四の章・雷神
みしみしと月日は過ぎた。
秋が過ぎ、冬が死に、春が息絶え、再びの忌まわしい夏が来る。
忠白は大祭の訪れを、何より恐ろしく思っていた。出来ることなら、こんな狂った街を逃れて、かなめとふたりで生きていきたい。
あの夜以来、忠白にとっては誰も彼もが憎く思えた。愛しいかなめの苦しみの上にあぐらをかき、当然のように『幸せ』をむさぼる街の者……、
――そうして、彼らの与える食物で命をつなぐ己のことも、殺したいくらい憎かった。かなめとふたり、こんな狂った街を抜け出し、何をしても良い、ふたりでちゃんと生きていきたい。
けれど、かなめはいくら『逃げよう』と言っても、首をたてには振らなかった。どれだけ優しい性根なのか、彼女は『恩がある』と応えては、淋しそうに少し微笑ってみせるのだ。
日々は無情に過ぎてゆき、大祭を明日にひかえた月の晩。
忠白は茶をのせた盆を持ち、かなめの部屋の前に来た。『逃げよう』と、もう一度説得するつもりもあった。
(かなめ様……)
愛しい名前を口にしかけて、忠白はふっと息を呑む。部屋の内から、荒い息づかいが聞こえる。忠白はそっとふすまに手をかけて、中の様子をのぞきこむ。
……かなめが、がたがたと震えていた。ひたいに脂汗を浮かべ、何ごとかしきりにつぶやいている。
「恐い……怖い……痛い……こわい……っ!!」
忠白は言葉を失った。
――そうだ。彼女は優しいが故に、もろいのだ。人々の笑顔、柔い言葉、その裏にひそむ『逃げるな』『我らのために毎年死ね』という呪い。その全てが鎖となって、かなめの心身をがんじがらめに縛っていたのだ。
「かなめ様……っ!」
忠白が部屋の中に駆けこんで、少女の体を抱きすくめた。泣きながらすがりつく恋人に、忠白はまっすぐな声音で言いかける。
「逃げましょう、かなめ様。もう良い、もう良いのです。どのみちあなたはもう生贄にはなれません。あなたは……」
ふと言いよどんだ異国の王子が、甘いものの混じった声でささやいた。
「あなたは、『処女』ではないのですから……」
しゃくり上げた竜の子が、泣きながら笑ってうなずいた。――夏の月の濡れたように光る夜、ふたりは再び、ひとつになった。
千度目の大祭がやって来た。
死に装束を身につけた竜の子は、今年はいっそう凛として見えた。着物の胸もとへ短刀をしのばせた忠白が、人波の中から祭壇の恋人を見つめている。
『大御神様、雷神様、お二方に今年の生贄をお捧げ申す!!』
兵たちが声をそろえて叫ぶ。銀の刃を振り上げた兵のひとりから、かなめが狐の姫のごとく、すばやく剣を奪い盗る。
「なっ……っ!?」
予想もしていなかった展開に、兵も見物もどよめいた。
刃が踊る、血が奔る。竜の子は赤い瞳をぎらつかせ、物も言わずに兵たちを撫で斬りに斬り伏せる。
「ご乱心だ、生贄姫のご乱心だぁああっっ!!」
人垣がわっと崩れて惑う。忠白も人波に短刀を抜き、手当たりしだいに斬りつける。
――忌まわしい船の中とは違う。今は無理やり嗅がされた薬も、嬲られ尽くした体もない。大祭に浮かれ騒いでいた民衆を害するのは、紙を切るより簡単だった。
「かなめ!!」
初めて呼び捨てで名を呼んで、忠白がかなめの血に濡れた手をつかむ。逃げようとするふたりを追って、血気盛んな者たちが数にまかせて押し寄せる。その内のひとりの手のひらが、かなめの袖をつかんでがむしゃらにぐいと引き寄せる。
(駄目か――!!)
ふたりがもみくちゃに抱き合いながら、死ぬる想いで目を閉じる。その刹那、白い閃光が音もなく青い空を灼く。
カッ……ガカカッッ!!!
あまりにも唐突な雷が、暴雨のようにがつがつと街に突き刺さる。白く白く街の人々の目を灼いて、地を焦がし家々を燃え上がらせて暴れ狂う。
「たたりだ、雷神様のたたりだぁあーーっ!!」
「生贄を、生贄姫を殺せぇえええぇーーっ!!」
その声に呼応するように、一際大きな雷が叫んだ者の身を灼いた。隙をついて逃げようとしたふたりの目の前、真白く電撃が奔る。体を貫く衝撃に、目がくらむ、意識が消えかける。
(こうして死んだら、あの世ではずっと一緒にいられるだろうか……)
もろともに甘く切ない想いを抱き、ふたりは深く目を閉じた。……
「……起きろ。起きてくれ、ふたりとも」
美しい声が耳をくすぐる。ふたりがゆっくり目を開けると、目の前に綺麗な乙女がしゃがんでいた。
(かなめに、似ている――)
忠白は内心でつぶやいた。本当にその乙女、髪は白銀でつやつやと長く、目は赤く、かなめが成長すればこんな風になるだろうと思わせた。
「あなたは……?」
かなめが問いつつ、きょろりとあたりへ目をやった。どうやら室内のようだ。つるりと弧を描く壁の形は、卵の内部を想像させる。乙女は微笑し、泣きそうに赤い瞳を潤ませた。
「わらわは雷神にして竜神、名はなつめ。かなめ、お前の母親じゃ」
『え……えぇえっっ!?』
思わず声を上げたふたりに、なつめがくすぐったそうに微笑う。ひらりと赤い袖を振り、濃紺の帯を揺らして立ち上がる。
「ここは天つ国、お前たちを害そうとする者はない。茶でも飲もう。――そうしてわらわの懺悔話を、どうかゆるりと聞いてくれ」
雷神は、思っていたよりずっと柔らかな声と言葉で、むくげの花を思わすような笑顔を見せた。




