生きる意味
そんなものはない、とよく言う。
それでも意味を求めてしまうのが人間なのだ、と言う。
僕が生きる意味。
人々が生きている意味。
亡くなった人々が生きてきた意味。
これからの人が生きていく意味。
森博嗣という作家の公式HPが更新終了を宣言した。
新作が生まれなくなることと論理的にはイコールではないが、そういうことなのかなと思う。
新作を追いかけてなかったくせに、なぜかショックだ。
「僕の世界にいても良い人」がいなくなることの悲しさかもしれない。
僕の世界を構築している。
生まれてからずっと。
とても狭く小さな世界だ。
ピンホールから外界を眺めて、恐怖に慄いたり、それでも食い扶持を稼ぐために、息を止めて外に出かけたりしている。
この世界を守ることに固執している。
そこに意味がない確率は高そうだ。
少なくとも、人が生きることに意味がない確率よりもずっと。
伊集院光のラジオも、森博嗣の作品と同時期に夢中になっていた。
今はどちらも疎遠だ。
しかし、自分にとって大事なコンテンツだったことは間違いない。
この感覚はなんだろう。
エヴァがちゃんとした最終話を描かなかったせいで、卒業できなかった大人がたくさん生まれてしまった、という解説をどこかでみた。
僕はギンガマンの最終話を、おそらく自発的に、見ることを避けた。
卒業したくなかったからだ。
サブスクで簡単に見られる現代になって、取り返すように結末を見たが、なんとも呆気なかった。
そこにはただ、彼らはもういないという事実と、この世界ではないどこかで今も泥臭く生々しく生きているという現実だけが転がっていた。
大人になったという消波ブロックを通していたものの、それなりに強い波が押し寄せた。
いずれはなくなる。
その前に飽きる。
離れる。
自分のことで忙しくなる。
子供が産まれて、とても忙しい。
いずれはなくなる存在。
その前に飽きるだろうか。
コンテンツではないのだ。
子供も僕も。
人々も。
この世界も。
コンテンツには意味がある。
理解できる理屈や、爽快な展開がある。
生きることに意味がないと言われるのは、理不尽な出来事や、予測のつかないことのなかで、他愛もないどうでもいいことばかりに終始しているからかもしれない。
コンテンツになりたい、のだろうか。
自分の人生をコンテンツにしたいのだろうか。
コンテンツに寄せようと必死になっている気がする。
だからコンテンツを摂取しているともいえる。
そうでないと、価値を感じられないような気がする。
感じる、ということに躍起になっている。
意味とは、それを感じられ、理解できることが条件のようだ。
脳の許容範囲、スペック以下のものである必要がありそうだ。
脳の外側で生きているのに、外側には意味がない。
大きすぎて脳に入らない、読み込ませることができない。
つまり意味がないのではない。
感じたり、理解できたりしないサイズ感なのだ。
という理解を、小さな脳の中で行なっている。




