契約の儀式Ⅲ
――少女はいつも悲しい顔をしていた。
「何て物覚えの悪い子しら!」
「本当に役立たずね!」
宮殿の廊下内に次々と少女に飛び交う罵詈雑言の数々、少女はひれ伏すように地面に膝を突いて、ただひたすら黙って悔し涙をこぼしていた。
それは、いつもの光景だった。
しかし、その光景を見て、少女の味方をしてくれる者など宮殿内には誰一人としていなかった。
理由は簡単だ。
それは、彼女に実力がないからだった。彼女は、猫神の父と魔術の秀でたヴァンパイアの母の間で生まれた猫神とヴァンパイアのハーフであり、彼らの息子、娘はそれぞれ素晴らしい魔術への才能を持って生まれたのだった。
彼らは皆がみな、一般魔導師の10倍近くも魔力量を有した者であったり、中堅魔導師が5年かけて修得できるような魔術をたった3年で修得できるようなエリートばかりだ。しかし、そんな中で彼女だけは一般魔導師の魔力量の3分の1しかなく、彼らの子供達の中で唯一魔術の才能には恵まれていなかったのだった。
そんな、ある日のことだった。彼女はゆるやかな足取りで、自室から遠く離れた書斎に向かった。それは、たとえいかに魔術の才能では兄弟姉妹に敗れようとも、せめて魔術の知識だけは完璧にしておこう、そういう目論見からだった。
観音開きになっている大きな洋風の扉の向こうの世界、そこには大きな図書館さながらに広い空間があった。
自分よりもはるかに背の高い、木造に限り許された堂々たる風格を持った陳列棚が、次々と目の前に整然として立ち並び、天井に配置された色鮮やかなステンドグラスが日の光を帯びて、周囲を明るく照らし出す。
彼女は今、書斎と言う聖域を垣間見た。そして、高い志を胸に秘め、一冊のハードカヴァの魔導書を手に取ってみた。しかし、書かれてある内容は難しい専門用語や方程式のオンパレードで、まだ義務教育が始まって2年ばかりの少女には難しすぎる内容だった。
それから、彼女の書斎に通う日々が始まった。
宮殿内にいる日中の間はもちろんのこと、徹夜で書斎に引きこもることも少なくはなかった。睡眠時間を削りに削り、自室に移動する時間を惜しんで、書斎の勉強机にうつ伏せになって夜を明かすことも決して珍しくはなかった。
自室とは言え、そこは厩だ。彼女は兄弟姉妹の中でも、特別魔術の才能のない者ということで、唯一彼女だけが部屋を与えられなかったのだ。遠く離れた肌寒い厩のわらの上に横になるくらいなら、温暖な机の上の方が寝心地がいいというのもあった。食事も、兄弟姉妹はおろか周囲の学校に通う生徒と比べてさえ質素な物であり、そのため体は小さく、やせ細っていた。
まず彼女が魔法の勉強のために始めたのは、基本的な語句の勉強だった。それは、専門用語を正しく理解するためには必須の勉強だったからだ。
そこで、彼女は勉強していくうちに、一つの才能を見出し始める。それは、学問への才能だった。
魔術によって世界を制圧する、この魔導師社会においては、知識などは所詮一般教養程度にしか見られることはなく、一部の研究者を除いて、この世界においては非常に軽視されていた。
だから、この書斎には彼女を除いて、宮殿の掃除をこなすメイド以外はほとんど立ち入りすることがなかったのだ。やがて、彼女の持っている魔術の基礎知識は時間と共に多くなり、それは大の大人の魔導師ですら太刀打ちの利かないほどになっていた。
しかし、それでも彼女の知識量ではまだ魔導書を完全に理解するには至らなかったのだった。その理由は、それが魔術ではなく、魔法についての記載だったからだ。
この世界において、魔法はまだ発展途上の分野とされ、学会では研究対象とさえされていた。魔術を使役できる者はこの世において数多くいるが、魔法を使役できる者はまだ少ない。当時、彼女が最も関心を示した魔法分野は、召喚魔法だった。
彼女はそれに関連する魔導書を何十冊と読み漁ってみたものの、それでも理解には到底及ばず、激しく頭を抱えた。
そんな時だった、彼女は何かに気づいたようにふと陳列棚を見上げる。
「これは――」
そして、確信のこもった表情で一冊の魔導書を取り出す。
彼女によって大事そうに両手に抱えられた本、それはスタインベック・アズベルトという非常に高名な研究者に書かれた本だった。
彼女はその本を手にとってすぐさま席につくと、全く落ち着きのない興奮した様子で分厚い表紙をめくりだす。それは、決して難しい専門書などではなく、一般人には難しい研究分野のことについて、非常に分かりやすい説明の書かれた入門書だった。
導入部は、まず魔術の一般的な定義から始まり、世間の魔法に対する理解やそれに関する著者の評論、そして、核心部に召喚魔法とはどのようなものであるかについての説明及び魔法全体における召喚魔法の役割の考察という構成になっていた。
この書の素晴らしいところは、彼女の全く理解の及ばないところを完全にフォローしきっただけでなく、さらに応用・発展といった先進的な内容まで簡単な説明によって理解させてしまったところだろう。
つまり、彼女はこの書をたった1回読んだだけで、召喚魔法に関する総体的な内容を理解してしまったのだ。そして、すっかり召喚魔法を修得してしまうわけだ。
魔術の修得に関しては、先天的な才能を必要とするが、魔法に関して言えば、少しの才能さえあれば、努力しだいで誰にでも修得出来るものなのだと彼女は結果的に結論付ける。そして、すっかり召喚魔法を修得してしまった彼女は、家を出て、人気のない洞窟へと出かけることにした。
それは、彼女の修得段階が理論の貯蓄から実践へとシフトしたためだ。
いくら、家の書斎がめったに人の寄り付かない場所であっても、召喚魔法で召喚したサーヴァントをそこで試すにはいかない。
そんなことをしてしまえば、たちまち書斎が埃だらけになってしまうだろう。
少女は頭の中に蓄えた理論を基に、洞窟の地面に丁寧に魔方陣を描き、いくらかの複雑な順序を行ってから召喚魔法を実施する。
果たして彼女の召喚魔法は成功しただろうか?
いや、失敗に終わってしまったのだ。しかし、彼女にはその失敗の原因が何であるかは分からなかった。当然だろう、彼女はしっかりと頭の中に蓄えた理論を実践していたのだから。そこにミスの付け入る隙はなかった。元となる文書を何度読み返してみても、何一つ改善策は見出せなかった。
その夜、彼女は再び書斎で頭を抱えた。
修正した理論を何度実践しては、夜な夜な改善策に頭を抱えることの繰り返し。
そして、何十回もの実践の末、ようやく成功に至るのだった。これまで彼女の召喚魔法が失敗した理由、それは魔方陣に刻まれた紋章の配置ミス、魔方陣の中心に垂らす薬品中血液濃度の0・00000086%の誤差、魔法数式の計算ミスの主な3点だった。
眩い光を放つ魔方陣から巻き上がるしばしの砂煙の後、魔方陣から二人の少女が出現する。一方は、小柄でか弱い印象のある少女、また一方は、少女にしては背が高めで全体的に筋肉質な褐色の少女。
「あなたたちが、私のサーヴァントね?」
少女はとても興奮した様子で尋ねる。心底から舞い上がる歓喜の感情を今にも抑えきれないといった感じだ。
「私はシムルグです、よろしくお願いします」
「俺はアトラスだ、よろしくな!」
小柄な少女はシムルグ、背の高い褐色の少女はアトラスと名乗り、彼らは少女と契約を結んだ。
それから数日が経ち、ある事件が起きた。
「ねえねえ、千河? お姉さんにぶつかっておいてゴメンの一言もないの! 足が痛いわねぇ!」
「ちょっ! あなたが仕掛けてきたんじゃない! 私は何も悪いことはしてないわ!」
場所は宮殿の廊下だ。少女が気分よく廊下を歩いている途中、姉が通りすがりの少女の足を引っ掛けて、少女を転ばせたのだが、それだけでなく引っ掛けた方の足が負傷したと姉は要求してくるのだ。姉の方は、少女を思い切り転ばせたので、そのせいで酷い転び方をし、激しく額を打ち付けてしまう。
もちろん、姉の言い分は嘘だ。少女の姉は気に食わなかったのだ。少女が家庭内で“役立たず”という烙印を押されながらも、自分以上に幸せそうに日々を過ごしているということに。最近、姉の成績が芳しくなかったのだ。いや、周囲の生徒と比べれば、彼女の成績は頭一つ抜けて優秀なのだが、何しろ彼女の両親は完璧主義者だ。
点数を満点から1点でも落とせば、それだけで処罰対象となりうる。先ほど、姉は父から成績について怒られたばかりで、ストレスが溜まっていた。だから、鬱憤を晴らすために、少女に八つ当たりしたのだ。
やがて、二人の言い合いは激しい口げんかにまで発展し、周囲の人々が何事か、と思い駆けつける。この件については、誰が見たって姉が悪い。しかし、誰一人として少女の味方をする者はいなかった。むしろ、周囲の人々は姉の足が負傷した、と明らかに額を負傷している少女を責め立てるのだ。
理由は簡単、少女の味方をすれば、自分が異端者扱いされるかもしれないという恐怖に脅えているからだ。
「ちょっと、痛いじゃない! 謝りなさい!」
「謝れ! 謝れ!」
謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ!
耳を傾ければ、聞こえてくるのは『謝れ』という罵詈雑言の嵐。思わず頭痛を患い、脳がパンクしてしまいそうな気がした。
――悪いのは私じゃない!
少女は状況のあまりの理不尽さに悔しそうに下唇を噛んだ。
そして、少女の度重なる憎悪は、ついに殺意へとシフトする。
「だ ま り な さ い !」
幼い少女のものとは思えない、あまりに緊迫した殺意に、彼らは黙り込み、表情を一斉にこわばらせる。
「何なのかしら? あなたたちは、そこまでして私を悪者扱いしたいわけ? お姉さんが悪いのは目に見えているじゃない」
口元に怪しい笑みを浮かべる少女が発する異様な雰囲気にみな呑まれてしまい、彼らはむやみな返答を拒んだ。
「私に逆らう気? 生意気言うじゃない!」
しかし、頭に血を上らせた彼女の姉は、そのような空気を察することはなかった。
むやみな姉の発言が、少女を再び責め立てさせる合図となって、周囲の人々は理不尽にも無罪な少女に謝罪を要求する。
そして、彼らの動きは次第に武力制圧へと移行し、彼らは一斉に少女に襲い掛かるのだった。しかし、不思議なことに少女は彼らに全く負ける気がしなかったのだ。少女は先ほど修得したばかりの召喚魔法でシムルグとアトラスを召喚し、ついには一族全員を抹殺したのだった。
しかし、不思議なことに涙はこぼれてこなかった。欠片ほどの後悔の感情すらも感じることはなかった。後に残ったのは、邪魔者を全員排除した爽快感と達成感だけだった。
それは、雪の積もる珍しい日だった。少女は書斎に戻り、必要な本を数冊だけ魔法で転送すると、肌寒さを感じながら宮殿をあとにした。
「なかなか、思い切ったことをやりますなあ……お嬢ちゃん。悲しくはないのかい?」
ふと、吹雪の激しい雪の中を歩いていると、眼鏡をかけた壮年の老人と出会う。
その発言から、彼は少女が宮殿内で何をやっていたのかを知っているようだった。
「知っているのね、私が何をやっていたかを。別に……何とも思っちゃいないわ。あんな家族。むしろ、すっきりしたわね」
少女は再び、口元に怪しい笑みを浮かべた。
「そうか、それはなかなか素晴らしいことじゃ。君の才能は大したものじゃよ。ところで、お嬢ちゃんや? わしが君を引き取ってやろうか?」
壮年の老人はレンズ越しから除く優しそうな瞳で、穏やかに少女に尋ねる。
「……そうね、このままだと数日間かろうじて生き延びて飢え死にするのがいいところだものね。お願いしようかしら」
少女は見ず知らずの老人に対し、何の不信感も抱かずに微笑を送った。
「そうか、いいだろう。お嬢ちゃんや、名前を何と言う?」
「千河・ヴァン・キューレ。よろしくね、おじいちゃん」
少女は満面の笑みを浮かべた。
「ふむ、千河というのか。いいだろう、千河ちゃん。すぐに案内してあげよう」
ほっほっほっと、老人はにっこりと笑い、少女にそう言った。




