二の章・レグルス
新しい日々が始まった。
忠白の主人、かなめは穏やかで優しい少女だった。己の出自を何ひとつ語らぬ忠白に、友人のように接してくれた。ただ、初めて逢った時の言葉通り、かなめも己のことを何も語ってはくれなかった。
「あの方は、いったいどういう方なのです?」
板についた綺麗な敬語で問いかけても、宮の誰ひとり、はっきり答えてはくれなかった。かなめに口止めされているらしい。忠白がひとつ知ったのは、皆がかなめを呼ぶ時の『竜子様』という言葉。
(竜子……『竜の子』という意味らしい。いったい、どういうことだろう?)
何度本人に問いかけても、少女は思わせぶりな微笑で応えるだけだ。そんな毎日をくり返し、穏やかに日々は過ぎてゆく。
気づけば年が明け、春が過ぎ、夏が訪れた。忠白が『ひのもと』というこの国へ来て、もうじき一年が経とうとしている。
どうやら宮のある街には、夏の半ばに大きな祭りがあるらしい。祭りの主役らしいかなめが、舞の練習や何かに毎日かり出されるのを、忠白はもやついた思いで眺めていた。
(僕は何も知らないんだ。かなめ様のこと、『竜子様』のこと)
知りたい――。
その思いは、日に日に大きくなっていった。今はもう、忌まわしい過去の話と引きかえにも、少女の正体を知りたかった。それほど忠白の胸の内で、かなめの存在は日ましに大きくなっていた。
ある昼下がり、部屋にふたりきりの頃合いを見はからい、忠白はかなめにこう告げた。
「レグルスです」
「……ん?」
「僕の真名は、レグルスです。レグルス=レヴァリタキァ=レィスカルス」
いきなりの告白に、少女はきょとんとした顔をした。それから静かに笑みを浮かべて、茶化すように言い返す。
「ほぅ? ずいぶんと難しい名だ。何かの呪文か、異国の王子の名のようだのぅ」
「ええ、その通りです。自分は、異国の王子でした」
少女がふうっと真顔になって、それから淋しげに微笑んだ。ついとレグルスに背を向けて、くしを手にとり王子に渡す。
「髪を梳いてくれ。レグルス? だったか……」
「忠白でかまいません。忠白が良いのです」
「……そうか。ならば、忠白。改めて言う、髪をすいてくれ」
「喜んで」
さらり、さらり。
指に触れる感触まで美しい髪を、静かな手つきですきながら。忠白は、昔の悲劇を打ち明けた。
「僕は、小国の王子でした。先祖代々『王の家系』で、父は少し気の小さいところもありましたが、穏やかな良い王でした。母は優しく、僕は一人子でしたが、可愛がられて育ちました」
「それで、その後どうしたのだ」
「……クーデターが、あったんです。父の側近が父を裏切り、王位に就こうとしたんです。父は、殺され、母は犯され、僕は玩具奴隷として、売られて船に乗せられました」
かなめが、ふうっと大きく息をついた。つっと後ろを振り向いて、忠白の顔をじっと見つめる。忠白はそっと己の胸もとへ手をかけて、静かな手つきで着物をはだけた。
――薄い胸には、一年前の傷痕が、消えかけながらも刻まれている。
「……船にいた者は、愚かじゃな。『売り物』を『傷物』にするとはな」
あえて他人事のようにつぶやくかなめに、忠白は力なく微笑んだ。
「船の中には、『魔女の膏薬』がありましたから」
「魔女の膏薬?」
「体に塗ると、丸一日の死ぬほどの痛みと引きかえに、どんな傷も消えるのです。それがあるから何をしても良いんだと、僕は毎日いろいろな……」
ぐっと言葉に詰まる王子に、かなめは自分が傷つけられたような表情になり、ぎゅっと一瞬目をつぶる。……忠白の胸もとに手を伸ばしかけ、ふとためらって問いかける。
「『死にたい』とは、思わなんだか」
「……思いました。けれど、いまわの際の父の言葉が、それを許してはくれませんでした」
「何と?」
「『生きろ』と」
今度は忠白が、大きく息を吐く番だった。さっきとは反対に、かなめの息を呑む音がした。
……異国の王子は、はだけた胸を静かにしまい、またかなめの髪へ手をかける。そうしてさらさらと少女の髪をすきながら、ぽつぽつ言葉を重ねていった。
「父は、『生きろ』と言ったんです。『私は死ぬが、お前たちは生きろ。生き抜いて、いつかもう一度、本当に幸せになってくれ』と。ひどい呪いの言葉でした。そのために母は敵に犯され、娼婦同然に辱められ、僕は……奴隷として、売られたんですから」
かなめがふっと黙りこむ。忠白はすうすうと白銀の髪をすきながら、感情を押し殺した、ひらたい声で話し続ける。
「その後で、船は嵐に遭いました。それは本当にひどい嵐で、僕も海に投げ出されて……でも僕は、心から嬉しかったんです。(これで死んだら、父様も許してくださるだろう)と……けれど結局は僕だけ助かって、この街の浜辺に打ち上げられました」
忠白が、ほおにおぼろな笑みを浮かべた。すがるように少女の髪にくしを入れ、かすかな声でささやいた。
「僕には、分かりません。父は確かに気の小さい人でしたが、王にふさわしくないほど、その器が小さかったか……その後母がどうなったのかも、僕には分からないんです」
すっと髪をすき終えた手が、甘えるそぶりでかなめの幼い頭を撫ぜた。ゆっくり忠白を見上げた『竜子様』が、赤いくちびるをまるく開いて問いかける。
「そなた、歳はいくつになる」
「……歳……? 今年の秋で、十五になります」
(かなめ様は?)
吐息混じりに問い返すと、かなめは思わせぶりに微笑した。
「いくつに見える?」
「……僕と同じくらいと、お見受けします」
かなめの微笑が大きくなる。はぐらかすような笑みを浮かべて黙っている少女の心は、分からない。忠白は甘くなじるような口ぶりで、幼い少女に訊ねかける。
「かなめ様、僕は僕の過去をしました。あなた様もご自分のお話をなすってください」
「……もうじき分かる。祭りまであと十日もない。この街の大いなる祭りの日に、何もかもその身に染みて分かろうて」
しみじみと告げた『竜子様』は、たたみに置かれたくしを手にとり、優しい声で王子に告げた。
「ありがとう。お返しに、今度は我がお前の髪をすいてやる。後ろを向け、忠白」
「え……、でも……っ」
「良いから、後ろを向けというに」
ぽんぽんと肩を叩いて後ろを向かせ、かなめが忠白の黄金の髪をすいてやる。自国に住まうていた時よりは少しぱさついてしまった髪を、ていねいに、ていねいにすいてやる。
柔い手つきに、母を想い。忠白の青い瞳から、ひとつぶ、ふたつぶ、涙がこぼれた。そのことに気づいていながら何も言わずに、かなめは髪をすき続けた。愛しい恋人にそうするように、まるい手つきですき続けた。
……ひんやり涼しい宮の奥にも染み入るように、じわじわと蝉が鳴いていた。