とある真夏の出来事Ⅲ
さて、午前中の授業も全て消化し、帰宅の時刻に入る頃だ。
何故なら、それは明日から期末試験週間に入るからだ。
だから、今日は午前中の授業のみということになる。
ところで、さきほどのどこか奇妙なところのある少女……、今朝のホームルームの時間に教壇の前で挨拶をしていた訳だが、周囲のクラスメイトの反応はいまいちだった。
確か……名前は神保絶だっただろうか?
それにしても気のせいか、彼女に対しての反応は僕を除いてほとんど誰も関心を示さなかった気がする。
いや、それはただ僕が彼女を過剰に気にし過ぎてるだけなのかもしれない。
何も僕は彼女に好意を抱いているわけではなかったが、ある意味ではかなり気になる存在だ。
それは、異世界転生後である現在であっても全く変わらない。
それだけ彼女には多くの謎が残されているということに他ならないのだ。
すでに終礼が終わり、周囲のクラスメイトは通学カバンを持って教室から退室する。
僕は何となく、神保絶という奇妙な少女の席をチラっと確認する。
そこには彼女の姿は見当たらず、どうやらもう退室してしまったようだ。
僕はホッとため息をつき、通学カバンに手を伸ばした。
彼女は今朝の休み時間以降、僕に話しかけてくるようなことは一切しなかったが、気がかりなことはいくらでもある。
彼女の席は僕の後ろの方の席で、授業中にずっと見つめられているなんてことはあり得ないはずなのだが、まるで一日中誰かに監視されたような気分で空気がずっとピリピリしていて気分が落ち着かなかったのだ。
だから、現在の開放感といったら、それこそ言葉に言い表せないくらいにものすごいものがある。
それにしても、何て不気味で奇妙な女性だろう。
僕はそう改めて心の中で呟く。
そろそろ帰宅の時間だ、僕は机の中の教科書類をカバンの中にしまい込み、さっと通学カバンを肩に掛ける。
「レン! 一緒に帰ろ!」
すると、その光景を春香は目にすると、すぐさま仲良しグループの女の子たちに『さよなら』を言って、僕の方へ通学カバンを持って駆けてくる。
これは、珍しい光景のように見えて実は日常茶飯事だ。
「ああ、帰るか」
僕はそれに一声反応し、お互いに横並びになって教室を出る。
さすがに帰宅の時間なだけあって、教室前の廊下は生徒で賑わいを見せていた。
賑わいとは言っても、教室の終礼が終わって少々間が空いていたので、そこまで生徒が廊下を行き来していうわけではなかったが。
瞬間、僕はある奇妙な視線を身体に感じた。
この独特な空気がピリピリと張り詰めたような言いようのない感覚――
――間違いない。
そう感知した僕は、あちこちへ振り返って周囲を見渡した。
僕自身、かなり注意深く辺りを見渡したつもりだった。
しかし、彼女の姿はなかった。
「急にどうしたの、レン? 何か様子がおかしいわよ?」
心配そうにしながら声をかける春香。
彼女の瞳は確かに驚いたように大きく見開かれていた。
どうやら僕のn行動から、ただ事ではないことを何となくで察知したらしい。
「いや、何にもないよ」
そんな春香に僕は無駄な心配を掛けないよう、無理に笑顔を作って答えてみせる。
「それよりも、今日……転校してきた神保絶っていう娘。どう思う?」
「さあ、普通にかわいい女の子って感じだったけど……」
特に何事もなかったかのように平然と答える姿に僕は唖然とする。
「本当に…………?」
「うん」
再確認を取ってみたものの、反応は対して変わらない。
どうやら、彼女の目には神保絶がごく普通のかわいい女の子にしか見えなかったらしい。
僕とはえらい印象の相違だ。
「僕は変な感じがするんだけどなあ……」
「気のせいよ、レン」
「いや、そんなことはないよ」
「へえ、レンにとってはそんなに転校生が気になるんだ」
春香はニヤリと笑い、僕の顔を上目遣いで覗き込む。
「ま……まあ、気になるというかはともかくとして……」
「ともかくとして……?」
「妙な胸騒ぎがしたのは確かなんだよ」
「妙な胸騒ぎ……それって恋…………とか?」
春香はからかうようにクスクス笑いし、再び僕を問い詰める。
「別にそんなんじゃないよ! ただ、怪しいだけだ。雰囲気と言うか、何と言うか……」
「わかったわかった。悪かったわよ、急に問い詰めたりして。とにかく、恋じゃないって言うなら……許す」
「は!?」
恋じゃないって言うなら……許す?
何を言っているんだ、春香?
言っていることがまるで分からないんだが……。
「いやいや何でもないわよ、レン。こっちの話だから。あんたには関係のないことよ」
急に照れくさそうな表情になって春香は恥ずかしそうにしながら僕を見る。
「そうか、なら良かった」
僕の相変わらずの無機質な対応。
僕の見ていない横で、春香は悔しそうに頬を膨らませた。
「……レンのバカ」
そして、僕に聞こえないほどの小声でぼそりと呟くのだった。
「何か言ったか?」
隣で何か言ったことだけは認識していたので、僕は彼女に問いかける。
「何でもないわよ!」
すると、彼女のペースが途端に早足になり、僕が後を追うように彼女の背中を追った。
どうやら、僕は彼女を怒らせてしまったらしい。
何が不満だったのだろうか?
僕は春香のことについて何一つ理解できないまま、上靴をしまいに自分の靴箱に向かった。
瞬間、まるで嘲笑うかのような冷たい視線がどこかから僕に向けられる。
しかし、その時の僕はそれに対して、何も気づいてはいなかった。
* * *
靴箱で靴を履き替え、正門に向かうまでのほんの一区切りのセクション。
どういうわけか……彼女の歩く速度は先ほどと変わらず、早足のままだった。
さらに、彼女が靴をさっと履き替えるのを見て焦ったせいで、靴を履くのに時間が掛かり、スタートダッシュの時点で1分ほどのディスアドバンテージが出来てしまっていた。
そんなわけだから、彼女の後を追う僕は小走りにならざるを得なかった。
何と無駄な体力の浪費だろう。
明らかにエネルギー効率を重視する僕のポリシーに反しているではないか。
すると、そんな時だった。
春香が校門をくぐり、住宅街に出るまでのわずかな1歩……、その間に彼女はさらに歩くペースを速めた。
そんな彼女の後姿を見て、僕は激しく舌打ちをする。
それから、彼女の歩く速さは時間とともに徐々に加速していき、しまいには全力ダッシュ!
女子の中では運動神経の良い部類に入る春香に対し、男子の中では一際運動の出来ない部類に入る僕。
……何て情けない話なのだろう。
何しろ……あろうことか、春香がいくら足の速い方とはいえ、僕は女子相手に足の速さで遅れを取っていたのだから。
「ま、待て! 僕が悪かったから待ってくれ! 一体何がそんなに不満だったんだ? 何でも言うことを聞くからちょっとだけ待ってくれないか!?」
真夏の熱気と全力疾走による体力消耗によってぼやけた視界の春香に、僕は全力で手を伸ばした。
すると、彼女は止まって振り返り、息切れしながら膝に手をついている僕に向かって言い放つ。
「ふうーっ、久々に走ってすっきりしたー! そんな訳で一本おごってくれない?」
そして、爽やかな表情を浮かべながら、彼女は公園の入り口近くにある、自分のほぼ隣に設置されている自動販売機に指差しする。
「へ……?」
彼女の思い掛けない唐突な要求に僕の目が点になる。
「いやーっ、どうにもちょっと身体を動かしたかったのよねえ。どうにも、最近運動不足みたいでさあ」
春香は軽いストレッチをしながら、最近運動不足であることをやたらにアピールしてくる。
「おい! 急に走り出したかと思えば、ただの運動不足解消かい! 急に走らされる僕の身にもなってみろ!」
本当に疲れたんだからな、本当に!
こんな真夏で全力ダッシュなんてもう二度とやるか!
「ああ、ゴメンゴメン、悪かったわよ。急に走り出したりなんかして」
春香は大声で叫ぶ僕の勢いに押されるように、あせあせと手を振った。
「でもね、レン。これで気分が少しは晴れたんじゃない? 何か悩み事があるんだったら、こうやって身体を動かすのが一番なのよ。身体の健康のためにも、心の健康のためにも。そう思わない?」
そして、春香は僕に向かってニッコリと微笑みかける。
「まあ……言われてみれば、そうだな。お陰で色々と吹っ飛んだよ、……ありがとう」
僕は春香の明るい笑顔に思わず照れくさくなってしまい、そっぽを向いて恥ずかしそうにお礼を言う。
確かに僕は今、何か重要なことを忘れている気はするが、それは特に気にしないでおこうか。
「ところで、レン? さっき確かに言ったわよね? 何でも言うことを聞くって……」
まるで悪企みでもしているかのような、奇妙な作り笑い。
「い、いや……記憶にない気がするんだけどなあ……はははっ……」
しまった……。
考えなしに雰囲気と勢いで何かをやらかしてしまうのが僕の悪い癖だ。
「お願いね、レン。私の分、おごりで」
春香の不思議な満面の笑み。
これに逆らってしまえば、僕はきっと無事ではいられないかもしれない。
「は、はい分かりました! 春香様! 喜んでお支払いさせていただく所存でございます!」
結局、僕は春香お嬢様に逆らうことは出来ず、言いなりになる他なかったようだ。
うん…………女は怖い。




