気恥ずかしさ
昨日は職場の人とたくさん喋った。
家に帰ってから、なんとなく気恥ずかしさがある。
他人が自分の思い及ばないことを考え、行動し、その人にはその人の人生があるという当たり前のことが、まだどこか理解できていないような感じがする。
理解しようとしているのが、そもそも違う気がする。
ある種の理不尽だ。
他者という、自分の力ではどうにもならない存在。
それを認める、受け入れる、理不尽を引き受ける、拒絶しない。
一方で自分のこと。
自分の力でどうにでもなる部分と、どうにもならない部分を合わせもつ存在。
それを監視し、修正し、諦め、許していく。
日を跨ぎ、生活はまた習慣に還る。
昨日痛めた腕は、湿布のちからで回復し、ほとんど意識の外である。
あれだけ苛む痛みだったのに。
人間関係の気恥ずかしさはというと、こちらも確かに意識の外に追いやられた。
昨日は、他のことを考えようとしてもそわそわしてしまった。
今は、その感じはない。
しかし、思い出そうとすれば、感覚はリアルに蘇る。
それを感じた情景と感情がセットで思い浮かぶ。
自分へ向けられたベクトルが、リアクションの間違いによってスッと引き上げられた時の、なんともいえない寒々しさ。
視覚情報と感情が対になって、そのときの混乱を生々しく保存している。
絵は永遠。
身体感覚はその場でしか味わうことができない。
感情はその中間といったところか。
録画ばかり見ているから、それが印象づけられる。
例えば生放送の帯番組は、同じ構成だけれども毎回新しい内容だから、見続けていると過去の回が思い出せなくなる。
精神的苦痛も、同じ構成のものを味わい続けていれば、過去のディテールは思い出せなくなり、やがて慣れてくるのではないだろうか。
いや、大事なのは苦痛を味わうことではない。
大事なのは苦痛を感じなくなることでもない。
人生をより面白くすることだ。
そこを第一に考える。
苦痛はおまけ。
面白くしたくて、動いた結果だ。
気恥ずかしさもなんのその。
気恥ずかしいときの自分の方が、誠実に生きている。




