変わらないもの
試験室632号には、濃い煙が立ち込めていた。
煙の中、雄平はぼろぼろの姿で床にうずくまっていた。正志の拳をまともに喰らったせいだ。
「はぁ……そろそろ俺の任務も終わりってとこか」
煙の中から正志の声が低く響く。巨体の彼がゆっくりと歩み出ると、その手には煙を塊にして浮かべていた。
「ミッドナイト兵団には、弱いやつなんて必要ないんだよ」
彼は立ち止まり、床に伏せた雄平を見下ろし、冷たい口調で続けた。
「お前みたいな去勢された豚はよ……生きてるより、さっさと死んだ方がマシなんじゃねえの?」
そう言い放つと、正志は迷いなく雄平を踏みつけた。何度も、何度も。容赦のかけらもなかった。
それでも雄平は反撃しなかった。叫び声さえあげず、ただ歯を食いしばって、悔しさを飲み込んでいた。
「抵抗もしねえのか? クソみてえだな、ハッハッハ!」
正志が嘲笑う中、ついに息が上がったのか、その動きは止まった。
「ぜぇ……ぜぇ……くたばれ、クズが……」
「……ひっく……」
雄平の嗚咽が漏れた。彼はまだ意識があった。そして、ゆっくりと顔を上げる。
「こんなもんかよ……はぁ、もう疲れたのか?」
「なんだと……?」正志の表情が曇る。
「クズだの何だのほざいといて、それっぽっちの体力かよ、じいさん。……てめぇもクズだな」
雄平は震える体を押して立ち上がろうとする。ほとんど力は残っていなかった。
「でっけえ身体してて、考えられることはそれだけかよ……」
「弱い者を敬うって発想、ねえのかよ……?」
「……何が言いたいんだ?」
「倒れてる人間を平気で殴れる“いい人”なんて、いると思うか?」
そして雄平は、狂気にも似た笑みを浮かべた。
「ま、でも分かってんだ。結局、この世界は強い者のもんだってな。あんたは……それに従ってるだけだよな」
「……何の話だ」
「話してやるよ」
雄平は口から息を吐き、そして続けた。
「数日前、一人の男に会ったんだ。そいつ、自分がいつ第四段階になるかも分からねえってのに、誰かを守ろうとしてた」
彼は目を閉じる。
「俺なんて一度もまともに話しかけたこともないのに……そいつは、一度も俺を拒絶しなかった」
そして、ゆっくりと目を開いた。
「そいつから……俺は“諦めないこと”を学んだんだよ」
「……何を学んだって?」
正志の声が少しだけ、揺れた。
「それはな……」
雄平は腰を落とし、再び戦う姿勢に入る。目に炎が宿る。
「死ぬまで、諦めねえってことだよ!!」
そう言い終えると、雄平は地面を力強く踏み鳴らした。
その瞬間――
会場の床が地震のように激しく揺れた!
不意を突かれた正志は体勢を崩し、よろける。
「そこだな……!」
雄平は勢いよく振り向き、視線を正志に向けた。バランスを失った正志を見据えると――
「俺の拳でも食らっとけぇぇぇ!!」
轟くような雄叫びと共に、雄平の拳が真っ直ぐに正志の顎へ突き刺さる!
煙が再び立ち込め、防御のための壁が形作られたが――
それでもその拳を止めるには至らなかった。
ゴッ!と鈍くも響き渡る衝撃音――
正志の巨体が宙を舞い、無様にリングの外へと吹き飛ばされる。
雄平はリングの端に立ったまま、正志の姿をじっと見つめた。
追い打ちをかけることもなく、ただ静かに。
彼の拳は、今や岩のように固くなっていた――
それはまるで、彼の揺るがぬ心そのもののようだった。
「はっ……はは……ははは……」
倒れたままの正志が、かすれた声で笑い始める。
「俺の負けだよ……っく……お前を見くびってたわ……」
「……降参ってことですか?」
雄平が、静かに問いかけた。
「ああ」
正志は笑みを浮かべて頷いた。
「ようこそ、ミッドナイト兵団へ……弟分」
その言葉に、雄平の目が少しだけ見開かれる。
さっきまでの緊張に満ちた表情が、徐々に柔らかくほころんでいく。
石のように固まっていたその手も、すこしずつ元の人間の手に戻っていく。
まるで、長い年月の呪縛からようやく解き放たれたかのように。
「……ほんとに……いいんですか?」
「本当だよ。……なんで俺が嘘つくんだ……」
正志は深く息を吸いながら、肩を揺らす。
「フィジカル系か……今年の新人、面白くなりそうだな……」
.................................................................................................................................
「はあぁぁ……」
三人のため息が、各々のベッドの上で同時に漏れた。
今日の厳しい戦いを終えたばかりの彼らは、皆ぐったりとしていた。
「マジで……死ぬかと思ったわ……」
雄平がうめくように言った。
「でもさ、私たち三人って結構タフだよね。まさか生き延びるなんて、信じられないよ」
美姫はそう言って、ぐったりと枕に身体を預けた。
「美姫ちゃんの話を聞く限りだと……僕より全然強いと思いますよ」
蓮司はしょんぼりと呟いた。「最初は守ろうって思ってたのに……結局、自分が生き延びるので精一杯だった……」
「んふふ~ だって蓮司くん、聞いてくれなかったじゃない。私が空手やってたこと」
美姫はクスッと笑いながら返す。「でもさ、蓮司くんこそ強いと思うよ。心が、ね」
「いえ……僕なんか、振り返るとただの調子乗りに見えてきました。主人公っぽいこと言ってたくせに……ツッコミ役が関の山ですよ、僕なんて」
「うん、ツッコミ役っぽいよ。似合ってる」
雄平が笑いながら茶々を入れる。「それよりさ、お前……その左目、どうしたんだ? なんで紫色になってるんだ?」
「えっ? 紫……?」
蓮司は眉をひそめた。「雄平くん、何のことを言ってるの?」
「ほら、だから! 二次選考の前までは、君の目は明るい茶色だったのに……今はほんのり紫がかってるよ」
美姫もすかさず同意する。
気になった蓮司は、室内の透明ガラスで仕切られたバスルームへと向かった。
鏡に顔を近づけて確認すると、確かに――左目に淡い紫の輝きが宿っていた。
「なんだこれ……なんで色が変わったんだ?」
そう呟きながらも、痛みは一切なかった。
右目を手で覆って、左目だけで鏡を見る――
その瞬間、視界がズームインした。まるで望遠鏡のように。
「えっ……はは……何これ、かっこよ……」
思わず笑ってしまい、手を下ろすと視界は元通り。
「つまり、片目を閉じてる時だけ使える……? 本当にカメラみたいだな」
そう独りごちた後、蓮司はベッドに戻る。
「どうやら僕の左目……望遠機能が付いてるみたいです」
彼はそう伝えた。
「マジ!? 蓮司くん、すごいじゃん!」
美姫が目を輝かせて笑う。「超クール!」
「格好良さならともかく……戦闘力で言えば、僕なんか雄平くんや美姫ちゃんには敵いませんよ」
「私だって、自分の能力がどういうものかよく分かってないし……クモの糸とか、どう役立つのか全然……」
美姫は溜息をつきながら言った。「雄平くんの能力とは比べものにならないよ」
「でもさ、蓮司くんってサポート系とかスナイパー系が似合いそうだよな」
雄平は目を細めて言う。「性格的にも、隠れて一発狙うタイプっぽいし。……隠れるの得意だしな、マジで」
「うん。でも……石だって、壊れる時は壊れるからね」
美姫は静かに言った。
「雄平くんの力は確かに強いけど……もし短気すぎたら、その石だって砕けちゃうかもしれないよ」
「……はいはい、分かりましたよ、美姫さん」
雄平は肩をすくめ、少しだけ呆れたように返した。彼女の言葉が心配から来ていることを理解している。たとえ少し叱っているように聞こえたとしても。
「でも、二次選考を無事に通過できてよかったですよね」
蓮司がつぶやくように言った。
「つまり、僕たちも結構強いってことですよ。アキトさんが言ってましたけど、選考はあと三日も残ってるそうですし……ゆっくり休みましょう」
「三日も……?」
美姫は首をかしげながら、蓮司の言葉を繰り返す。
「蓮司くん、それが何を意味するか分かる?」
「え……美姫ちゃん、どういう意味ですか?」
蓮司が問い返すと、
「つまりね――まだまだ黒物に感染してる人が、たくさんいるってことだよ」
「……そうですね」
蓮司は目線を落とし、低く落ち着いたがどこか悲しげな声で言った。
「あと何人……こんな経験をしなきゃいけないんでしょうね。もし僕に特別な力があるなら……この病気を消してしまいたい。誰にもこんな命がけの試練を味わってほしくないんです」
「でもさ、『感染者』ってだけで……人を殺す理由にされるんだぜ」
雄平が冷静に言った。
「もし相手が殺さなかったとしても、いつかは俺たちが誰かを殺すことになるかもしれない。……その誰かが、もし大切な人だったらどうする? 守りたい人だったら……?」
その言葉に、美姫も蓮司も言葉を失った。
この新しい世界は、確かに残酷で、死と隣り合わせだ。
けれども――
もし自分たちが、最も愛する誰かをこの手で殺してしまうとしたら……
その苦しみは、生き地獄よりも深いかもしれない。
「……だったら、現実を受け入れるしかないよね」
美姫が小さく言った。
「雄平くんの言うとおりだよ。……もしかしたら、ここで過ごすことが、私たちなりの幸せなのかも。ね、そう思わない?」
「うん……そうかもしれません」
蓮司も頷いた。
「でもさぁ、どの部隊に配属されるのか、いつ分かるのかな?」
美姫は話題を切り替え、明るい声で言った。
「同じ部隊になれたらいいのにね〜!」
「たぶん、選考が全部終わったら審査員から発表されるんじゃないですかね」
蓮司が答える。
「聞いた話だと、ユニフォームが箱に入れられて、部屋に直接届くらしいですよ」
「でもさぁ……俺たち、強い部隊には入れない気がするんだよな」
雄平は苦笑しながら言った。
「選考だけでも死ぬかと思ったし。それに、あいつ見てみろよ……」
そう言って、別室を顎で示す。
「……あんなにぐっすり寝てやがる。まるで自分には関係ないって顔してさ。黒物の第四段階の能力って、一体何なんだろうな……」
「きっとトップクラスの部隊に配属されるでしょうね」
蓮司は乾いた笑みを浮かべた。
「うん……彼、ホントに強いもん」
美姫も小さく首を振りながら、しみじみとつぶやいた。