上わがままを言う気にもなれず、ロザリンデは渋々了承した。
多少躊躇いは見せたが、兄は今までロザリンデの願いを無碍にしたことなどない。今回もロザリンデの希望通りに、ライナスを解雇してくれるだろう。
兄は約束を守ってくれたのか、それからライナスの姿を見かけることはなかった。
無礼者のあの男のことだ、もしかしたらこっそり屋敷に侵入するかもしれないと気を張っていたロザリンデは、安堵した。
それが兄の誤魔化しであったと知ったのは、半年後のことだった。




