第4章 その32 誓いの言葉(修正)
32
気がつくとあたしは、薄明の空に似た空間に浮かんでいた。
知ってる。
魂の底。生命のやってきた道。
ここで、あたし、月宮有栖であると同時にイリス・マクギリスである魂は。エステリオ・アウルの魂の姿……前世の姿に、出会った。
黒髪に黒い目。十八歳くらいの、日本人の青年。
まだ、彼の前世での名前も知らないままだ。
だけどあたしは彼に心引かれた。生まれたときからずっと見守っていてくれた優しさ。温もり。とってもきれいな魂。
ずっと、この魂のそばにいたい。そう思ったの。
『願いは叶えられた? イリス。有栖』
「スゥエさま……!」
薄明の空に、懐かしいセレナンの女神さまの姿が出現した。
青みを帯びた銀色の長い髪は、滝のように流れて足下まで覆っていて。瞳はアクアマリンのような淡いブルー。神々しいような美しさ。
『長い間、会えなくてごめんなさい。近頃シ・イル・リリヤを覆っている魔術的防御空間が強力になって。でも、やっと来られたわ。あなたのことを気に掛けていたの』
「スゥエさま。さっき、お声を届けてくださったでしょう。エステリオ・アウルのことを、気をつけてって」
『ええ。あなたとアウルは、縁で結ばれているから』
「そうだ、縁といえば、ご報告したかったの! あたし、エステリオ・アウルと許婚になったの!」
『おめでとう! よかったわ。彼には、あなたを護るようにお願いしていたのよ』
スゥエさまはとても喜んでくれた。
けれど、その表情に、どこか翳りがあるように見えて、気になった。
『だいじょうぶよ有栖。このまま、思うとおりに生きて。あなたが幸せになることが、世界を救うから』
女神スゥエ様が、微笑む。
あたしが生きたいように生きて幸せになることで、数十年先の未来に、ラト・ナ・ルアを救うことにもなるというの。
『ひとつだけ忠告しておくわ』
「はい」
『今のうちに婚約の契約を結んでおきなさい』
「契約?」
『婚約の契約はまだ完成していない。晩餐会が始まるより前に契約を結ぶの。彼が、あなたに。あなたが、彼に。詳しいことは……カルナック師に尋ねなさい』
カルナック師が転生するときに出会った女神さまはスゥエさまだと言ってたことを思い出した。
『忘れないで。また、当分は会えないかもしれないから』
※
「めがみ、さま……」
ベッドに寝かされているアイリスが、熱に浮かされたように、つぶやいた。
茶会が終わって間もなく、アイリスは倒れた。
すぐさま隠し部屋に運ばれ、手当を受けている。
意識が戻らず、苦しそうにうなされながら寝込んでいるアイリスを案じて、エステリオ・アウルは側を離れようとしない。
エルナトもヴィーア・マルファも付き添っている。
ローサとティーレ、リドラも、駆けつけてまもなくアイリスのこの状態を知り、気をもんでいた。
やがて、皆の求めに応じてカルナック師がやってきた。
「師匠! 早くアイリスを診てやってください」
カルナックは寝込んでいるアイリスを一目見た途端に、眉をひそめた。
「お師匠」
すがるようなエステリオ・アウルを見やり、カルナック師は軽く首を振った。
「アイリス嬢は、魔力に縛られている」
「ええっ!」
「きみのだ、エステリオ・アウル。魔力で見てみればわかる。特に顕著なのはアイリス嬢の心臓のあたりだ」
カルナック師に示唆されて、その場に同席した魔法使い、『目』と『耳』を飛ばしている者達も含めて……彼らは一斉に息を呑んだ。
カルナック師の強い魔力に晒されて、アイリスの身体全体を覆っていた、透明な魔力が見えてきたのだ。
鎖を思わせる魔力の束がアイリスの身体、胸、心臓に巻き付いている。
「アイリスを、わたしが縛めていると?」
困惑するエステリオ・アウルを見やり、カルナック師は咎めるように言った。
「きみ、お茶会の最後に皆に紹介されたとき、問題行動をしたね」
「えっ!?」
「どうもエステリオはヒューゴー老に出会うと理性を失うね。今回も、あの老人にけしかけられたのだろう?」
「そ、それは」
「晩餐会の半ばで、私とコマラパ老師が立ち会って婚約を承認するときに口にすべき誓いの言葉を、あの場で披露しただろう?」
エステリオ・アウルは、うなだれる。
「……はい。宣言したかったのです。あの老人に、アイリスに手を出させたくなくて。ですが、その後は、頬にキスしただけです!」
(頬にキスしただけ? 違うがな)
(唇に指で触れてなぞるとかしたよね。普通のキスよりエロかったっつーの!)
ティーレとリドラは思った。
(だけどエステリオはバカだからな。唇じゃなくて頬にしたんだから控えめにしたつもりだったんだろうなぁ)
カルナック師の詰問は続く。
「婚約の承認のときに述べるはずだった言葉。あれには音節の間に、魔法を盛り込んでいたのだがね。しかるべき時にしかるべき言葉を紡ぐことに意味があるのだ」
「まずかったのでしょうか?」
「うん。誓いの言葉は、誓いのキスと一組になっているからね。そこを片方しかやらなかったからだな」
「えっ」
「つまり、誓いの後にキスしなかったのがいけない。すぐに続きをやりたまえ。今ここで」
「こ、ここでですか! 今すぐ?」
そのとき、ベッドに横たえられていたアイリスが、薄く目をあけた。
目は、熱で潤んでいた。
「おねがいおじさま。キスして……」
「アイリス!?」
「いつもの……こいびとどうしみたいな」
途端にエステリオ・アウルには、身の置き所がないぐらい、周りじゅうから鋭い視線が突き刺さってきたのを感じた。
「そんなに、いつも……」
「やってたんだ? ふ~ん」
「ち、違う! 違います! 誤解です」
真っ赤になって誤解だと訴えるエステリオ・アウルは、カルナック師に肩を叩かれた。
「どうでもいいから、やりたまえ! 契約を完成するんだ」
言い訳しても仕方が無い。エステリオ・アウルは、覚悟を決めた。
ベッドに横たえられていたアイリスの上に屈み込み、顔を近づけて。
そっと、唇を寄せた。
軽く触れ合うだけのキス。
だが、アイリスの様子に変化は見えない。
「エステリオ・アウル。もっと本気でやりなさい。これは誓約なのだから」
「本気でって」
「さっきやってたじゃないか」
促されて、エステリオ・アウルは、本気でやることにした。横たわるアイリスの上半身を抱き起こして、唇を重ねる。始めは優しく。しだいに激しく、むさぼるように。
すると、アイリスが目を開けた。
「エステリオ・アウル。わたしの許婚様。わたしもあなたを護ります」
そして、アイリスの方から、アウルの唇に、唇を寄せていった。
二人を取り巻いていた透明な魔力の渦が、しだいにゆるく解け、二人の身体に溶け込むようにして消えていった。
「アウル!」
嬉しそうにアイリスはエステリオ・アウルに抱きついた。
「これで婚約の誓約は整った。本当は晩餐会の時にする予定だったのだが、まあいいだろう。二人とも幸せになるのだよ」
カルナック師の笑みは、珍しく、黒くはなかった。
「ところでマクシミリアンくんは?」
アイリスは、ふと、ソファに寝かされているマクシミリアンのことを思い出した。
「ふうむ。もう少し寝かせておこう。なじむ時間が必要だ、晩餐会が始まる前に親もとに連れて行かなくては」
マクシミリアン・エドモントは泥のように眠っていた。
彼の心臓では埋め込まれたカルナック師の魔力核が、しだいに、自然界に漂い溢れる魔力を集めていき、さながら真珠のように育っていくことだろう。
今はまだ、マクシミリアンは何も知らない。
カルナック師譲りの炎の精霊に守護されるだろうということも。
いったい何者に、騎士の誓いを立ててしまったのか、ということも。




