血のセオリー
秘密基地での会議が終わると、レンジたちはそれぞれ、自分の班ごとに用意された寮へと散っていった。
寮というものは、レンジのお気に入りの一つだった。ミッドナイト隊の宿舎は、ひと部屋ずつの個室になっていて、アパートのワンルームのような造りだが、体を一回転させれば部屋の全体が見渡せるくらいには狭い。
ユニットバス、洗濯機、パソコン用の机、クローゼットに小さめのテレビ――白い壁に、ドレッサーの上のオレンジ色の照明が差し込んで、部屋全体をどこか温かい雰囲気にしている。窓は一枚だけだが、そこから外の景色が一望できる。小さなキッチンも備えつけられており、クローゼットの中には部隊指定の服もきちんと掛けられていた。
そして何より特別なのは、天井だった。照明を消すと、天井一面に小さな光が浮かび上がり、遠い銀河の星海を思わせる。光はゆっくりと渦を描くように回転し続けている。まるで、底知れない大海の波がホログラムで天井に映し出されているかのようだった。
それをじっと見つめているうちに、レンジの頭にはいろいろなことが浮かんでは消えていった。先の見えない未来のこと、チームメイトのこと、すっかり変わってしまった日常――もう父も、母もいないこと。
これからどうやって生きていけばいいのか。普通の人間でしかなかったはずの自分が、望んだわけでもないのに守る側に立たされていること。ヒーローに憧れてはいたが、まさか本当に、こんなふうに急に「ヒーローにならされる」状況に放り込まれるとは思ってもみなかった。
「父さん、心配しないでね。ちゃんと父さんのあとを追ってみせますから」
そう心の中で呟いたものの、一日の疲れと、あれこれ考え続けて酷使した脳のせいで、レンジのまぶたはゆっくりと閉じていき、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
翌朝、予定されていた学習プログラムがいよいよ始まった。レンジに与えられた役目は、部隊から支給されたウイルスに対抗する薬を、一週間につき一錠飲むこと。そして服を着替え、クジラ隊にある第一学習センターへ向かうことだ。黒芽一年目の者は、全員そこへ通わなければならない。
「うわー、ミッドナイト隊って本当にハイテクだよな。壁も天井も床も、全部ホログラムスクリーンになってるんだぜ」
隣に座っているマサトが、感嘆の声を上げた。
「ホログラム映像の技術なんて、今どき普通だろ? この国の一流大学じゃ、授業の教材なんてだいたいホログラムを使ってるんだしさ」
そう口を開いたのは、見知らぬ青年だった。すらりとした体つきで、年のいった高校生か大学生くらいにも見える。逆立つようにふわりと立った髪に、目を引く赤いフレームの眼鏡。クジラ隊のコクメ用の制服を着ている。
「ん? なんでそんなこと知ってんだよ」
隣に座っていたマサトが、首をかしげながら問い返す。
「知ってて当たり前だろ。ここに来る前、オレは大学の一年生だったんだからな。せっかく死ぬ気で勉強して、やっと合格したってのによ……つくづくツイてねえよ、ほんと」
不機嫌そうにそう言い放つと、マサトとレンジは顔を見合わせ、ぱちぱちと瞬きをするしかなかった。
彼の名はタケシ。前回のオリエンテーションの日、出会って間もないうちに、マサトがレンジを連れて紹介してくれた相手だ。考え方も振る舞いも、タケシはレンジやマサトよりずっと大人びて見えた。
コクメたちがまず理解しておかなければならないことの一つに、「ミッドナイトの兵士を目指すコクメになるための条件には、年齢も性別も問わない」という決まりがある。そのため、教室には自分たちと同じくらいの年頃の者だけでなく、時に中年と思しき人間や、健康そうな高齢者までもが、一年生として一緒に机を並べていることもあった。
もっとも、年齢の下限だけは定められており、コクメになれるのは十二歳以上から。一年生である限り、彼らの立場は皆同じだ。一年目のコクメ全員には、それぞれ所属部隊ごとの色を示すカラーラインが肩口に貼られており、二年生に上がると、そのラインの数が増える仕組みになっている。
そのとき。
赤く光沢のある厚底ヒールが床を叩く、小気味よい足音が、彼らの教室に近づいてきた。長袖のシャツに短いスカート。腰の下まで伸びた髪を高い位置で一つに結い上げたポニーテール。そして、見覚えのある顔立ちを目にした瞬間、クラスメイトたちもレンジも、一斉にぞわりと鳥肌を立てた。
さっきまでおしゃべりで騒がしかった教室は、そこにいる全員が「そうするべきだ」と悟ったかのように、一瞬で静まり返る。
明るく華やかな顔立ちの女性が、真紅のルージュを引いた唇ににっこりと笑みを浮かべながら、教壇の前で立ち止まった。
「みなさん、おはようございます。私のこと、覚えていてくれると嬉しいんですけど……」
彼女はそう前置きしてから、さらに口を開く。
「本日、基礎看護の授業で実技指導を担当するインストラクターです。どうぞよろしくお願いします」
その声を聞いた瞬間、レンジの脳裏に、あの日の光景がフラッシュバックする。ミッドナイト選抜試験で彼女と初めて顔を合わせた日。銃声。喉の奥から絞り出されそうになった悲鳴。耐えがたい痛み。
クラスメイトたちも同じ記憶を共有しているのか、誰もが落ち着かない様子で視線のやり場を失い、そわそわと彼女の顔をうかがっていた。
「先日は、本当にごめんなさいね」
柔らかな声色とは裏腹に、彼女のまなざしはしっかりと強さを帯びている。
「みなさんと最初に会ったあの日のあれは、あくまで私の“仕事”だったんです。つらい思いをさせてしまったかもしれませんけれど、全部、みなさん自身のためでもあるんですよ」
視線が、教室の中をぐるりと一周する。生徒たちは誰一人として口を挟まず、静まり返っていた。
「私の名前はカナエです。アオヤマ・カナエ。これからよろしくお願いします」
にこやかに微笑む。
「さて、準備ができたみたいですね。授業を始めましょう。質問があったら、いつでも手を挙げてくださいね」
そう言ってから、カナエはもう一度、教室にいるコクメたちを見回し、問いかける。
「今日は『血の理論』について学んでいきます。みなさん、私たちが最初に会った日のこと、まだ覚えていますか?」
その一言で、教室の空気がぴんと張り詰める。あちこちから、ひそひそとした小さなささやき声が漏れた。
「じゃあ、私のほうから少し記憶をたどってみましょうか」
続ける。
「あの日、みなさんが受けた攻撃は、普通の武器によるものでしたよね。クロモノウイルスは一切混ぜられていなかった。それで合っていますか? 当時のみなさんの“基本的な理解”は、まだその程度だったので、今日はそこに補足説明をして、認識をそろえておきたいと思います」
淡々としていながらもはっきりした口調で話し始める。
「通常、みなさんのような特別な免疫を持つ人間に致命傷を与えるには、クロモノウイルスの成分を含んだ武器が必要だと言われています。……けれど、実はそうとも限らないんです。場合によっては、“普通の武器”でも、みなさんを殺すことができます。それが、今日みなさんに知っておいてほしい“抜け穴”です」
「ええっ!!」
教室中から、一斉に驚きの声が上がる。
「みなさんの傷の自己修復は、基本的に“集中力”に依存しています。どんな種類の武器で攻撃されても、最終的には集中力を使って傷をふさぐことになるんです」
そう説明を続ける。
「ただし――普通の武器の多くは威力が低く、ほとんど集中しなくても勝手に塞がってしまう程度の傷しか負わせません。それに対して、毒を塗った武器や、クロモノウイルスを含む武器は、深刻な損傷を与え、いやでも高い集中力を必要とさせます。その差は、とても大きいんです」
「じゃあ、どうして“普通の武器でもオレたちを殺せる”なんて言うんですか?」
一人の男子が手を挙げ、疑問をぶつける。
「普通の銃弾なら、たとえ胴体に百発撃ち込まれても、みなさんの体は時間をかけて少しずつ修復していきますよね?」
そう前置きしてから、言葉を重ねる。
「でも、もし“刀”で首を一閃されたらどうでしょう。一度の一撃で首を落とされたら、どれだけ集中力が優れていても、正直、助かる見込みはほとんどありませんよね」
教室のあちこちから、間の抜けたような驚きの声がぽつぽつと上がる。レンジは思わず自分の首元に手を当て、ごくりと唾を飲み込んだ。
カナエがそっと片手を上げると、自然と視線が彼女に集まる。
「……でも、例外もあります」
話を続ける。
「切断された部位を二秒以内に処置してつなげられれば、助かる場合もあります。何事にも“絶対”はありませんからね。それから、傷に慣れきってしまって、痛みに対する耐性が異常に高くなった人の場合、回復そのものが簡単になって、ほとんど集中しなくても傷が塞がってしまうこともあります」
そこで一拍置いてから、真剣な口調で付け加える。
「……その場合、“変異”には十分注意してくださいね。そういう状態は、変異の引き金にもなり得ますから」
好奇心を隠しきれない様子のマサトが、勢いよく手を挙げた。
「じゃあつまり、普通の人間でも感染者を殺せるってことなんですか?」
「理論上は、可能性はあります。でも、そう簡単な話ではありません」
きっぱりと答える。
「そもそも“普通の人間”は、そう簡単に変異した感染者に近づけません。彼らの血液は、近づいた人間に二次感染を起こす危険がありますし、変質した肉体は、もともとの人間よりもはるかに“殺しにくい”構造になっています。皮膚は分厚く、丈夫になり、さらに“善悪の判断が曖昧になる”ような精神状態に陥ることも多い。そういった要素が重なって、“普通の人間が相手をする”という行為そのものが、極めて危険なものになるんです」
「じゃあ、クロモノを混ぜた武器で感染者を殺せるのなら、わざわざミッドナイト隊なんて作る必要、あるんでしょうか? 討伐隊だけで十分なんじゃ……?」
一人のコクメの少女が、遠慮がちに手を挙げて問いかけた。
カナエ、小さく微笑んでから、穏やかに答える。
「いい質問ですね。クロモノを混ぜた武器の“性能”は、あくまでみなさん自身がクロモノから引き出せる力と比べると、一〇パーセント程度しかありません」
そこで言葉を区切り、はっきりと言い直す。
「つまり現在の討伐隊が使っている武器は、“初期レベル”の感染者ならなんとか制圧・殺害できても、高位の感染者を真正面から倒すには力不足、ということです」
説明を聞いているうちに、レンジの頭の中では、想像上の“化け物”の姿が、いやに生々しく輪郭を帯びていく。
「一番いいのは、最初から感染なんてしないことだよなー」
耳元でささやくマサトの声に、レンジの意識が現実へと引き戻される。
「……好きで感染したやつなんて、誰もいないさ。おまえだってそうだろ」
淡々と答える。
「でも、もうなっちまったものは仕方ない。こうしてまだ生きて、ここで息してるだけでも、十分運がいいほうだと思わないか」
「それはそうなんだけどさ」
マサト、小さく笑ったあと、ぽつりと続けた。
「でもさ……正直言うと、オレ、こうなったことをあんまり後悔してないんだよね」
「ん?」
レンジ、眉をひそめ、横目でマサトをうかがう。
「なんでだよ」
「オレさ、心の奥じゃずっと“特別な力がほしい”って願ってたんだ」
マサト、どこか誇らしげな光を宿した目で言う。
「だって、カッコよくない? 他の人にはできないことが、自分だけできるってさ」
「でもこれは、生きるか死ぬかの話なんだぞ」
レンジが思わず口を挟む。
「だから何?」
マサト、まっすぐ前を見据えた。
「普通の世界にいたときのオレなんて、マジでつまんなかったよ。取り柄もないし、誰の目にも留まらない。いてもいなくても同じ、空気みたいな存在。毎日ただ、学校行って、家に帰って、本開いて、寝るだけ」
「でもさ、おまえもわかってるだろ。今おまえが相手にしてるものって、“いつでもおまえを殺せるかもしれない”存在なんだぞ。実際に、本物のクロモノ感染者を見たことがあるんだろ?」
「オレが?」
マサトは肩をすくめる。
「ないない。せいぜい“黄色レベル”までだよ。いわゆる標準クラス。オレらみたいな凡人が、“オレンジレベル”に遭遇するなんて、まだまだ先の話でしょ。討伐隊だって、オレンジレベルを相手にするには、何年も経験積んだチームじゃないとキツいんだからさ」
「……そう、なのか」
ごくりと唾を飲み込んだ。
「だったら、そのほうがいいけど」
「まさかとは思うけどさ」
目を見開き、じっとレンジの横顔をのぞき込む。
「おまえ、もう“オレンジレベル”とやり合ったことある、とか言わないよな?」
ほんのわずかにうなずいた。
「うわ……マジかよ。それ、普通にすごくね?」
「目の前の相手が、ワンミスでおまえを殺せる存在だったとしても、まだ“ミッドナイト隊でよかった”って胸張って言えるのかよ」
「もちろん」
即答し、にっと笑う。
「胸張るに決まってんじゃん。誰にも気づかれないままダラダラ生きて、何も残さずに死ぬよりさ。誰かのために死ねたほうが、まだカッコよくない?」
レンジ、そんな友の横顔を見つめ、ふっと口元を緩めた。
「……やっぱ、おまえ、最高にカッコいいよ、マサトくん」




