36 終幕
アスタリヤは、たとえるならばーー。
馬糞を見るような目をしていた。
「な、……なんだその目は」
必死になっているフィリップが滑稽で仕方がない。
「まあ、すごい。瓶詰めにして飾りたいくらいだわ。世界一ばかな男としてラベルを貼ろうかしら」
ジュールが不思議そうに言う。
「どれくらいの大きさにするんだ? かなり大きな瓶がいるぞ」
瓶に合わせてカットする気だろうか。
「ジュール、本気にしないで頂戴。冗談よ」
と、アスタリヤは言った。
こうでも言わないと、この男、アスタリヤが言うことには本気で向かってきそうだ。
残され、忘れられていたフィリップが、地べたから立ち上がろうとして、兵士に押さえられた。
「お前っ! 元夫にどういうつもりなんだ!」
まだ助かろうという気なのだろうか。
「元も何も、もう他人よ」
「かわいそうだと思わないのか!?」
「思わないわ。あなたこそ、ロイスに書状を送って、首を斬られる元妻をかわいそうだと思わなかったの?」
図星だったのだろう。
うぐっと口ごもったフィリップは、チッと舌打ちをした。
「っ、お前が悪いんだ、お前が俺を悪党に仕立てあげた! 浮気くらいおおめにみろ! もっと優しく、淑女の愛と寛容とで夫を立ててやれば、俺は今でもよき夫であったのに」
この虫けらのような男には何を言っても仕方が無い。
馬鹿につける薬はないというやつだ。
「浮気される女だってことだ! お前に魅力がなかったんだ!」
砂でもかけてやりたい。
アスタリヤは深呼吸をして、別れを告げようと口を開こうとした。
それよりも前に、ジュールが前に進み出た。
「黙れ!」
おどろおどろしい光を帯びた腕に、レインが捨て身でタックルをしている。
「駄目です! 私刑はいけませんよジュール様!」
「お前なんかにアスタリヤの魅力を語れると思うな。不敬にも程がある……やはり全てを敵にまわしても、ここでこいつの命を散らしたほうがいいかもしれないと思えてきた……」
「ジュール様! いけません! この後の始末をどうするか考えてください! ランヌ公爵も莫大な私財をなげうって、新しい帝国の礎を築いてくださると言っていたのです! 皇帝がいなくてどうしますか!? 『シェルビッツの大天使』についてきた俺たちをただの馬鹿にしないでください!」
「たとえお前たちを馬鹿にしてでも、こいつがアスタリヤにとっての害になるならば俺は……」
「わーわー! おい誰かベルチェさんを呼んできてくれ! 俺たちの皇帝がくだらん不倫男のせいで自爆しそうだって!」
アスタリヤは溜息をついた。
もう他人ではあるが、一応は元夫だ。
自分に関係が無いとは言い切れない。
そしてあまりにも兵士たちが不憫だ。
「ジュール様」
「なんだ、アスタリヤ、俺はあなたのためなら」
「私たち、これから結婚するのよね」
「ああ」
「新婚旅行もするのよね?」
「新婚……?」
「そうよ。想い出のサン・ジュノペにもう一度行きましょうか。今度は泊まりで」
「泊ま……」
ジュールが真顔になった。
右手の光が急速に消えていく。
「ええ。眺めの良いお屋敷を貸し切ってバカンスしましょう。質の良い水着を買って頂戴ね」
「水……」
右手の光が完全に消えた。
「数日はずっと一緒にいられるわね? 朝も夜も」
「夜……」
アスタリヤはとどめを刺した。
「さ。そこのくだらない浮気男を絶命させるのと、新妻との新婚旅行と、どちらを優先させるのかしら?」
結論はすみやかに出たようだった。
ジュールはフィリップの前に立つと、淡々と言い放った。
「お前にはこれから牢獄に行き、獄中の囚人の世話をしてもらう。イズリーのようにケンカっぱやい男たちに言うことを聞かせるのは大変だろうが、まあ頑張ってくれ」
フィリップの顔色が変わった。
ジュールはさらにつけ足した。
「ああ、お前と醜聞をまき散らしていたマリアという女、覚えているか? 無事に子どもが誕生したらしい。一男一女の双子でな、嫌っていた夫との仲も子どものおかげかそれなりに上々のようだ」
フィリップは口をはくはくと動かした。まさか、そんな、と言いたいようだが、声にならないらしい。
「地下牢には男しかいない。お前のような意志の弱い者でも安心できるような計らいだ。一生女性のいない空間で、死ぬまで心安らかに過ごせ。俺にできる最大限のはからいだ。本来ならばここで首を落としてもいいのだだが、優しく寛容なアスタリアが生かしておけと俺に言ったのだ。お前など首を跳ねる価値もない」
フィリップはなおのこと、食い下がった。
「納得がいかん! 裁判官を呼べいやロイス様だ。ロイス様ならば私の言うことを聞いてくれるはず!」
アスタリヤはフィリップに哀れな視線を向けた。
「クーデターが起こり、ロイスもあなたと同じ地下牢に送られることになったのよ。今までひどいことをたくさんしてきたんだもの、一生地下牢で暮らす方が、あの人にとっては安全だとは思うわ。あなたもお仲間ができてよかったじゃない」
フィリップはようやく悟った。
もう、自分に残されているのは懲罰の道でしかないことをーー。
「待ってくれ。本当に愛していたのは、アスタリヤ、お前だけだったんだ」
「浮気した口で、よく言えるわね? 残念ながら私の愛は貴方にないわ。私にできるのはここまでよ。それじゃあさようなら。改めて別々の人生を歩みましょう」
フィリップは騒いでいたが、兵に連行されていった。
アスタリヤが振り返ると、背後ではジュールが戴冠式の前に新婚旅行をしてもいいか、とレイクに直談判していた。
国の情勢は落ち着いても、部下たちの心労はまだまだ続きそうだ。
アスタリヤは微笑んでジュールを呼んだ。
冠を被って本当に皇帝になったあなたと旅をして過ごせたら、面白いでしょうね、とでも言おうか。
戴冠式を終わらせたら、新婚旅行と称して本当に休養の旅に出るのもいいかもしれない。
今度の人生もまた、一人男を破滅させた。
しかし、アスタリヤの気分は悪くはなかった。
浮気男が一人、表の世界からいなくなっただけだ。王を処刑に追い込んだわけでも、国を滅ぼしたわけでもない。
ジュールを呼びながら、新婚旅行で何をしようかとアスタリヤは考えた。
サン・ジュノペの街でよくできたワインでも探そうか。
平和になったこの国で、最愛の男と飲む美酒はきっと、これまで飲んだどのワインよりも美味しいに違いない。
END




