後編
俺には今、気になる女の子がいる。
昔から物事に固執しない、良くも悪くも気まぐれな性質である俺が、珍しく長いこと気になっている。名をカレン・ベルという彼女は、街一番のドレス工房、キールソンの店でお針子をしていて、俺とは同い年である。
少し赤みがかった茶髪をいつもきちんとまとめていて、ふちが緑っぽい茶色の瞳は真面目そうに澄んでいる。頬に微かに残るそばかすがチャームポイントだ。一度だけそう褒めたことがあるが、きつく睨まれた後しばらく無視されたのでそれ以来二度とそばかすには触れていない。軽率だったと反省した苦い思い出でもある。
俺がカレンと出会ったのは、準男爵様の従者になってすぐのことだった。事業実績が認められ爵位を得たばかりの主人は、急ごしらえの従者である俺を連れて、これまた成ったばかりの婚約相手であった男爵令嬢にドレスを贈るべくキールソンの店を訪れた。
主人の対応をするマダム・キールソンの傍らで、くるくるとよく働いているお針子見習い。それがカレンだった。
はじめは、とくに気に留めてはいなかった。こまねずみのように働く見習いだなあと思ったくらいで、帰り道にはもう忘れていたと思う。
気になりだしたきっかけは、自分でも驚くくらいささいなことだった。
まだ夫人との関係が婚約者で、主人が直接注文に出向いていたころだから、三回目くらいだったかな。そのときちょうど二人は喧嘩をしていて、仲直りのご機嫌取りのつもりでドレスを注文しに行ったんだ。そして俺のご主人様は、だいぶ遠慮のないところがあって、婚約者様についてのちょっとした愚痴をマダムにもらした。
マダムは慣れているんだろう、微笑んで対応していたが、後ろで見本の布を運んでいたカレンは違った。
明らかに、俺の主人に対してむっとした顔をしたんだ。すぐにはっと表情を改めていたから他の誰にも気づかれなかったようだけれど、俺は目撃してしまった。
その様子を見て、なぜだか俺は、カレンに俄然興味がわいたんだ。
そのときは主人の手前話しかけることができずに帰るしかなかった。
だから、そのすぐあとの休日に菓子店で偶然会うことがなければ、興味がわいた、で終わっていたかもしれない。
カレンも俺の顔を覚えてくれていたようで、微笑んで会釈をしてくれた。
そのちょっと不器用な愛想笑いが無性に可愛く思えて、俺はすぐにあれこれと話しかけた。
カレンに会うたびについつい話しかけてからかってしまう現状の出来上がりである。
自分でも呆れるくらい、浮かれている。
カレンは律儀でお人好しなので、ちょっと迷惑そうな顔をしながらも対応してくれる。そしてつい強い口調で言い返してしまっては、ばつの悪そうな顔をするのだ。
回りくどいながら、俺としてはかなり積極的にアプローチしているつもりだった。どうにも反応が鈍いので、てっきり俺みたいなのは好みでなく、応えるつもりがないと示されているのかと思っていた。そして、はっきり振られるまではこの状況を楽しんでいてもいいかなと思っていたのだ。
まさか、俺の想いがまるっきり伝わっていないとは思っていなかった。遊ばれるのは困る、他を当たってくれ、そんなようなことを言われたあの時、俺は柄にもなく落ち込んだ。
確かに俺は軽い男かもしれない。けど、誰にでもあんな風にしていると思われていたなんて。
はっきり想いを伝えたときのカレンは、それはもう見ものだった。耳まで真っ赤になって、珍しく声を荒げて、でもしっかり支払いは置いて、走り去っていった。ほんと、律儀でせわしない。
あの反応を見るに、まったく見込みがないというわけではなさそうだ。
俺は長期戦を覚悟した。
今日は、注文したドレスが納品される日だ。約束の、子爵家の夜会の前日。奥様が着た状態で合わないところがないか確かめたら、主人が支払いをして取引は完了である。
二回ほど、注文に関してキールソンの店に行く用があったが、対応してくれたカレンは見事に目を合わせてくれなかった。ぎこちない態度に、覚悟はしていても心が折れそうになった。
主人の靴を磨きながら待機していた俺は、ドアベルの音を聞きつけて裏口へ向かった。この準男爵邸は、主人が爵位を得てから日が浅いからか、主人のもともとの性格ゆえか、使用人の数が少ない。本来従者の仕事ではないらしい客人の出迎えなども、俺の仕事だ。もっとも俺自身、使用人の仕事の区分などにはてんで疎いのだが。
裏口のドアを開けると、ベルを鳴らしたであろうマダムと、大きなトランクを抱えたカレンが立っていた。
納品の手伝いがカレンだなんて、今日はいい日だ。
でもこれは偶然ではなく、カレンの先輩たちが気を利かせた結果だろう。俺は他のお針子たちの前でもカレンに話しかけていたので、想いはとっくにばれているのだ。
「ご注文のお品をお持ちしました」
マダムが朗らかに告げる。相変わらず、一分の隙もない笑みだ。
「ご案内します。……荷物、持ちましょうか?」
俺はマダムに笑みを返した後、後ろで控えているカレンに声をかける。
しかしカレンは、俺が半ば差し出していた手をすっと避けるように距離を取り、にっこりと笑った。
「いいえ、お気になさらず」
全く予想していなかった反応に、一瞬あっけにとられる。
顔に貼り付けたような笑み。線引きをするかのように、どこか冷たい声。まるで、俺とカレンの間に、氷の壁でもあるかのようだった。ついこの間まで、向けられた想いに戸惑っていたのに、急にどうしたというのだろう。
今すぐ彼女を問い詰めたい衝動に駆られながら、俺はぐっと我慢して仕事へと意識を戻した。
納品を終え、支払いも済んだ。夫人はすっかりドレスがお気に召したらしく、とても喜んでいた。マダムは満面の笑みでこれからもごひいきに、と主人夫妻に告げる。カレンは控えめにお辞儀をして、手早く道具を片付けていた。
帰る二人を、裏口まで送る。
本来なら、見送りが済んだらすぐ仕事に戻らなければならない。けれど俺は、背を向けたカレンの腕をとっさにつかんで引き留めてしまった。
はっと気がついたときには、振りほどかれていた。
明確な拒絶に、俺はたじろぐ。
「カレン、その……」
いつもはするすると出てくる言葉も、ほとんど出てこない。
カレンは今まで見たことがないような冷たい表情で、俺に言った。
「仕事以外で、話しかけないでください」
心臓がつかまれたかのように痛い。けれど、こんなときまで真面目さがにじんだカレンのセリフに、どこか笑いたいような気持ちになった。
「それは……」
決定的に振ってくれないと、俺はあきらめきれない。みっともなくも問い返そうとしたとき、俺たちの間に割り込む声があった。
「カレン、あとからゆっくり帰ってきなさいね」
困った子どもを見るような顔で、マダムが呆れている。
カレンは慌てたように言った。
「待ってください、私も一緒に帰ります!」
マダムのもとへ駆け寄ろうとした彼女の腕を、俺はまた掴んだ。鋭い目つきでにらまれる。カレンは俺の腕を振りほどこうとしたが、俺は少しだけ力をこめてそれを拒んだ。
そんなことをしているうちに、マダムはさっさと歩きだしてしまう。
カレンはあきらめたように力を抜いた。
「……逃げないから、手、離して」
俺はゆっくりと、カレンの腕を離す。わずかに跡が残っていた。
「ごめん」
俺の謝罪を、カレンは別の意味に受け取ったようだった。
「それは、あんな嘘をついてまで私をからかったことへの謝罪?」
何を言われているのかわからないが、カレンがものすごく怒っているのは嫌というほど伝わってきた。
「そんなに怒られるようなことを、俺はしたかな」
「とぼける気?」
とうとうカレンの怒りが爆発した。
「あなたは楽しいかもしれないけどね、私はいい迷惑なのよ! もうかまわないで!」
「つまり君は、俺のことが嫌いなんだな?」
耐え切れなくなって言い返すと、ぐっとカレンは口をつぐんだ。
「だったらあのとき、きっぱり振ってくれればよかったんだ」
吐き捨てるように告げると、カレンは一転して戸惑ったような顔をする。
「……何を、言っているの? 冗談だったんでしょう?」
「この期に及んでまだそんなことを? 本気だって言っただろう」
いくらカレンといえど、さすがにうんざりしてきた。どうしてこんなに信じてもらえないのだろう。
するとカレンは、信じられないようなことを言った。
「だって、あなた……恋人がいるでしょう?」
「いないけど……」
当然のごとく否定する。きっと今の俺は間抜けな驚き顔をしているだろう。
カレンもぽかんと口を開けた。
「え、この前、きれいな女の人と腕を組んで歩いてたじゃない」
きれいな女の人。腕を組んで歩いていた? 俺は記憶を探って黙り込んだ。
その様子を見ていたカレンの顔が、どんどん険しくなってくる。
「まさか、恋人でもない女の人と……」
またもやあらぬ誤解をかけられているようだ。慌てた俺の記憶の波に、先日の休日の思い出が浮上する。
「違う! あれは妹だ!」
妹の買い物に付き合わされたときのことだろう。幼いころ病気がちだったのもあって兄と二人して甘やかしたきらいがあるので、妹はなかなかにわがまま娘なのである。身内のひいき目を差し引いても、顔は整っている方だろう。
「……妹?」
「そうだよ、信じられないなら今度紹介する」
俺が言いつのると、カレンはもう一度妹、とつぶやいた。
彼女の顔が、じわじわと赤くなる。かと思えば、申し訳なさそうに俺を見上げ、悔しそうな顔でうつむいて、見事な百面相だ。
「……ごめんなさい、勘違いして……」
カレンは肩を落として言った。誤解が解けたようで何よりだ。
そっと伺うように顔をあげたカレンが、俺の笑みを見て困ったように眉を寄せる。
「じゃあ、ジェイミーは……本当に、私のことが好きなの?」
「もちろん、そう言ってるだろ。恋人になってほしい」
間髪入れずに頷くと、もともとほんのりと頬を赤らめていたカレンは耳まで真っ赤になった。
「ゆっくりでいいからさ、考えてみてよ」
カレンの真面目さにつけこんでいる自覚はあった。こういえば、彼女はきっと真剣に俺とのことを考えるだろう。
その結果がどうであれ、考えてもらえるだけ一歩前進である。
俺のことで、頭がいっぱいになってしまえばいい。
そんなことを思って頬が緩みっぱなしの俺は、相当重症のようだ。
帰っていくカレンの背中を見送っていた俺は、背後から聞こえた低い咳払いに飛び上がって驚いた。
思い出すまでもなく、仕事中である。
人の悪い笑みを浮かべた我が主人に向けて、俺はごまかすように笑った。
カレンに謝らなければいけない。
しつこくからかわれるのは、たしかに、あまり気分のいいことではなかった。
でもそれも、カレンとのことだと思えば楽しくもなってくるのだから不思議だ。
気まぐれ猫にお気に入りの女の子がほだされるのは、もう少し先のお話。