第55章 止まった支払いと古い規程
冷たい雨が霞が関の窓を打つ朝、財務省の端末群はいつもと変わらぬ無機質な光を放っていた。フロアの天井に埋め込まれた蛍光灯は、朝から夕方へ移り変わる自然の光のグラデーションを完全に遮断し、ただ乾いた空調の駆動音だけが一定の周期で耳の奥を撫でている。
直人が担当するセクションの画面上で、数兆円規模のインフラ資産に紐づく特定の維持費の支払いデータが、突然赤く点滅して停止した。
エラーコードの指し示す先は、これまで問題なく通過してきたはずの「旧特別会計の資産管理権限」に関する項目だった。
「――久慈さん、ちょっといいですか」
直人はマウスから手を離し、斜め前の席に座る久慈に声をかけた。久慈は手元の古い紙の台帳とディスプレイの数値を交互に見比べながら、鉛筆の先を唇に当てて微動だにしていなかった。その目の下には、連日の残業で蓄積された深い影が刻まれている。
「なんだよ、直人。またエラーか?」
「ええ。第十四条ノ二の管轄照会で、支出の承認ルートが途中でロックされました。これ、このまま放置すると来週の業者への振り込みに影響が出ますけど……上の決裁、もう回ってますよね?」
久慈は小さく息を吐き、机の上積みにされた決裁書類の束をあごでしゃくった。
「回ってるわけないだろ。さっき統括から内線があってな、『今回の移管スキームに防衛省管轄の特区指定が絡んでいる疑いがあるから、全件の支払いを一旦フリーズしろ』って司令が下りたんだよ。こっちだって、勝手に判子を押せる状態じゃない」
「フリーズって……理由はなんですか? 実務上の不備ですか、それとも法的解釈の食い違いですか?」
「理由なんて誰も教えてくれないよ。『前例がないだから慎重を期す』、上はそれしか言わない。こっちがいくら現場の維持費ですって説明しても、『じゃあお前が全責任を取れるのか』って言い返されるだけだ。無理だな」
久慈はそれ以上話すまいと、手元のファイルに視線を戻した。
その時、フロアの通路を、別の部署の若い職員が青ざめた顔で書類を抱えて駆け抜けていった。すれ違いざまに聞こえたのは、「また差し戻しだ……これじゃ今月の予算執行が間に合わない……」という掠れた独り言だった。誰もが焦燥感を抱えながら、しかし誰一人として足を止めて全体の仕組みを問い直そうとはしない。動かないことが最も安全であるという沈黙のルールが、フロア全体の空気として重く澱んでいた。
窓の外では、灰色の空から雨脚がさらに強まり、アスファルトの路面を濁った水溜まりに変えていく。
直人は再び自分の端末に向き合ったが、画面上で点滅する赤いエラー表示は、冷徹なまでの沈黙を保ったままびくともしなかった。
その夜、氷室の宿の郵便受けには、差出人のない茶封筒が入っていた。
封筒の表には、何も書かれていなかった。中には、古い移管台帳の写しが数枚と、現在の管理番号が並んだ照会票のコピーが入っていた。
余白には、鉛筆で短く記されていた。
――「旧名義、死亡。移管先不明。現行コード照合不能」
氷室は、封筒を机の上に置いたまま、しばらく動かなかった。
差出人は分からない。
だが、写しの余白に残された字の癖と、照会票の番号の並び方から、関谷だろうということは分かった。
氷室は、国立公文書館で書き写した大正期の分類番号を開いた。二つの数字は完全には一致しなかった。だが、間にある欠番の並び方だけが、妙に似ていた。
氷室はコピーを机の上に置いたまま、しばらく動かなかった。
相場では、値そのものよりも、板に現れない注文の抜け方が流れを教えることがある。
これは証拠ではない。
それでも、流れはどこかでつながっているように思えた。
氷室は黒い表紙のメモ帳を開いた。
万年筆のペン先が、紙面の上で止まった。
――『権利は移る。責任は残る。しかし、どちらも誰の手にも届かない』
ペン先を走らせようとして、氷室はやめた。
それは、自分の都合のよい説明かもしれない。
氷室はメモ帳を閉じ、窓の外を見た。雨は、まだ止んでいなかった。




