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血戒の心臓  作者: 天野地人
第二章
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第15話 月明かりの夜

 一瞬の動揺の後、すぐに自分が立ち眩みを起こしたのだと気付いた。

 

 ここ最近、不調が続いていたが、こんなに強い眩暈を覚えたのは初めてだ。ほんの数秒だったが、視覚と聴覚、両方が途切れた。幸い、その症状は長くは続かなかったが、血液(栄養)不足がここまで深刻化しているのかと思うと、一抹の不安が胸を過る。


 ユナもルヴィスが立ち眩みを起こしたことに気づいたようだった。僅かに顔を強張らせるが、すぐにいつもの明朗快活な様子に戻って言った。


「ルヴィス、後のことは任せて、お前は家に戻れ」

「これくらい、大したことじゃねえ。過敏に反応しすぎだっての」

「いいから、戻れ。リーゼロッテのそばにいてやってくれ。いいな?」

 そして、ニコッと笑って見せる。そのように頼まれたら、強く反対するわけにもいかない。ユナも勿論、何とかしてルヴィスを休ませようと、敢えてそういった言い方を選んだのだろう。


「ユナ……」

 ユナの配慮はありがたがったが、同時にそんな気遣いをさせてしまう自分が、心なしか情けなくもあった。相手は吸血鬼だ。いつどこで襲われるとも知れない。本来であれば、自らが先頭に立って動くべき状況であるのに。


「行くぞ、ハイノ」

「はい‼」 

 ユナはそう言うと、ハイノを連れて勢いよく部屋を出ていく。ルヴィスは胸中に広がる負い目や後ろめたさを押し隠し、二人を見送った。その様子をじっと見つめていたフィーネは、ドアが閉まると共に口を開く。


「随分、心配されているようね?」

 やたらと含みのある口調だった。真面目に相手をしていたら、面倒臭そうな展開になるのは間違いない。

「うるせえ」

 ルヴィスはぼそっと吐き捨て、部屋を後にしようとするが、フィーネはその背中に更なる追撃を繰り出してくる。


「そういえば、ダークエルフの娘を保護しているそうね。リーゼロッテというのはその娘の事?」

「関係ねーだろ」

「……二股なんて、サイテー。ユナを泣かせたら絶対に許さないから」


 一段と低い声で、フィーネは鋭く囁いた。軽蔑と殺気の入り混じった、凄みのある一言だ。台詞の内容といい、さすがに聞き捨てならない。ルヴィスはフィーネの方を振り返り、大声を張り上げる。


「あのなあ……そういうんじゃねーよ! 大体俺は、リーゼロッテには嫌われてんだ! 二股が成立するわけがねえだろ‼」

「あら、それじゃユナとの関係は認めるのね?」

「そうは言ってねえ……っつか、卑怯だぞ、その言い方は! いろいろと‼」

「どうかしら? 古今東西、男の言う事なんてアテにならないものだし、はっきり言ってあなた、節操が無さそうだしね」

「どこがだよ!? おい、ちょっと待て‼」 


 ルヴィスは己の潔白を証明する意味も込めて、強い口調で怒鳴るが、きれいさっぱり何の効果も無かった。フィーネは言いたいだけ言い終えると、つんとそっぽを向いて部屋を出ていってしまう。こちらの主張など、はなから聞く気もないようだ。


「くそ……どこまでも性悪な女だな」

 怒り半分、呆れ半分で呻くと、空中にタンポポの綿毛のような真っ白な光が灯り、レーヴァテインが姿を現した。フィーネとの会話を聞いていたらしく、顔を真っ赤にして怒っている。


「主様! いつでもお申し付けくださいですの! あんな女、私が背後からバッサリいってやりますわ!」

「いや……それはいい。お前にそんな人斬りみてえな真似、させられねーよ」


 ルヴィスは苦笑した。気持ちはありがたいが、レーヴァテインなら本当にそれを実行しかねない。武器であるとはいえ、幼女の姿をし、人格もある彼女に、できるだけ人殺しはさせたくない。


「あら、私は構いませんのに……でも、主様のそういうところ、好きですわ!」

 レーヴァテインはぽっと顔を赤らめ、その桃のようなふくふくした頬を両手で覆い、体をくねらせた。これまたありがたい誉め言葉だが、フィーネとの会話の後だと、少々複雑な心境になる。


「……。レーヴ、俺って節操なさそうに見えるか?」

「主様はそこが魅力ですの! 気にすることないですわ!」

「否定はしねーんだな?」

 ルヴィスは思わず苦笑するが、再び目眩に襲われ、すぐに顔をしかめた。今度は先ほどのものより更に数段強く、咄嗟に傍にあった机にしがみつかなければ倒れるほどだった。その弾みで、机に積まれていた分厚い本や巻物のいくつかが、バサバサと音を立てて崩れ落ちた。


「主様!?」

「いや、何でもない。ちょっと疲れてんだろ。今日はユナの言葉に甘えさせてもらうか」


 平然を装わなければ、レーヴァテインに心配させてしまう。ルヴィスは飄々と感じられるほどに陽気な声音でそう答えた。

 しかしそれとは裏腹に、胸中では嫌な予感が重い鉛のようになって、心身を圧迫していた。自分はかなり弱ってきているのではないか。今までどんなに渇きを覚えても、体がこんなにふらつくことはなかった。以前はそのような状態に陥る前に、ジークムントによって瀕死状態にされ、『魔力のリセット』を施されていたという事もある。

 しかしその時でさえ、不調がこんな形で表に出ることはなかった。


(考えすぎだ。少し休めば、きっと治まる)


 ネガティブなことを考えていたら、行動力も鈍る。そうなれば、何もかも悪くなるだけだ。ルヴィスは強引に己の懸念を封じ込め、眩暈の事を忘れることにした。


 しかし、現実はどこまでも執拗で、冷徹だった。





 その日の夜。


 日にちを跨いだころ、ルヴィスはいつものように激しい発作に襲われた。


 喉から胃にかけて、凄まじい痛みが何度も迸る。まるで、内臓を内側から鈍器で殴られているかのような、常軌を逸した痛苦。口からはどんなに押えても、唾液が沸き上がってきて溢れる。何もかも忘れ去って本能のままに暴れ出しそうになるのを、ベッドのシーツを掻き毟って何とか耐えた。ともすれば途絶えそうになる理性を、繋ぎ留めるので精一杯だ。


 発作は明らかに、日を追うごとに激しさを増していた。

 一体いつまでこの状態を維持することができるのか。今日は耐え抜くことができるかもしれない。でも、明日は耐えられるだろうか。

 三日後、そして四日後。自分は『人』のままでいられるのだろうか。 


 しかしあまりの苦しさに、そんなことを冷静に考えられる状況ですらなかった。どうしていいのか、分からない。今はただ、歯を食いしばって嵐が過ぎ去るのを待つことしかできない。


「ヒューッ、ヒューッ……!」

「主様……何て痛々しい……!」

 レーヴァテインは部屋の隅で縮こまりながら、涙を流す。


 月夜に浮かぶルヴィスの背中は、あばらがくっきりと浮かび上がり、いくつもの濃い陰影を刻んでいた。手や足もガリガリに瘦せ細っており、関節部は骨が剝き出しになっている。首や胸にかけて己が掻き毟った爪の後が縦横無尽に走り、夥しい血が滲んでいた。瞳は虚ろで、いつ正気を失ってもおかしくない。何日も飲まず食わずでうろうろと餌を探す、凶暴な狼のようだった。


「血……血を……! 誰か、俺に血をくれ……‼」

 半ば無意識に呟くルヴィス。

「あ、主様……!」

 レーヴァテインの悲痛な声で、ようやく、はっと我に返った。

「お……俺は、今何を……!?」


 何と汚らわしい言葉を口にしてしまったのか。全身がカッと熱くなり、激しい自己嫌悪に陥った。いくら正気を失っていたとはいえ、己が許せなかった。結局、それが自分の本年なのか――そう思うと、形容し難いほどの羞恥心と絶望感に、身の内が焼け焦げるようだった。


 すると、項垂れるルヴィスのすぐそばから、ユナの声が聞こえてきた。


「血なら、ここにある」

「ユナ……!?」

 ルヴィスはぎょっとして仰け反った。


 いつの間にか、ユナがルヴィスの部屋に入り込んでいた。それにすら気づかないほど、ルヴィスは我を失っていたのだ。


 今の言葉を聞かれたのだろうか――焦りと後悔が胸を押しつぶしそうになるが、すぐにそんなことはどうでもよくなってしまった。ユナはいつぞやと同じ、最低限の下着とキャミソールを羽織った姿だったのだ。美しい三角形を描く、フェンリル族特有の獣耳。滑らかな銀髪は月光を浴びて絹糸のように輝き、サファイアのような紺碧の瞳と合わせると、まるで腕利きの職人が手掛けた銀細工のようだった。

 恥ずかしげに伏せられたまつ毛は、常と違って妙に色っぽい。

 

 露わになった肩、美しく弧を描いた首筋――― 


「お前……どういうつもりだ!?」


 ルヴィスは見てはいけないものを見てしまったような気がして、慌てて目を逸らしながら言った。顔も声も、これ以上なく強張っている。無様に動揺を悟られるのだけは避けたかった。程よく引き締まった腿、バランスのとれた豊かな胸――それらよりも首筋に目が行ってしまう醜い自分を、知られたくなかった。


 いつもであれば、ユナもルヴィスの拒絶にすぐ気づいただろう。いや、今も気づいているのかもしれない。だが、その真っ青な瞳には、何か決意したような強い光が宿っていた。


 ユナは迷わず、ベッドの上に膝をつく。スプリングが、ぎしっと音を立てた。ルヴィスの全身が、びくりと跳ねる。しかし、そんなルヴィスを、ユナはまたもや躊躇なく抱きしめた。

「ユ……ユナ……!?」


 さすがに狼狽するのを隠し通すことができなかった。一体、何を考えているのか。そう問い詰めようとするが、うまく声が出てこない。息を潜め、ユナの反応を待つ。


「私の血を吸え、ルヴィス。このままではお前は衰弱して死んでしまう……!」


 耳元で囁かれた甘美な誘惑に、脳天が痺れた。ルヴィスを包むユナの肢体は、ババロアのようにしっとりとして柔らかい。真っ白で透明な首筋が、すぐ目の前にある。その奥底に流れている真っ赤な血が、えもいわれぬ甘い芳香を上げていた。吸血鬼のみが嗅ぎ分けられる、人間の血の匂い。理性のたがが外れ、貪り尽くしたいという衝動に襲われる。


 しかし、それをしてしまったら。一線を越えてしまったら、二度と人として生きられないだろう。正真正銘、ただの吸血鬼に成り下がってしまう。


 ギリギリのところでルヴィスは理性をつなぎ留め、ユナの体を押しのけた。


「退けろ! 俺に近づくな‼」


 しかし、ユナもルヴィスがそういった反応を返すことは、あらかじめ想像していたのだろう。怯むことなく、逆にルヴィスに詰め寄ってきた。


「ルヴィス……お前が人の血を口にするのに抵抗があるというのは知っている! しかし、お前は吸血鬼だ。それはどう足掻こうと変えられぬ、事実なのだ‼」


「だったら何だ? 好きで吸血鬼になったとでも思っているのか!? それを俺にそれを突き付けて、一体何がしたい‼」


「違うんだ……聞いてくれ、ルヴィス! 私は、お前が吸血鬼であっても気にしない! お前が何者であったとしても……例え人類の敵だったとしても、私はお前のそばにいる! お前に血が必要ならば、喜んでそれを差し出す! お前なら……お前になら、首を咬まれ血を吸われても怖くはない‼」


「ユナ……!?」


 ユナは頬を紅潮させ、一気にそう捲し立てると、さすがに恥ずかしくなったのか、獣耳をぺたんと伏せて俯いた。それでも毅然とした表情を浮かべ、顔を上げると、まっすぐルヴィスへと視線を向ける。そして両の手でルヴィスの右手を取ると、優しく握りしめた。


「だから……頼むからもう少し、自分を大切にしてくれ! 自分で自分自身を罰し続けて、何の意味がある? お前がそうやって己を否定している姿を見ると、私も辛くて堪らなくなる……‼」


 ユナはそう言って、嗚咽を漏らした。ルヴィスは呆けたようにしてユナを見つめる。しかし次の瞬間、感情の奔流が全身を貫いた。その激しさに思わず、叫びだしたい衝動に駆られる。だが、声をあげてしまえば、それが引き金となって自分が何をしだすかわからない。ただ、歯を食いしばってそれに堪えた。


 自分のために涙で頬を濡らす彼女が、愛おしくて、切なくて、それ故に引き裂かれるほど辛かった。もし己が吸血鬼などでなかったら、こんなに苦しい思いはしなかっただろう。今頃、思う存分、ユナを抱きしめていた筈だ。ユナはルヴィスに惹かれている。かつての英雄としてではなく、一人の男としてのルヴィスに。


 そしてルヴィスもまた、ユナを愛しているのだから。


「ち……近づくなと言っただろ‼」

「ルヴィス……‼」

 ルヴィスは肩で息をし、喘ぎつつ、それでもユナの手を振り払う。


「俺にこれ以上、惨めな思いをさせないでくれ……‼」


「わ、私は……そんなつもりでは……!」

 突き刺すようなルヴィスの言葉に、さすがにユナもショックを受けた様子だった。声が震え、狼狽が滲んでいる。


「……何故、私を拒む? 私のことが嫌いか? 私はお前を信じている。でも……お前は私を信じていないのか?」


(そうじゃない……!)


 ユナが大切だからこそ、彼女を傷つけたくないのだ。正気を保てるかが著しく怪しい中で、ユナに触れるのが怖かった。このままでは、衝動のままにユナの体を引き裂いてしまうかもしれない。その結果、取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。


 しかし、ルヴィスはそれをユナに言い出せずにいた。


(俺は、ユナに吸血鬼として見られたくない……ユナの前では人でいたいんだ!)


 今でも本当なら、あばらが浮き上がり、痩せ細った弱々しい姿を彼女に見られたくない。人の血が吸いたいなどというおぞましい言葉を口にしたことを、できることなら知られたくなかった。ユナを信用していないわけではない。好きだからこそ、大切に思っているからこそ不甲斐ないところを見せたくなかった。ユナの好意に、簡単に甘えるわけにはいかなかったのだ。 


 それに何より、真実を口にすれば、自らが吸血鬼であると認めてしまうことになる。いかなる恥辱に耐えたとしても、それだけは我慢ならなかった。


 ユナが自分に思いを寄せてくれることは、純粋に嬉しかった。それはルヴィスの、まごうことなき本心だ。だがいくら嬉しくとも、それに甘んじたり、つけ込んだりするような真似だけは決してしたくない。信じていないからではない。信じているからこそ、その信頼を邪心で傷つけたくなかった。


 それはルヴィスの最後のプライドであり、意地でもある。


(結局、俺はこうするしかないんだ)

 

 己の感情がどうであろうと、どれだけユナのためを思おうと。いずれにしろ、ルヴィスはユナを傷つけてしまうのだ。ルヴィスはユナの気持ちに応えられない。吸血鬼である限り、永遠に。そうであるなら、期待を抱かせるような言動は、むしろ酷だ。


 ルヴィスは唇を嚙む。本心と真逆の感情を口にするのは辛い。だが、やり遂げなければならなかった。それが一番確かな解決方法であり、ユナを守る唯一の方法なのだから。


 ルヴィスはユナに背を向け、苛立たしく吐き捨てた。


「……言いたいことはそれだけか?」

「ルヴィス!」

「お前はいつだってそうだ。一方的に人の部屋に入ってきて、一方的に自分の感情を押し付けて来る。俺の都合を考えたことが、少しでもあるのか!?」

「す、すまない……確かに配慮が足りなかった……!」


 ユナは何故急に、ルヴィスがこれほどまで機嫌を損ねてしまったのかが分からないのだろう。おろおろとするばかりだ。それでも、一生懸命ルヴィスに謝りたいというのが伝わってくる。しかしルヴィスはユナを顧みもせず、背中を向けたまま、冷ややかに告げた。


「勘違いしているようだから、はっきり言っておく。俺がお前と一緒にいるのは、お前が聖騎士ヴァルキリーの騎士団長だからだ。それ以上の、特別な感情は無い」

「……‼」

「俺に血を差し出す、だと? それをどう喜べと言うんだ!? 俺にだって選択の自由くらいはある! 混ざりものの血など、まっぴらだ‼」


 ユナは雷に打たれたかの如く、一瞬にしてその場で凍り付いた。瞳は大きく見開かれているものの虚ろで、唇を細かく震わせている。顔はすっかり血の気が引いて蒼白になり、引き攣ったような呼吸を繰り返している。


 それはおそらく、ユナにとって最も言われたくないことの一つだったのだろう。自分の言葉がユナをずたずたにし、刺し貫いた――そう思うと、ルヴィスは居ても立ってもいられなかった。背後を振り返って、その華奢な体を抱きしめ、そんなのは嘘だと言えたならどんなにいいか。そんな暴言ではなく、愛していると言えたなら、どんなにいいだろうか。

 しかしルヴィスは、決してそれを実行しはしなかった。ただユナに背を向けたまま、ひっそりと唇を噛む。


 先ほどとは別の種類の涙が、玉を結んでユナの頬から零れ落ちた。痛々しさや、申し訳なさ、罪悪感が胸の内を激しく焼き焦がす。しかし、それでもルヴィスは無言を貫き通した。一刻も早く、ユナに立ち去ってくれと願いながら。


 ユナは頑なな拒絶を示すルヴィスの意を悟ったのだろう、打ちひしがれた声音でポツリとつぶやいた。


「………。そうか、それがお前の答えか」


 そして、のろのろとした仕草で立ち上がり、部屋の扉へと向かう。


「……押しかけてすまなかった。ゆっくり休め」


 ユナは一度だけこちらを振り返ると、悲しげに瞳を伏せ、そのまま静かに扉を閉めた。


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