血錆びた赤頭巾は狼を狩る
雲一つない夜空に浮かぶ、薄く細められた黄金色の三日月が照らすその森は、互いに絡め取るように密集して生えている樹木の枝葉が天幕となり、足元へと泥の様な夜闇を湛えていた。
木々の根元には、落ちた枝葉が絨毯の如く敷き詰められている。
少し遠くには、砂浜と、広大な海原が広がっていた。風が運ぶ、潮の匂いと湿気は、枝葉の絨毯と土に湿り気を帯びさせ、泥交じりのそれはジワリとした空気を放ち、木々の間を満たす。その蒸すような空気は森に、人間にとっては不快な生暖かさをもたらしていた。
その森に人の気配は無い。葉の天幕が月光を遮るその闇には、夜空の光はおろか、周囲を照らす様な人工の光は一つとして存在していなかった。
けれども、完全に光が無いというわけでは無い。
その森には赤い光が漂っていた。
二つ、四つ、六つ、そして、十、百と超えてなお数えるには事足りない数の光は、その闇夜をまるで意に介さず、森を闊歩していた。
その光は浮遊している訳では無い。なぜなら、その光は狼達の眼光であるから。
ひどく歪んだ頭蓋。その前方に空いた眼窩がその赤い光を飲み込むように収めている。
その獣達は、臭かった。自らの体液や泥と雨水。そして、返り血が染み込んだ毛深い皮膚が強烈な異臭をその身に纏わせている。
大きく開き舌と涎をだらりと垂らすその口には、赤茶けた鋭い牙が不揃いに並んでいた。
牙に染み込んだ染みは、彼等が咬み、引き裂き、そして嚥下した数多の人間達に通っていた血だったのだろう。
それが誰の血であったのかは、もう、互いに他者の物と混ざり合い過ぎて分からない。
頭部に生える大きな耳には、血だけでなく、獲物が上げた、意味を持っていた筈の断末魔も染み込んでいる。だがしかし、彼等はそれを意味のあった言葉であるとは思いもせず、ただひたすらに、食事の時間を告げるベルとしてしか認識してない。
そんな狼達の群れは、森の中をただひたすらに歩む。だが、多くの個体にとってそれは何かを探しての行進ではない。彼等はただ、先頭を征く群れの長についていくだけである。
その群れの長は巨大であった。蜥蜴の様に長く伸びる胴体の横から生えた三対の逞しい脚は、地面と葉の絨毯を踏みしめながら、真直ぐに背筋を立てた胴体を支えていた。肩口から生える二本の腕は器用に己の進路に生い茂る葉を掻き分けながら、枝を折る音を周囲に鳴り響かせている。
その優れた嗅覚は、風に乗って運ばれてくる自らの群れの物では無い不思議な匂いを捉えている。そして、長はそれ追い、森の中を進んでいた。
その狼は不遜な態度であった。群れの長たる己こそ、絶対的な狩人であり捕食者である。と、知性無き傲慢を淀みの無い歩みで周囲の存在へと見せつける。
実際にそうではあるのだろう。その狼の前には一匹の狼だろうといなかった。群れの個体は皆その者の後ろを追従し、決して前に出る事は無かった。
だから長の狼は、草葉以外の障害物が無い森の中を悠々自適に歩けている。
だが、ある瞬間。その狼は脚を止めた。
弱者は強者に付き従う。それが彼等の血潮に刻まれた掟だ。だからこそ、群れの狼達は長の前へと躍り出る事は無い。長の進路を塞ぐ、それ即ち群れへの宣戦布告であるが故。
──だからこそ、群れの長は、目の前の光景を信じる事が出来なかった。
先程から追っていた匂いの主が逃げもせず、それどころか己の狩場たるこの森で、唯の獲物に過ぎない人間が、百を超える自分の群れを待ち構えていた、その光景を。
その人間は、この夜闇の中一つの明かりも持たず、けれどもしかとその足を地につけている。そこに覚束なさは無く、つけ入る様な隙はまるで見当たらなかった。
彼は黒と見紛う程に赤黒いフードの付いたマントでその全身を覆っている。
赤黒いフードに覆われ生み出される暗闇には、白色が浮かんでいた。その白は、彼が若くして頭から生やす白髪と、頬右の肉を失い剥き出しとなった堅い奥歯である。
そして、背には凡そ人が握るとは思えない程巨大な弩を背負い、腰には長大な肉斬り包丁を連想させる大剣を吊り下げていた。
その何れもが、装飾など無い武骨なデザインであり、きっと、人の殺意という物を武器に鍛造できるのであれば、この様な形になるのだろう。
その時、ふと、風が吹く。
また、あの不思議な匂いがした。その人物の体からは、汗の匂いはしなかった。その者が纏っていたのは鋼と油、硝煙の匂い。そして、それらを塗りつぶして鼻腔を満たす、濃厚な血の匂いが漂っていた。
人間と、狼の血は匂いが違う。人間にはかぎ分けられないが。
それでも狼の嗅覚をもってすれば、その違いは明確に分かる。
それも、此処まで濃密に漂わせていれば嫌でもわかった。
それは、狼の血の匂いであった。
その匂いは彼の纏うマントから漂っている。
それが、自らの毛皮と同じ理由で漂っている事は、知性の無い狼には分からない。
今、人間を見つけたその狼はただひたすらに、底の無い食欲から来る殺意を、眼前の獲物へ放つだけである。
群れの長は、その牙をむき、涎を垂らしながら、唸り始めた。
主が臨戦態勢に入ったのを見た群れの狼たちも、それに呼応して一斉にうなりを上げる。
途端に、先程まで枝葉を折る音しか響いていなかった深夜の森は、耳障りで悍ましいコーラスの劇場と化した。
濃密な夜闇と湿気、そこに強烈な殺気が混ざったその空気は、現世に地獄を造ったかのような、否。実際に人を食らう異形の化生が闊歩するこの大地へ真に地獄を顕現させる。
そうして、狼共の強烈な殺気を全身に浴びたその狩人は。
「……いいさ、唸れる内に唸っておけ」
凄烈な殺意を顔に湛えて、その口を真白の三日月に歪めた。
「──遺言くらいは残させてやる」
それと同時、群れから長の狼が飛び出した。
まるで弾丸の様に狩人へ突撃したその狼は、その巨体にそぐわぬ速度で間合いを潰す。先程はしゃんと伸ばしていた背を今は地を這っていると見紛う程に前傾させて重心を前へと移し、六つの強靭な脚はその一本一本が、力強く森の土を捉え、圧倒的な推進力をその巨体へと与えていた。
そうして瞬きの間に狩人の前へと躍り出た狼は、その長く太い腕を、埒外の量と密度の筋肉が生み出す剛力の限り振り下ろす。
そして、人類を遙かに超える膂力で放たれた一撃が、狩人の立っていた地面を裂き砕く。
その爪の一閃は森の空気を引き裂き、頭上を埋め尽くす枝葉を強く揺らした。その揺れは葉を落とし、密集していた自然の天蓋に穴を開けて、月光を狼の手元へ注ぎ込む。
そうして、地面に埋まった手を狼が引き抜いた時
「単調なんだ、お前らは」
月光に照らされたその手には、湿った泥しか付いてなかった。
そして、狼は今しがた聞こえてきた声の方向へ頭を上げる。
それは、空から聞こえてきた。
狩人は、いつの間にか空へ跳躍していた。体を僅かに捻りながらの跳躍は、紙一重で爪を避け、その狼の視界から狩人の姿を隠していたのである。
その時、差し込んだ月光は再び影を落とし込み、影は狼の視界を覆う。
その影は、肉を断つためだけに打たれたその大剣のシルエットを忠実に再現していた。
刺突を棄て、肉を裂き骨を断ち切る為だけに重く、分厚く、頑丈に打たれたそれは、矩形の切っ先に月光を反射し、高々と空中で掲げられた。
狩人は、その大剣を握りしめた手の親指と中指から小指の4本で、潰さんばかりに柄を握る。
そして、人差し指は柄元に生える、堅く冷たい引き金に柔らかに添えられていた。
「──死ね」
その言葉と同時、彼の人差し指は力強く引き金を引く。
引かれた引き金は、鍔元に組み込まれた内部機構と連動し、撃鉄を作動させた。
倒れたその撃鉄は、同じく鍔元に存在し異様な存在感を放つ巨大な弾倉。それに開く6つの穴に収められていた弾丸の雷管を叩く。
そして、瞬きにすら満たない刹那に行われたその絡繰りの動作が終了したその瞬間。
雲一つない鮮やかな夜空に照らされたその森に、轟雷の如き苛烈な一閃が落とされた。
朱色に爆ぜた剣が、轟音を轟かせ自身の頭へ迫るその光景が、群れの長が最期に見た光景だった。
一瞬の出来事だった。群れの長は、走馬灯を見る事も無く、そして、自らの死因を悟る事も無く、その肉体を頭頂部から股まで、一直線に叩き切られていた。
先程迄、圧倒的な威圧感を放っていたその巨体に、かつての栄光は影も形も無くなっている。血と、脳漿。そして内臓を周囲一帯にまき散らして潰れた狼の体は、とうにピクリとも動かない。
そして、狩人はそんな血泥の中、独り佇み、眉一つ動かすことなくかつて狼だった物の頭部に深くめり込んだ己の剣を引き抜きにかかる。
だいぶ深くにめり込んだらしいその剣を引き抜くのには、さしもの狩人とて容易くなく、腕に力を入れる。
そうして引き抜いた剣は、勢いのまま再度天へと掲げられた。
刃から滴り落ちるものと、死骸の頭部から噴き出す血が森に深紅の雨を降らす。
そうして、狩人の赤黒いフードは、今一度艶やかな深紅へと染まり上がった。
染まり上がったフードの生地は、血の赤を吸い尽くし、水でも落ちない己の色とする。
降り注ぐ血の雨は、臭く、生暖かく、粘ついていて重かった。
だが、それを意に介さずに狩人はその瞳を群れへと向ける。
そうして視線を向けられた、群れの反応は単純だった。
──自分達も殺される。
狼達の生存本能が警鐘を鳴らす。
自分達より遙かに劣る筈の人間を前に、その異形たちは散々に逃げ出した。
そんな狼達を眺めながら、その狩人は再度凄烈な三日月を口に作る。
「あぁ、せいぜい逃げ惑え。その短い寿命で何ができるか見せてみろ」
そうして、赤い頭巾の狩人は、狼を追って再度森の闇夜に溶け込んでいく。
先程天高く跳んだ時、視界の端に写した海原の、遠い遠い水平線に浮かんでいた無数の板切れと、砂浜に着いた小さく覚束無い足跡に、僅かばかりの意識の欠片を向けながら。




