ハイブリッド
レンジたちの訓練は、一歩ずつ着実に進んでいた。理論と実技の両面を重視した「クジラ部隊」のカリキュラムは、どちらも決して手を抜かず、特にレンジが所属する「ミッドナイト部隊」では、身体能力の強化と遠距離攻撃のスキルを中心に訓練が行われていた。
とはいえ、接近戦の訓練が軽視されているわけではなかった。遠距離攻撃が主体のクジラ部隊であっても、いざという時に必要なのは接近戦であり、どちらも欠かせない要素だと、彼らはよく理解していたのだ。
たとえレンジの身体が普通の人間とは異なっていても、連日の激しい訓練により、疲労は容赦なく蓄積されていった。
「ううう……筋肉が悲鳴あげてるっての……」
オイダイラが呻き声を上げながら、教室番号546――レンジたちの専用教室の机に顔を伏せた。が、疲れ果てて机に突っ伏しているのは彼だけではなかった。レンジはそれよりも早く、すでに沈没済みである。
「ったく、二人とも情けないわね」
リンが呆れたように言い、腕を組んで首を振った。
「男なんだから、もうちょっと根性見せなさいよ!」
「はいはい、頼もしいお嬢さんですね~」と、オイダイラが皮肉たっぷりに返す。「さっき自分も『足が痛い』ってぼやいてたの、聞こえてましたけどね~」
「うっさいわねっ!」
リンはすかさず言い返し、むっとした目で彼をにらむ。
「アンタ、私みたいにロボ犬から逃げ回ってないくせに! こっちはほとんど50キロ走ったんだから! ふーんだ!」
「じゃあ、こっちの訓練と交換します? ただでさえ危ないのに、あの部屋、無数のボールが弾丸みたいに飛び回ってるんですよ。石を積もうとしてもすぐぶっ飛ばされるし」
オイダイラは疲れきった表情で目を細める。
「あのクソボール……一発でもまともに当たったら、殴られたみたいに痛いんですよね……」
「はあ……」
リンはまた大きくため息をつき、教室の別の隅を見やった。
「それにしても……ミキちゃんも、なんだか疲れてるみたいじゃない?」
「みんなと同じですよ」ミキは淡々と答える。「私はサポート部隊なので、防衛と救助が中心なんです。訓練では、負傷者を攻撃されずに別の部屋まで避難させる内容で……オイダイラくんの訓練と似てますけど、もっと“人を助ける”ことに重点がある感じです」
「そっか……じゃあ、ヒロキくんは?」
リンが教室を見渡したが、本人の姿は見当たらなかった。
「あそこ、後ろの床で倒れてますよ」
オイダイラが無造作に部屋の隅を指差す。
「うちらの中で一番ヤバいっすね……でもまあ、仕方ないでしょ。バイトしながら訓練してるんだから、そりゃ疲れますよ」
「きゃっ――ちょっと、どうしてそんなところで寝てるのよ。床が汚いのに……!」
ミキは叫ぶと、急いで部屋の隅でぐったりしているヒロキの元へ駆け寄った。彼女はありったけの力を使って彼の体を起こそうとする。
「起きてよ、ヒロキ……うぅっ……意外と重たいんだから……」
「それにしても……まだセンセイとタツヤくん、来てないわよね?」とリンがぼやきながら時計を見る。「もう一時間近く経ってるのに……先生なのに遅刻なんて、だらしないったら。で、レンジくんは……大丈夫? さっきからピクリとも動いてないけど」
「大丈夫っす……まだ……」
レンジはか細い声で答える。疲労がにじみ出ていた。
「でも、もし今日ハヤト先生が授業中止してくれるなら……正直、嬉しいかも……」
「全力で同意っすよ」
オイダイラが一瞬も迷わずに声を上げた。
そしてそのとき――
ガチャリ、と教室のドアが開く音がして、ハヤトがうんざりした表情でタツヤを引きずりながら入ってきた。彼はタツヤを席へ戻らせ、ドアを閉めると前方へ歩き、椅子を引いて座った。その様子はすでに疲弊しきっていた。
「まったく……頼むから、もう少し僕に迷惑かけないでくれませんかね、タツヤくん」
ハヤトは深いため息をつく。
「授業をサボったところで、君の実力は下がる一方ですよ。自分を伸ばすつもりがないなら、仲間たちに負けて当然です」
「ふん……」
タツヤは冷めた目でハヤトを見返した。
「こんな所にいて、何の意味がある。現実で使えもしないくだらない訓練ばっかり……こんなこと、なんで僕がやらなきゃいけないんですか。そもそも無理やりこの部隊に入れたのは、そっちでしょ? こんな経験もないガキどもと一緒にさ」
「おい、言葉を選べよな!」
ヒロキが即座に立ち上がって反論する。
「誰がガキだって? 来年、俺はもう十九になるんだぜ。教室で一番子供じみてるのは、お前だよ、タツヤ。でかいだけで中身空っぽ。そんなやつが無謀に突っ込んで死ぬんだよ、くだらねえ状況でな」
ヒロキは低く鋭い声で言い放ち、タツヤを冷たい目でにらみつけた。
「正直なところ、最初からお前がチームに入るのは反対だった。問題ばっかり起こすやつなんて、他の皆まで巻き込むだけだからな」
「……なんだと? もう一回言ってみろ!」
タツヤは怒鳴り声を上げ、ヒロキの胸ぐらを掴もうと前に出た――その瞬間。
フッ!
ヒロキの姿が一瞬で消え、次の瞬間にはタツヤの椅子に座っていた。まるで手品のような動きだった。タツヤは拳を握りしめ、苛立ちを隠しきれない。
「言っただろ。筋肉しかない脳筋なんて、何の役にも立たないんだよ」
ヒロキは腕を組んで平然と言い放った。
「……へぇ、それなら見せてもらおうか。お利口さんの“脳”がどれだけ本物か、な」
タツヤの声は低く、目には怒りの光が宿っていた。
「やめろッ!」
教室の前から怒鳴り声が響き渡った。その一言で張り詰めた空気が一瞬で破られる。
ハヤトの声には威厳があり、彼の鋭い視線がヒロキとタツヤを一喝するように睨みつけた。
教室は一気に静まり返った――。
「今は授業中です。時間は有効に使いましょう」
ハヤトは静かに言いながら、先ほど言い争っていた二人の男子を横目で見た。
「……でも、どうしても戦いたいなら止めませんよ。ただし――今じゃないです」
そして彼は残っているコクメのメンバーたちを見回した。
「それより……前に出した宿題、答えを出せた人はいますか?」
その言葉と同時に、教室は水を打ったように静まり返った。
普段は誰よりも早く手を挙げるヒロキですら、何も言わなかった。
「その件ですが……」
ミキがゆっくりと、戸惑いのこもった声で話し始めた。
「実は……私たちも先生に聞きたいと思っていました。全員で真剣に考えてみたんですが……私たちの知識では、犯罪者となった“クロモノ”のことを理解するには、まだ全然足りないと感じました」
「難しすぎた……ってことですか」
ハヤトは一瞬沈黙し、やがて静かな声で続けた。
「あるいは、皆さんが“クロモノ”を至近距離で、実際に見たことがないからかもしれません。それが理解できない理由なのかもしれませんね」
「すみません……私たちには、できませんでした……」
ミキが皆を代表するように、申し訳なさそうに頭を下げる。
「大丈夫ですよ」
ハヤトは薄く微笑んだ。
「では、もう少し分かりやすく、理論的に説明しましょう」
教室の全員が黙り込み、ハヤトの言葉に耳を傾ける。
「今回の宿題の“弱点”――それは『人間らしさ』です」
ハヤトは真剣な口調で続けた。
「“彼ら”がまだ人間である限り、そこには“勇気”も“恐怖”も存在します。でも……彼らが100%の変異段階に達した瞬間、そうした感情はすべて消え失せ、本能だけが支配するようになります」
彼は言葉を区切り、さらに語った。
「食欲、破壊衝動、欲望の解放……欲しいもの、求めるものがすべて、理性を通さずに噴き出してくる。そしてその時、彼らの攻撃力と防御力は、普通の人間では到底太刀打ちできないレベルにまで達するんです」
「質問があります!」
ヒロキが手を挙げ、はっきりとした声で言った。
「僕は“人間らしさ”が“弱点”だとは思いません。むしろ――人間らしさこそが、彼らを賢くしているんです。だからこそ、他人を傷つける手段を巧妙に考え出せる……僕たちも、それを“強み”として使うことができるはずです」
ハヤトはふっと小さく笑った。
「なるほど、そういう考えも一理ありますね。じゃあ……もし君の手に銃があって、“クロモノ”に変異した犯罪者を撃たなければならないとしたら――どこを狙いますか?」
彼は少し身を乗り出しながら、挑むような視線で尋ねた。
「完全にクロモノ化した部分ですか? それとも、まだ“人間”として残っている部分ですか?」
ヒロキは一瞬言葉に詰まり、そして低い声で答えた。
「……人間の部分、です。そこが一番の弱点になると思うので……止めるには、そこを狙うしか……」
「はい、正解です」
ハヤトは淡々と頷き、背もたれに体を預けた。
「難しく考える必要はありません。僕がわざと問題をややこしくしただけですよ」
その言葉に、教室中の生徒が一斉に呆気に取られたような表情を浮かべた。
「さて、次に話す内容は……皆さん全員に関わることです」
ハヤトは真剣な眼差しでコクメの生徒たちを見渡した。
「“クロモノ”の世界は……皆さんの想像以上に、広くて深いんです。そして――これから話すことの中には、信じがたいと思うこともあるかもしれません」
「広いって……どういう意味ですか?」
リンが疑問を口にし、まっすぐ教師を見つめた。
「クロモノの患者って、ただ病気にかかって変異する人たちのことじゃないんですか? 免疫があれば制御できる――私たちみたいな存在と、犯罪者タイプ……それだけじゃないんですか?」
教室の仲間たちは誰一人言葉を挟まず、静かに話を聞いていた。
ハヤトはしばらく沈黙していた。
「それが、“皆さんがここに来たばかりの頃に思っていたこと”なんです」
彼は一拍置いてから、低い声で続けた。
「でも、ここに長くいるうちに分かってくるはずです。今の自分たちが……いかに脆い存在かということに」
彼の目が、じわりと教室を横断する。
「今の皆さんをそのまま外へ送り出したとして――相手が“黄色”レベルの変異者でも、正直かなり厳しいです。“オレンジ”レベルだったら……生き残るのはまず無理でしょう」
その言葉に、教室の空気が一瞬ひやりと冷え込んだ。
「だからこそ――それに立ち向かう前に、皆さんには“ハイブリッド状態”というものを知ってもらいます」
「……ハイブリッド?」
レンジが小さくつぶやいた。だが、それは十分にハヤトの耳に届いていた。
ハヤトはしばらく沈黙したのち、小さく頷いた。
「その通りですよ、レンジくん」
彼は真剣な声で言葉を続ける。
「“ハイブリッド状態”とは――一つの体内に複数の初期能力を持つことができる状態のことです。つまり、精神や変異のプロセスと完全に調和した状態とも言えます」
「この状態の者は、“クロモノ”の力を引き出しながらも、自我を失わず、意識も思考も意志も保ったまま……完全に変異した身体を制御できるんです」
「もちろん、誰でもなれるわけではありません。ごく限られた者にしか起こりえない現象です」
そう言ってから、ハヤトはレンジの方を見た。
「例えばレンジくんのように――自分の血液を弾丸に変えたり、視線で標的を狙い撃つことができたりする」
「こういった力こそが、ハイブリッド状態の基本的な特徴です」
「おおっ……レンジ、マジでカッケーじゃん!」
オイダイラが興奮気味に叫び、親指を立てて彼に向ける。
だが、レンジは謙虚に首を振るだけだった。
「そして当然ながら――」
ハヤトは話を続ける。
「こんな完璧な能力が犯罪者の手に渡ったら……それこそ最悪の事態です」
「だからこそ、僕は皆さんにしっかり訓練を重ねてほしい。焦らず、一歩一歩進んでください。戦いというのは、一日で強くなれるものじゃありません」
「わかりました……」
ヒロキが静かに頷き、淡々と口を開いた。
「でも先生……同じ訓練を延々と繰り返すのは、正直ちょっと退屈です」
「それじゃ、こういうのはどうかな?」
ハヤトのカエルのような目が、ニヤリと笑った気配を見せた。
「もし訓練だけじゃ、僕の言いたいことが伝わらないのなら――今夜、皆さんを“クロモノ感染者の鎮圧任務”に連れて行きます」
その一言に、教室の空気が一変した。
「えっ!? 先生、それって早すぎませんか!?」
レンジが驚いた顔で反応する。
「そ、そうですよ……私、まだ自分の力に自信がなくて……」
ミキが不安げに声を落としながら言った。
リンとオイダイラも、黙って頷いている。
一方でヒロキは無表情のまま、何も反応を見せなかった。
そして皆の中でただ一人――タツヤだけが、口元をわずかに釣り上げ、目を怪しく光らせていた。
まるで、ハヤトの提案を楽しんでいるかのようだった。
「君たちなら……本気で協力すれば、必ず成果を出せると僕は信じています」
ハヤトは力強い声でそう言い、教室の仲間一人ひとりを見渡す。
「ただし――外に出て任務に当たるには、身元を完全に隠す必要があります。“ミッドナイト部隊”の戦闘スーツを着用し、さらに全員“専用マスク”を装着すること」
教室は水を打ったように静まり返る。誰もが真剣に聞き入っていた。
「心に刻んでください。皆さんがここに来たその瞬間から……外の世界では“死んだ者”と見なされています」
ハヤトの声は静かだが、どこか重く、圧を感じさせるものだった。
「外部の人間に正体を明かすことは、いかなる理由があっても禁止です。違反すれば……最も厳しい処分が下されます」
少し間を置いてから、彼は続けた。
「そして、マスクを着ける理由は……身元隠蔽だけではありません。皆さん自身の身体から未感染者への感染を防ぐ意味もある。だから――どうか、くれぐれも油断しないように」
「はいっ!」
ハヤトのコクメたちは、声を揃えて返事をした。
「では、皆さんを外へ連れて行くための許可申請を進めてきます。ここで待っていてくださいね」
そう言い残し、ハヤトは席を立つと、そのまま足早に教室を後にした。
教室には生徒たちだけが残り、少しだけ緊張が解けたような空気が流れる。だが、それも束の間――
「はあ……なんで俺たちって、いつもこんな目に遭うんだろうな……」
レンジが天井を見上げながら、ぽつりとつぶやいた。
その声は、思ったよりも大きく響き、ある人物の耳に届いてしまう。
「フン――つまり、それって俺のせいだって言いたいわけ?」
タツヤが冷ややかな声で振り返る。
「言いたいなら、ハッキリ言えば? まわりくどいのは嫌いなんだよ」
レンジは静かにタツヤを見返した。
「ただ……分からないだけなんだ。どうして君が、いつもそういう態度をとるのか」
その声は淡々としていたが、真剣さがにじんでいた。
「君が、俺たちのチームにいるのが気に入らないのは分かるよ。期待してたほど強くないと思ってるんだろうし。でも……嫌ならせめて、ちゃんと話してくれ。誰もが準備できてるわけじゃないんだ」
「文句か?」
タツヤは即座に言い返し、レンジの目の前まで詰め寄る。
「だったら、俺のチームにお前らを突っ込んだ奴らを恨めよ! 覚えとけよ――俺はな、こんな雑魚どもと一緒にいるなんて、まっぴらなんだよ」
彼は歯を食いしばりながら叫ぶ。
「外に出られるようになったら、何がなんでもここから抜け出してやる……覚えとけよ!」
「お前っ……!」
堪えきれなくなったヒロキが、勢いよく立ち上がる。
タツヤも鋭い目でヒロキをにらみ返した。
「……そんなに、ここにいるのが嫌なんですか」
リンがぽつりと、まるで独り言のように呟く。しかしタツヤは彼女を一瞥すらしない。
「初日に殺されなかったのが、ただの間違いだったんだよ」
タツヤは冷たい声を残して、そのまま教室を出ていった。誰のことも振り返らず、音もなく足音が遠ざかっていく。
その場に残されたのは、重く沈んだ沈黙だけだった。
「……もしかしたら」
ミキが静かに口を開いた。その声は、皆を慰めるようでもあり、自分自身に言い聞かせるようでもあった。
「彼、何か……本当に辛いことがあったのかもしれません。耐えきれないほどの、ね」
彼女の目には、どこか哀しみが浮かんでいた。
「“初日に殺されていなかったのが間違いだった”なんて言う人は……最初から、もう死んでるのと同じなんじゃないかな」
その静かな言葉は、レンジの心を強く打った。
彼は黙ったまま、タツヤが去っていったドアをじっと見つめていた。
沈黙の中――レンジの胸にはひとつの疑問が浮かび上がる。
――人は、どうしてあそこまで変わってしまうのだろう。
そして――どうすれば、“あの闇”から彼を連れ戻すことができるのだろうか。