第二章【1】突然の来訪者
「………ティ………く、……けた……」
遠くで、声が聞こえた気がした。
深い水の底から届くような、おぼろげに揺らぐ誰かの声。
誰……?
わたしを、呼んでいるの……?
呼びかけに応えたくても、声にならない。
手を伸ばそうとしても、その感覚さえ暗闇の中へ溶けてゆく。
あれ……でも。
わたしって、誰だっけ……。
◆ ◆ ◆
やわらかな陽ざしに瞼をくすぐられ、ルティエはゆっくりと目を開いた。
ぼんやりと滲む視界の向こうに、見慣れた天井がある。
視線を巡らせると、朝の光を透かした淡い水色のカーテンが、窓辺でやわらかく揺れている。その先には壁際の机と、昨日読みかけたままの本が見えた。
どれも、毎日目にしているものばかりだった。
「ここは……わたしの部屋?」
自分の声を確かめるように呟き、寝台の上でゆっくりと身を起こす。
途端に、ふわりと足元が揺れたような感覚に襲われた。慌ててシーツへ手をつき、目を閉じて収まるのを待つ。
頭の奥には薄い靄がかかり、どうして自分が眠っていたのか、すぐには思い出せない。
(確か、昨日は……)
ルチルとチコと一緒に、運河の試験運用が行われる広場にいたはずだ。
広場には大勢の人が集まり、帝国の魔導具によって、運河が色とりどりの光に包まれて――。
その直後。
腹の底まで響く轟音と、人々の悲鳴。建物を破壊しながら宙を荒れ狂う、巨大な水の渦。
途切れていた記憶が一気に繋がり、ルティエの背筋から血の気が引いた。
「……そうだ! 町は? 精霊は? ルチルは……!」
弾かれたように寝台から下りようとした、その時。
廊下から慌ただしい足音が近づき、部屋の扉が勢いよく開いた。
「ルティ?」
「ちょっと、起きて平気なの!?」
飛び込んできたのは、エリスとレナだった。
見慣れた二人の姿と、いつもと変わらない声。その何気ない日常に触れた瞬間、張り詰めていたルティエの胸に、ようやく小さな安堵が広がった。
「運河は大丈夫? 町のみんなは?」
「ええ。運河は昨夜のうちに落ち着いて、今は元の流れに戻っているそうよ」
エリスは寝台の傍らへ歩み寄り、今にも飛び出していきそうなルティエを宥めるように、腰を屈めた。
「壊れてしまった建物やお店は、朝から町のみんなで片づけているみたい。怪我をした人もいるけれど、幸い、亡くなった方はいなかったそうよ」
「チコも無事。昨日のうちに家へ戻ったって。ルチルも怪我はないし、朝早くからルティの様子を見に来てるよ」
「よかった……」
肺に溜め込んでいたものをすべて吐き出すように、深い息が漏れる。
町も、大切な友人たちも無事だった。
その事実を噛みしめるうち、強張っていた肩から少しずつ力が抜けていった。
「ルティ、昨日のことはどこまで覚えているかしら?」
「町で運河が暴走して……ルチルを助けようとしたところまでは、覚えてる。でも、その後がよく思い出せなくて……」
「そっか。ルティ、町で倒れちゃったんだよ。ルチルと、ものすっごい美形の貴族の人が、ここまで運んできてくれたの」
レナはそこで僅かに首を傾げる。
「でも、ちょっと驚いた。あの人、ルティをずっと自分で抱きかかえてたんだよ。侯爵様なんでしょ? てっきり誰かに任せるものだと思ってた」
「あの方が、わたしを……?」
断片的だった記憶の中に、鮮明な光景が浮かび上がった。
押し寄せる濁流。
眩いばかりに煌めく氷の翼。
そして、恐怖に竦む自分を包み込んだ、あたたかな腕。
どくん、と心臓が大きく跳ねた。
一拍遅れて、さらに鼓動が重なる。次第に速まってゆく胸の高鳴りに戸惑いながら、ルティエは無意識にシーツを握りしめた。
「侯爵様が手配してくださったお医者様にも、きちんと診てもらったのよ」
やさしく語りかけるエリスの声に、ルティエは顔を上げた。
「事件による強い衝撃で、一時的に意識を失ったのだろうって。身体に異常はないそうだけれど、今日一日は安静にするように言われているわ」
「まったく、びっくりさせないでよね。意識のないまま運ばれてきた時は、本当に心配したんだから」
「ごめんね……」
俯いたルティエの額へ、エリスの細い指がそっと触れた。
熱がないことを確かめると、その手は深紫色の髪を撫でるように滑ってゆく。
「謝らなくていいの。怪我がなくて、本当によかった。朝食はわたしが作るから、今日は大事を取って休みましょうね」
「寝てるだけじゃ退屈でしょ。あとで何か本を持ってこようか?」
二人の気遣いが胸に沁み、ルティエはようやく小さな笑みを浮かべた。
「二人とも、ありがとう。それじゃあ……今日はお言葉に甘えようかな」
「そうして。何かあったら、すぐに呼ぶのよ」
「うん」
エリスに続き、レナも部屋をあとにする。
静かに閉じられた扉を見つめながら、ルティエは小さく息を吐いた。
家のことを姉たちに任せ、自分だけ休んでいることには、どうしても申し訳なさが残る。
けれど、それ以上に今は、昨日の出来事が頭から離れなかった。
運河があんなことになって。
大好きな町が壊れて。
精霊たちの悲痛な声が、胸の奥へ流れ込んできて――。
(それから、わたしは……)
祈るように、歌っていた。
そのことだけは覚えているのに、なぜ歌ったのか、何を歌っていたのか。記憶を辿ろうとするたび、その部分だけが靄に霞んで、どうしても輪郭を掴めない。
けれど、あの美しい男性のことは、何度も鮮明に脳裏へ蘇る。
荒れ狂う濁流を背に、自らの身を盾にして守ってくれたこと。
広い胸から伝わる温もりも、腰へ回された腕の力強さも、今なお身体に残っているかのように思える。
そして何より、あの時交わった視線の先――どこまでも澄んだ蒼い瞳。
視界いっぱいに満ちる耀きが、真っ直ぐに自分へと向けられていた。
「……っ」
思い出した途端、頬が熱を持つ。
一人で何を考えているのだろう。
羞恥に耐えきれず、ルティエはシーツを頭からすっぽりと被った。
その中で小さく身を縮めても、耳元で鳴る鼓動はいっこうに静まってくれない。
しばらくそうして悶えていると、廊下から慌ただしい足音が戻ってくる。
勢いよく扉が開いたのは、その直後だった。
「ルティ!大変!!」
「わあっ!?ど、どうしたの、レナ!」
驚いた拍子に、頭から被っていたシーツがふわりと落ちる。
息を弾ませたレナは、何かを伝えようと口を開いた。しかし、肝心の言葉が出てこないらしく、焦れたように宙へ視線を泳がせる。
「来たの!あの……なんだっけ。昨日の、あの人!ええと……」
「昨日の……?」
「ほら、氷の……すっごい人!」
何度か額へ指を当てた末、レナはようやく思い出したように顔を輝かせた。
「そうだ!『銀氷侯爵』が!!」
一瞬、時間が止まった。
「え……」
今しがた思い描いていた姿が、脳裏をよぎる。
「え、ええぇぇぇっ!?」
◆ ◆ ◆
あれほど休んでいるよう念を押されたというのに、寝台へ戻る選択肢など既に頭から消えていた。
急いで顔を洗い、身支度を整える。
櫛を通した髪をいつものように結い上げようとして、ふと手が止まった。
引き出しに並んだ色とりどりのリボンへ、指先を伸ばす。
どれにしようかと迷うのは、いつものこと。
けれど今日は、ひとつ手に取っては戻し、また別のものへと指を伸ばす。
そうしていつもより少し時間をかけて選んだのは、銀糸がささやかに織り込まれた淡い水色のリボンだった。
階段を下り、応接間へ向かう。
廊下を進むにつれ、扉の向こうから聞き慣れない声が微かに届き始めた。
胸の奥が再び騒がしくなり、足取りまでぎこちなくなる。
その途中、アンナが心配そうにルティエを迎えた。
「起きて大丈夫なの?」
「うん。少し起きて話すくらいなら平気だよ」
「そう。……侯爵様が、昨日の件について当事者だけで話をしたいそうなの。ルチルちゃんも一緒だし、母さんもすぐ近くにいるけれど……嫌なら断っていいのよ」
「ううん。わたしも、昨日のことを知りたい」
しっかりと頷いてみせると、アンナは娘の顔をしばらく見つめ、やがて静かに応接間への道を譲った。
扉の手前に飾られた鏡の中には、僅かに強張った自分の顔が映っている。
前髪をそっと整え、胸へ手を当てた。
大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
それを二度繰り返してから、ルティエは意を決して扉を叩いた。
「失礼いたします」
「どうぞ、お入りください」
中から穏やかな男性の声が返ってくる。
ルティエはそっと扉を開いた。
長椅子へ腰掛けるルチルと、その向かいに座る銀氷侯爵――アルジェント・フォン・セレナード。
彼の背後には、昨日も傍らに控えていた二人の青年が立っている。
一人は、片目を覆う濃茶の髪と、悠然とした佇まいが印象的な長身の男性。もう一人は、透き通るような白金の髪を端正に切り揃えた、まだ若い青年だった。
ルティエの姿を認めると、アルジェントはすぐに立ち上がった。
「お待たせしてしまい、申し訳ございません」
スカートの裾を摘み、恭しく一礼する。
「いや。昨晩は君も大変だっただろう。昨日の今日で急な訪問となってしまい……すまない」
低く深みのある声が、静かな室内へ落ちた。
「具合はどうだろうか」
深い蒼の瞳に真っ直ぐ見つめられ、ルティエの胸がどくりと鳴った。
「あ……はい。怪我もありませんし、特に問題はございません。元気、です。お心遣い、ありがとうございます」
「よかった。だが、無理は禁物だ。君もどうか掛けてくれ」
促されるまま、ルチルの隣へ腰を下ろす。
すると彼女はやわらかく微笑み、ルティエの背を一度だけそっと撫でた。
「ルティ」
「ルチル……ありがとう」
「うん。顔を見られて安心した」
聞き慣れた声と穏やかな眼差しに、張り詰めていた緊張がほんの少し解けてゆく。
二人の様子を静かに見守っていたアルジェントは、背後へ一度視線を向けた。
「こちらは、私の従者であるジルベール・ロンド。そして軍務を補佐する副官、マリウス・ヴァルツァーだ。二人とも昨日の事件に立ち会っており、私が信頼を置く者たちでもある」
紹介を受け、ジルベールは洗練された所作で一礼する。マリウスも無言のまま、僅かに頭を下げた。
侯爵の傍に仕える人間と聞けば、もっと厳めしい姿を思い描いていたルティエだったが、二人とも随分と想像とは違っていた。
二人の紹介を終えると、アルジェントは再びルティエへ向き直った。
穏やかだった蒼氷の瞳に、鋭い真剣さが宿る。
ルティエもまた、膝の上で両手を重ね、無意識に背筋を正した。
「では、単刀直入に聞こう」
一拍の静寂を挟み、低く落ち着いた声が響く。
「昨日の事件と――君が見せた力について、話をさせてほしい」




