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『東京インバージョン』  作者: Moon


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第63章 砂場の輪

午前の穏やかな日差しが差し込む公園で、氷室は古びたベンチに横たわるように腰掛け、虚ろな目で秋の空を見上げていた。

特に目的があったわけではない。ただ、足が勝手に止まり、そこに身を預けていた。視界の端には、色づいたケヤキの枝先が風に揺れている。

少し離れた場所にある砂場から、幼い子どもたちの甲高い声が聞こえてきた。

「お母さん、ごはんできたよ」

「お父さん、まだ帰ってこないの?」

「うん。お父さん、また会社で怒られてるって」

「じゃあ、お母さんが怒らなきゃ」

「なんで?」

「だって、そういう時は誰かを怒らないと、家がうまくいかないんだよ」

氷室は目を閉じたまま、その無邪気で滑稽な会話を耳に入れた。

その家の家庭事情が丸わかりだなと、思いながら上の空でいた。

子どもたちは、遊びの中で大人たちの世界を忠実に再現していた。家計のやり繰り、固定された役割、鬱屈した不満、そして責任の押し付け合い。誰かが悪者になり、誰かがそれを裁き、誰かが黙って耐える。彼らは決して悪意からそれをやっているわけではない。ただ、日々の生活の中で自分たちが目撃し、肌で感じてきた大人の振る舞いを、そのまま遊びのルールとして模倣しているだけだった。

氷室は薄く目を開けた。

砂場の隅で、一人の小さな男の子だけが輪の外にポツンと取り残されている。

「お前、こっちに入っていいよ」

輪の中のリーダー格らしい子どもが、面倒くさそうに言った。

「でも、お母さんの役はもう決まってるから」

「じゃあ、何するの?」

「……何もしなくていいよ。ただ、そこにいて」

その子は砂場の縁に、所在なさげにしゃがみ込んだ。

遊びの輪の中心にいる子どもたちは、一瞬だけ視線を向けたものの、すぐに自分たちの世界へと引き返していった。誰も露骨にいじめてなどいない。石を投げたり、暴言を吐いたりするわけではない。ただ、その子は音もなく「排除」され、あからさまにシステムの周縁へと押しやられていた。

子供達にとっては排除ではなく、その子に役割を見出せないでいるだけだ。配慮や気遣いが出来ないのは子供だから致し方ない……。

氷室はこともな気に、その場のやり取りから視線を外そうとした時、脳裏にふとした違和感が過った。

——本当に、子どもだから致し方ないのだろうか。

彼らは単に未熟で、気遣いを知らないだけなのか。いや、違う。彼らの脳と精神は今、まさにこの瞬間にも、大人社会という残酷な鋳型に嵌め込まれながら、驚くべき速度で「分別」を分化させている最中なのだ。

人間は、最初から誰かを排除するように生まれてくるわけではない。赤ん坊の頃の知覚は、自分と他者、世界との境界すら曖昧な、混沌とした一つの塊だ。そこには優劣も、役割も、排除の論理も存在しない。だが、成長の過程で大人たちの言葉を覚え、社会の仕組みを吸い込むにつれて、子どもたちの世界には明確な「境界線」が引かれ始める。

最初は「男と女」「親と子」といった単純なカテゴリーの分別。それがいつしか、大人たちの背中を見ることで、より歪んだ判断基準へと変貌していく。

『役に立つ者』と『役に立たない者』。

『内側の人間』と『外側の人間』。

『ルールに従う者』と『システムに馴染めない者』。

砂場のリーダー格の子どもが見せた振る舞いは、悪意なき純粋な「分別の実践」だった。彼らは大人社会の冷徹な合理性を、すでに学習し、自らの分別として内面化しているのだ。役割を持たない人間、生産性のない人間は、集団のシステムにおいて「ノイズ」でしかない。だからこそ、暴力を振るうまでもなく、ただ「そこにいていいよ」という残酷な無関心によって、静かに、論理的に枠外へと押し出す。

それは、氷室自身が身を置いてきた世界そのものだった。それらの因子が深く根を張り、自己保身のために役割を組み替え変容していく。

──時間が、この無垢な光景を不可逆に歪めていく。

始まりは、何ら悪気のない純粋な「効率化」に過ぎないのだろう。砂場を円滑に回すための、たわいもない役割分担。子どもたちに悪意など1ミリもない。

だが、システムは静かに変容を始める。

年齢を重ねるにつれ、無邪気だった区別は、自らの立ち位置を守るための生存戦略へとすり替わっていく。空気を読むこと。同調圧力に依存すること。多数派という匿名性の陰に隠れること。最初はただ役割が見出せなかっただけの「外の子」が、時間を経るごとに、明確な意志を持ったシステムの防衛によって、あからさまに排除されるべきノイズへと確定していく。

前例という名の防波堤を築き、不都合な正論を「いなかったこと」にして圧殺してきた、機能不全に陥った官僚機構。欺瞞に満ちた社会も元を正せば、始まりはすべて、この砂場のような他愛もない模倣だったはずだ。それが時間をかけて培養され、年齢とともに自己形成の血肉へと組み込まれ、やがて誰の手にも負えない巨大な「呪縛の輪」へと完成を見る。

数の力による切り捨て、空気という名の同調圧力、内輪の権益を守るためのマジョリティの形成。この社会の歪んだ市場が構築してきた冷酷なシステムのプロトタイプが、このうららかな陽だまりの中で、狂いなくトレースされていた。彼らは生きた装置だ。社会が犯すあらゆる欺瞞の芽を、その笑顔の裏で静かに育て上げている。

背筋を静かに這い上がる悪寒を感じた。氷室はコートのポケットに突っ込んだ拳を固く握り締めた。

メモ帳を取り出す気には到底なれなかった。瞼の裏に焼きついたあの小さな砂場の縁の冷たさが、世代を超えて連綿と受け継がれていく巨大な呪縛の輪郭として、嫌な手触りを残して離れなかった。

「直すべきは、あの砂場ではない。あそこに濁った泥水を注ぎ込んでいる、我々大人の在り方だ」

そう口にしかけて、氷室は自嘲の笑みを漏らした。その言葉さえも、自らを高みに置いた欺瞞の正論に過ぎない。

氷室はゆっくりと拳を解き、凍りついた目で高層ビル群を見上げた。

子どもたちはただの鏡だ。大人が自ら生み出した不安と保身のシステムを、忠実にトレースしているに過ぎない。大人がシステムという幻影に狂い、今ここにある楽園を忘れているからこそ、その代償を子どもたちに払わせている。

だが、あの高層ビルの窓のどこかで今日も歪んだルールを書き換えている連中も、そしてその隙間を縫って冷酷に数字を貪り喰っている自分自身も、あの砂場から一歩も外へは出ていないのだ。

大人たちが築き上げた偽りの牙城が崩壊したとき、この社会は初めて、自らの手で何を壊し、何を忘れてしまっていたのかを、その焼け跡の中で思い知ることになる。

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