第84章 直人の処理
秘書官室の室内でも、低くひそめられた声と苛立った電話のやり取りが途切れなく響いていた。
壁掛けのテレビ画面では、連日のように御子神の名前と東亜重機を巡るスキャンダルの特番が流れている。「巨額の裏金」「官僚とフィクサーの癒着」を声高に糾弾するコメンテーターの怒号が部屋の隅に流れ込んでくるが、誰もその画面を見上げる余裕すらなかった。どれほど世間が祭りのように一つのスキャンダルに熱狂していようと、政務の裏側で刻一刻と迫る予算執行の期限や、現場のシステムが弾き出す例外エラーは待ってくれない。
直人は自席のモニターに向かい、主計局から上がってきた「承認保留」のアラートを冷ややかに見つめていた。
指し示されているのは、防衛関連インフラに紐づく旧特例区分の管理コードだった。
一連の報道によって各部署が「慎重を期す」という名目で書類の差し戻しや確認を乱発したため、霞が関の処理ルートは完全に目詰まりを起こしていた。直人は上層部からの「過去の決裁履歴と整合させろ、ただし余計な波風は立てるな」という矛盾した政治的指示を受け、現場と政務ラインの間で板挟みになっていた。
卓上の電話が鳴り、直人は受話器を取った。主計局の担当職員からの、疲労と焦燥の混じった声だった。
『……直人くん、そこの南西ブロックの配分データ、まだ政治側の判断は下りないのか? 旧コードの紐付けが重複していて、自動承認のトリガーが引けないんだ。上は「規定通りに処理を回せ」って言うが、旧台帳の権利名義に対する承継確認が取れず、このままだと現場の支払いが全滅する』
直人は静かに答えた。
『歴史的な経緯で旧コードと現行管理項目の不整合が残っている。最新の財務システムがそれを拒絶しているんだ』
電話の向こうで、職員が乾いた自嘲の笑みを漏らした。
『世間では御子神のせいでこのシステムが歪められたみたいに騒いでるが、おかしな例外を何十年も継ぎ足してきたのは僕ら自身だもんな。……頼む、秘書官室の権限で例外承認のフラグを立てて、エラーを通過させてくれ。これ以上止められたら現場が保たない』
直人はキーボードの画面を見つめた。
これを秘書官として「例外承認」として通せば、現場の停止は回避できる。しかしそれは、法的な権利の存否を曖昧にしたまま不整合を別の場所へ先送りし、見えないように隠蔽することと同義だった。
『……了解した。政治的調整として例外処理を認める』
直人がシステム上で承認の操作を完了させると、画面上の赤いエラー表示が消え、無機質な「処理完了」の青い文字に変わった。
テレビから聞こえる御子神糾弾の喧騒の裏で、この国家のシステムは、日々の膨大な「辻褄合わせ」の蓄積と政治的裁量だけでかろうじて形を保っている。
直人は受話器を置き、誰にも見られないように小さく息を吐いた。秘書官として自分がやっているのは、崩れかけたダムの壁面に泥を塗りたくるような作業でしかないという冷たい実感が、胸の底に重く沈んでいた。




