第1章 佐藤の定点
アルミホイルを剥がした瞬間に鼻をつくのは、冷蔵庫から出したまま電子レンジで温め直した幕の内弁当特有の、気だるい油の匂いだった。白飯の上に申し訳程度に載っている塩鮭の皮目は、染み出した脂で鈍くテカっている。
佐藤は箸でその身を乱暴にほぐし、口に放り込みながら、目の前のテレビ画面に目をやった。ローカルニュースの経済情報コーナー。画面の端で、東京市場の指数を表す細い折れ線グラフが、誰の関心も引かぬまま緩やかな右肩下がりを描いていた。
「……また円安かよ」
誰に聞かせるでもなく呟き、佐藤は茶碗の縁にこびりついた乾いた米粒を箸の腹でこそぎ落とした。朝の七時半。部屋の隅にある古い空気清浄機が、低い唸りを上げて埃を吸い込んでいる。ジャケットの袖口には、昨日、現場の配電盤の裏で擦った薄いグリースの染みが乾きかけて残っていた。佐藤はその染みを一瞥しただけで、すぐに視線を外し、飲みかけの冷めた緑茶で油っこい口の中を洗い流した。
佐藤は通勤用のスニーカーの踵を踏み潰したままアパートの玄関を出ると、湿った朝気が背広の布地を冷やしている。電柱の影がアスファルトの上で長く伸びている。佐藤はそのまま地方局の巨大な鉄塔の影へと歩いていった。
夏場の冷房が効きすぎているのか、あるいは機械の熱がこもっているのか、マスター室の空気には常に乾いた匂いがしている。佐藤は椅子の背にもたれ、目の前にある監視端末のフラット画面から目を離さずにいた。
マルチディスプレイの隅で、局内受電盤の電圧低下を示すインジケーターが一度だけ、脈打つように細かく点滅して消えた。
「……なんだこれ」
呟きながら、佐藤は手元にあった半端な冷たさの缶コーヒーを置き、キーボードに指を置いた。
受変電設備の監視端末に出た瞬時電圧低下のログである。
佐藤はため息をつきながらマウスを滑らせた。
異常値の示された欄をクリックし、ドロップダウンメニューから選択肢を探す。
――瞬時的な変動。設備への影響なし。
そのもっとも当たり障りのない項目にカーソルを合わせる。報告を上げれば、確認の電話が来る。原因の切り分けも始まる。次の土曜日は、娘の運動会だったはずだ。それに、この異常値自体が、あと十分もすれば自然に消えてなくなる一時的なノイズの可能性の方が高い。
「……これでいいか」
佐藤は小さく呟き、確定キーを押した。
それまで赤く点滅していた警告表示がスッと消え、点検画面の上には整然とした緑色の欄だけが残った。
佐藤はキーボードから手を離し、再び缶コーヒーを持ち上げてぬるい液体を喉に流し込んだ。変更された判定は、そのまま次のサーバー処理へと送られていく。
オフィスの天井裏で、空調のファンが一定の重い音を立てて回り続けていた。
午前中の業務の合間、佐藤は隣の小さな休憩室で、冷えた緑茶のペットボトルを手に持って窓の外に視線を向けていた。夏の強い日差しがアスファルトを照りつけている。
テーブルの向こうでは、同僚の若い男がスマートフォンを見つめていた。
「佐藤さん、今日の午前中、本局からなんか点検の追加とか来てました?」
「いや、聞いてねえな。通常通りのローテーションだろ」
「ですよね。なんか朝方、こっちの送電ラインで瞬間的なチラつきがあったとかチャットで流れてたんでさ」
佐藤は平然とした顔でペットボトルの蓋を閉めた。
「あー……、まあ、よくあることだろ」
それ以上話を広げないように返し、佐藤はこれから処理すべき書類の山へと意識を切り替えていく。
本局の保守センター。
蛍光灯の白い光が反射する端末の前に陣取る若い技術者は、画面に送られてくる送電網の稼働ログをぼんやりと眺めていた。
システム側の監視画面には、すべて「正常」の緑色が表示されている。地方局からの異常報告も上がっていない。
技術者は独り言を呟きながら、手元のチャットログに目をやった。
「朝方、あっちのラインでちらつきがあったって話もあったけどな……」
彼はそれ以上の詮索をせず、単なる噂か誤認だろうと判断して、マウスを動かして別の配電系統の定期点検スケジュールへと画面を切り替えた。
プリンターが乾いた音を立てて、点検票を数枚吐き出す。その一番下に、次回のメンテナンス予定が淡々と印字されていた。技術者はそれを一瞥し、用紙を束ねた。




