第53章 所有者不明
午後の冷気が北の丸公園の木立を抜け、閲覧室の窓に淡い影を落としていた。
氷室は、国立公文書館の閲覧室で、請求票と引き換えに運ばれてきた古い簿冊を前にしていた。
手元にあるのは、大正期に編まれた区画整理事業と広域インフラ計画に関する原簿だった。退職してから、氷室は省庁の建物に自由に出入りできなくなった。かつてなら、廊下の先にある書庫へ向かえば済んだことが、今では目録を検索し、請求書を書き、公開の可否を待たなければならない。
それでも、紙は残っていた。
氷室は、薄い手袋をはめた指先で、経年劣化した紙を慎重に繰った。
『――該当土地ニ関スル権利ハ、大正初期ノ区画整理事業ニ於テ寄進サレタルモノトシテ処理スルモ、権利者ノ実名ハ戸籍及ビ地籍台帳ノ双方ニ記載ナシ』
そこには、人の名前の代わりに「不明」という二文字が残されていた。
氷室は、黒い表紙のメモ帳を開く。
――『所有者不明。責任の所在ではなく、責任が発生する以前の空白』
ページの端には、用途を示す古い分類番号だけが残っていた。現在の省庁名では読めない記号だった。氷室は番号を書き写したが、意味までは追わなかった。
何十年も昔の人間たちが、制度の不備と責任の所在の曖昧さに直面し、それをただ「放置する」という最も安全な選択によって未来へ先送りした。その結果が、現在の霞が関を縛る巨大な澱みとなっている。
法や規程とは、社会を円滑にするための道具であるはずだった。だが、いつの間にかそれ自体が目的と化し、誰にも動かすことのできない自律的な怪物へと変貌していた。
その頃、本省の執務室では、直人が再び自らの端末画面を見つめていた。
先ほど戻ってきた移管申請データの山を前に、彼は「0.3%の数字のずれ」が持つ意味を測りかねていた。全体で数兆円に及ぶ規模から見れば、誤差の範囲とも言えるわずかな乖離である。しかし、現在の厳格化された監査システムにおいては、見過ごすことのできない「不整合の爆弾」として機能していた。
ここで自分が先回りして判断を下し、強引にそのずれを修正するか。あるいは、再び上のセクションへ差し戻し、責任を上へ戻すか。
直人の脳裏には、先日の周囲の冷徹な忠告が蘇っていた。
――「深追いするな。自分の首が飛ぶぞ」
しかし、直人がマウスを握る手に力を込めたその瞬間、フロアの電話が鳴り響いた。別の部署から、「当該資産の旧名義人に関する新たな問い合わせ窓口への連絡」が回付されてきたのだ。
名義人はすでに何十年も前に死亡しており、その遺族の行方も誰も把握していない。それにもかかわらず、システムの自動処理と過去の規程の亡霊だけが、生きた人間を縛るかのように、冷たく点滅を続けていた。
構造の歯車は誰にも止められないまま、ただ摩擦音だけを高くし、翌日の午前へ向けて回転を続けていく。




