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 あれから一ヶ月が経ち、そして二ヶ月がたった。

 生きる希望になっていた彼の笑顔と「大丈夫」という言葉は、もう薄れてほとんど思い出せなくなっていた。

 やっぱり大丈夫ではなかった。もうこの孤独には耐えられそうになかった。今まで何年もひとりでいたはずなのに、どうやって耐えてきたのか思い出せない。彼を信じたいのに、もうそんな体力も残っていなかった。

 いつ食事を取ったか思い出せない。

 空腹はもう感じなくなった。喉の乾きも。

 今日はまだ墓守の役を果たしていないが、このまま死んでしまうのなら、もう、いっそのこと。

 部屋がノックされて、使い魔が音もなく入ってくる。その見えない手に二通の手紙が握られていて、どこにそんな気力が残っていたのか、飛び上がるように立ち上がった。

 久しぶりの手紙の配達に心臓が止まりそうなほど期待したが、すぐに両方に魔法庁の刻印が見えて地の底に落とされたような脱力感に襲われた。

 一体何を期待したのか。墓守に私的な手紙や電話、訪問をすることは禁止されている。

 長い時間をかけて立ち直ってから受け取って、封を切る。紙が一枚きり入っていた。

 毎年この時期に来る、墓や屋敷の老朽化の調査だろう。

 そう思っていたので、文章を斜め読みして頭の中に入ってきた内容に、手が震えて紙がくしゃりと音を立てる。もう一通も破くように封を切る。

 何度も何度も二通の手紙を読み直し、腰を抜かして床に座り込んだ。

 ダミアン・バークリーが召されて墓守の基準が引き下げられ、数十人が新たに候補に上がったこと。その中のひとりから立候補があったこと。シャーロットから異議の申し出がなかったため、その立候補者と交代することなど、手紙の内容は衝撃以外の何物でもなかった。

 意義の申し出がなかったと言われても、申し出を出す時間もないではないか。慌てて一通目の手紙の書かれた日付を見ると、なんと一ヶ月前だった。二通目ですら十日前だ。思わずうめき声を漏らす。

 何度かあった。この墓場に近づくのを嫌がって、郵便配達員が手紙を溜め込んでから配達するのだ。

 とにかく、ここから出られる。嬉しい、嬉しいはずなのに、体は固まって動かない。その立候補者の名前は書いていない。

 急な転勤、大丈夫だと笑ったウィルバート。

 まさか、まさか。

 基準が引き下げられたのは今から二ヶ月と半月前と書いてある。ウィルバートがここに来た時には、もう候補者のリストは更新されていたはずだ。

 乱暴に前髪をかき上げる。いつ来るんだと手紙を読み返して、今日だと気付いた。時計を見上げる。あと十分だ。

 絶句しながらよたよたと立ち上がった。

 無意味にその場を行ったり来たりする。まずどうするべきだ。起きてから梳いていない髪を手櫛で整えて、そんな場合ではないと首を振る。

 冷静にならなければと頬を叩いた。

 数日何も食べていない体は満足に動かない。キッチンで水を飲んでそれが体中に染み渡るのをじっと待っていると、右手にピリリと衝撃があった。門の鍵を誰かが魔法で解いたようだ。

 誰かの訪問の予定がある時は鍵を外すようにしていたが、外れていないので無理やり解いたらしい。

 体を引きずって玄関に向かう。扉の外で待っていると、霧の向こうからふたりの人影が見えた。

 前を歩くのは魔法庁の役人だ。何度か会ったことがある。

 後ろを歩くのは、やはり。

「先生……」

 大きな荷物を持ったウィルバートは、シャーロットを見たまま顔色ひとつ変えない。

 目を閉じて、顔を俯かせる。

 あんなにも会いたかったのに、こんな再会なんてしたくなかった。

「すみません。鍵が開いていなかったので、無理やり開けさせていただきました」

 役人の声に顔を上げる。

「……いいえ。こちらこそすみませんでした。つい今しがた届いたもので」

 手に持ったままだった二通の手紙を持ち上げる。役人は眉をしかめて「郵便局へ苦情を出しておきます」と言った。

 またウィルバートを見上げたが、役人がそれを遮る。

「お話もあるでしょうが、それは後ほどお願いします。私も長くはここにおれませんので」

 もうすでに青白くなっている役人に視線を戻して、諦めて「分かりました」と言った。

 リビングのソファに座って話を聞く。内容は手紙に書いてあったこととほとんど変わらなかった。

 明日から墓守の役をこなすのはウィルバートで、シャーロットはその監視をすることになる。数日置きに役人が訪問してチェックをし、問題がなければ半月後にシャーロットは晴れて自由の身となる。

 異議の申し出をする時間がなかった話をしたが、ウィルバートに遮られた。役人も早くここを出たいようで、後でふたりで話し合ってくれと丸投げされた。

 その他に、墓守を辞めた後の衣食住の保証、ウィルバートの勤務する魔法大学への入学許可などを役人は淡々と話し、三十分ほどで顔を真っ青にして帰って行った。門まで見送って壊された鍵を直す。

 恐る恐る部屋に戻ると、ソファに座ったまま足を組んで、コーヒーを飲むウィルバートがいた。

「先生……」

「まあ、座れ」

 彼が顎で向かいのソファをさす。大人しく座った。

「お前、ちゃんと食べてるのか?」

 返事ができずに押し黙る。

「今日はいつ食べた」

 首を横に振った。

「……最後に食べたのはいつだ」

「……覚えてません」

 ウィルバートが勢いよく立ち上がる。キッチンへ向かおうとする彼の上着の裾を掴んだ。

「先生、先に話がしたい」

 ウィルバートは顔をしかめて口を開いて、怒りを飲み込んだようだった。シャーロットの使い魔を指差す。ふわりと浮き上がったエプロンに「柔らかい粥を作ってくれ。あと、果物か何かあるのなら一緒に」と指示を出した。使い魔は礼をするとキッチンへ消えた。

「粥ができるまで話をしよう。できあがったらすぐに食べること。それでいいな?」

「……分かりました」

 ウィルバートの上着を離して、ソファに座り直す。

 冷静に、冷静に、ひとつづつ聞いていかなければならない。

「二ヶ月前にはもう決まっていたんですか?」

「あの時はまだ大学から強い反対にあっていて、どちらに転ぶか分からなかった」

「どうして教えてくれなかったんですか?」

「ただでさえ不安定になっていたお前に、不確定事項を伝えて一喜一憂させたくなかった」

「……どうしてなんですか?」

「なぜ墓守になったかということか?」

 頷く。彼はコーヒーを一口飲んでから言った。

「ダミアン・バークリーが召されて、墓守の基準が下がった。すぐに墓守候補のリストが更新されて、そこに俺の名があることを知った。それだけだ」

 立ち上がってテーブルに両手を叩き付けた。カップが跳ねコーヒーがこぼれたが、構わずに叫ぶ。

「答えになっていません! あなたはみんなに必要とされてる人です! 何で墓守なんかになろうとしているんですか!」

 自分の声にめまいを起こしそうだ。しかしウィルバートは怯むこともなく、真っ直ぐにシャーロットの目を見て言った。

「お前をここから出してやりたかった」

 一番聞きたくない答えだった。ソファに座って頭を抱える。

「……わ、わたしの、せいで」

「お前のせいじゃない。俺が望んで、俺が決めたことだ」

 彼の言葉に淀みはない。我慢していた涙が決壊する。

「二ヶ月前、俺と別れる時のお前を見て、もう限界なんだと悟った。それなのに大学に帰ってすぐに、俺の墓守行きが却下されたことを知った。俺がなれなければ他の候補者を口説くつもりだったが、そんな時間はない。辞表を出して、直接魔法庁と交渉したが、それにも時間がかかってしまった。二ヶ月も不安な思いをさせてすまなかった」

 辞表という言葉に、目の前が真っ暗になった。

 もう彼の顔を見ることができない。膝に顔をうずめてスカートに涙を落とす。

「どうして、私にそこまでしてくれるんですか……先生にそんな義務はないのに……」

 少し沈黙が落ちて、そしてウィルバートが髪を撫でたのが伝わった。

「お前が墓守なることを止められなかった。それを、ずっと後悔している」

「先生のせいじゃない……」

 首を振って、喉の奥から声を絞り出す。ウィルバートを恨んだことなど、ただの一度もなかった。

「俺は、お前の……父親になってやりたかったんだ」

 彼の手は優しく頭を撫で続ける。

「お前を守ってやりたかった。頼られたかった。お前の、心の拠り所になりたかった」

 父親。そうだったのかと、シャーロットは目をつむる。ウィルバートは、ずっとずっとシャーロットを大切にしてくれていた。娘を見守る父親のように。

「全部、俺がしてやりたいと思ってしただけだ。お前は何も気に病むことはない。……外に出たかったんだろう?」

 顔を上げ、彼を見る。外に出たかった。外に出て、そして。

「先生……私が外に出て何をしたかったと思いますか……?」

 彼は目を細めて、穏やかな声で言った。

「普通の暮らしがしたかったんだろう? 同じ年代の娘と同じように、おしゃれをして、恋愛をして、自由に好きな所へ行って」

「違う……違うんです……」

 ふたりを隔てるテーブルを乗り越え、ウィルバートの胸に体を預ける。

「私は外に出て、先生に会いたかったんです。先生のそばにいたかった。先生がいないなら、外に出る意味なんてないんです」

 何度も伝えた気持ちを言葉にする。

「愛しています、先生」

 もう届くことのない言葉だと分かっていた。これは彼の求めている関係ではない。

 視界をぼやけさせる涙を拭ってから顔を見上げた。

 ウィルバートは目を真ん丸にしていた。

「……何で驚いているんですか?」

「いや……」

 彼は口元を手で覆って、少し顔をそらす。

「ずっとずっと言ってたじゃないですか、好きだって」

「……俺をその気にさせるための嘘だと思っていた」

 思わず絶句した。何てことだ。あんなにも盛大に思いを伝えていたのに、彼にはひとつも通じていなかったらしい。カッとなって、ソファの背もたれに押し付けるように彼の胸元に手をついた。

「私はずっと本気です! ずっと先生が好きだったんですから! 十二歳の時から!」

「十二歳……」

 彼は額を押さえて息を吐いた。

「シャーロット、俺は今年で三十三歳だ」

「知ってます」

「お前と十五歳も違う」

「だから何です」

「外に出れば男なんてごまんといる」

「だから何です!」

「お前は美人だ。もっと若くて優しい男をいくらでも」

「私は先生が好きなんです!」

 上着を引っ張って顔を押し付けて、嫌がらせのように涙を拭いてやった。

 そんなにもこの好意は迷惑なのだろうか。

「先生がいなかったら私は壊れていました。先生が会いに来てくれていたから頑張れた。先生だけなんです。私には、私には……」

 ウィルバートがいない世界に生きる価値なんてない。この世界に彼ひとりいてくれれば、神様さえもいらない。

「もう外に出たいなんてわがままも言いません。先生のいない外になんて興味はありません。先生が一年に一度会いに来てくれるだけで我慢します。我慢できるから、良い子になるから、だから、こんな所に来ないでください……先生は先生のままでいて」

 もう作り笑いなどしない。誤魔化しているわけでも何でもない。これは紛れもない本心だ。

 ウィルバートは少し眉を下げて、そして目を閉じた。眉間に深いシワが刻まれている。

 悩むことなんて何もない。次に魔法庁の役人が来た時に、ウィルバートには適正がないと言うだけだ。大きな研究に関わっていると聞いた。今なら大学も、喜んで辞表を取り消してくれるだろう。

 ウィルバートが目を開く。シャーロットを真っ直ぐに射抜く。ずっとこの目に見つめられていたい、なんてわがままはもう言わない。

「分かった。俺も覚悟を決めるよ」

 彼が両手で涙に濡れた頬を包む。

 ゆっくりと顔が近付いて、頭突きをされると身構えたシャーロットのその唇に、ウィルバートはそっと触れるだけのキスをした。

「愛しているよ、シャーロット」

 聞いたことのないような優しい声だった。

 今度は、シャーロットが目を見開く番だ。

「お前を愛している。だから、こんなところでひとりきりで寂しい思いなんてさせたくない。ここから出してやりたい」

 目だけでなく、ぽかんと口も開く。彼の言葉を何度も頭の中で反芻してから、飛び上がった。

 でも、でも、だって。

「そ、そそ、そんな態度、一度も……!」

「隠していたからな」

「どうして!」

「年齢差、俺とお前の立場、教師としての俺の感情との兼ね合い」

「さっき、父親になりたかったって……」

「すまない。お前を納得させるために嘘をついた。……ただ、最初は本当にそうだったんだ。本気でそう思っていた」

 シャーロットを抱き上げて隣に座らせると、ウィルバートはカップにかろうじて残っているコーヒーを飲み干した。息を吐いて、シャーロットに体を向ける。

「順に話そう。……初めは、身寄りのないお前の保護者代わりになりたいと思っていた。変に大人びていて、強がってばかりで、本音を出さないお前を守ってやりたかっただけだった」

 ふと思い出す。ウィルバートに出会ってばかりの頃、彼をお父さんのようだと思ったことがあった。父親がどういうものなのか知らなかったが、もしかしたらこういうものなのかもしれないと。

「お前を守りたい、ここから出してやりたい、幸せにしてやりたい。その一心で動いていた、はずだったのに」

 彼の指が頬に触れる。

「お前が初めて俺に抱いて欲しいと言った時から、その思いが暴走し始めた。抱く気なんてなかった。ただ、お前が俺以外の男に同じことを言って、その男の子供を孕むかもとしれないと思うと、腸わたが煮えくりかえるかと思った」

 その時の怒りを思い出したのか、頬を撫でる指に少し力が入ってそっと離れた。

「……とにかくお前をここから出してやりたいという気持ちは変わらなかった。俺以外の男に同じことを言う前に、早く出してやらなければ、と。様々な案を出したが議題にも上らず却下され続けたよ。もう最後は、禁忌を犯して俺の魔力を上げるか、お前をこっそり連れ出してふたりで国外へ逃げるか……そんなことも考えていた」

 言ってから、ウィルバートは片方の口の端を上げる。笑ったのではなく、嘲笑のようだった。「俺も相当病んでいたな」と彼は呟く。

「自分の思いに気付いたのは、墓守のリストに俺が載ったと知らされて、なんの躊躇もなくお前に代わって墓守になろうと決心した時だ。なぜそこまでするのかと問われて、ようやく気付いた。お前を愛していると」

 彼の顔が近付いて、唇が触れる。愛し合う人とするキスは、こんなにも幸せなものなんだと初めて知った。彼の首に手を回す。彼の腕が背中に回る。愛する人に求められる事がこんなに嬉しいだなんて知らなかった。唇を離して、すぐ近くで見つめ合う。

「シャーロット、俺に全て任せろ。俺は恐らく、数年も待たずに出られる」

 驚いて体を離す。

「どういう事ですか?」

「大学がどうにか俺を連れ戻そうと動いている。他の候補を必死に説得しているらしい」

 息を呑んだ。しかし、それでも。

「……どれだけ説得しても、応じてくれなければどうにもなりません」

「うちの学長はどんな手でも使うぞ。裏金、人質……」

「それだけ先生は必要とされているんでしょう? 先生にしかできない研究があるんじゃないんですか?」

「そんなもの……。研究より技術の発展より国の繁栄より、俺はお前が大事だ」

 口を動かして、しかし言葉を飲み込んだ。そんな事言ってはいけない。そう思うのに、それが嬉しくてたまらない。

「ひとりで何でも抱え込むな。俺に甘えてくれ。今度こそ、今度こそ最後まで守ってみせるから」

 ウィルバートの手がシャーロットの手を包む。その手は大きくて力強い。甘えても、もたれかかっても、もしかしたらビクともしないかもしれない。

「一緒に生きていこう」

 一緒に。なんて素晴らしい言葉だろうか。

「……はい」

 頷いた拍子に涙が落ちた。その筋を指で消して、ウィルバートは額を寄せる。

「ありがとう」

 礼を言うのはこちらだと、シャーロットは小さく首を振った。

 こんな日が来るなんて思ってもいなかった。こんな幸せを受け取ってもいいのだろうか。

「お前は先に外に出て、大学に通いながら俺を待っていてくれ。できるな?」

「はい」

「よし」

 頭を撫でて、ウィルバートは体を離した。いつの間にかそばにいた使い魔から皿をふたつ受け取ると、シャーロットに差し出した。

「話は一旦終いだ。食べろ」

 大人しく頷いて、皿を受け取ってりんごをすりおろしたものを口に含む。

 甘いりんごの味が口に広がる。その途端活動をやめていた胃腸が動き出し、きりりという痛みと共に空腹という感覚が蘇った。久しぶりの食べ物に胃をびっくりさせないよう少しずつ口に含んでいく。

 黙々とりんごを平らげ、粥にも手を伸ばす。途中でさすがに気持ち悪くなり皿を置くと、ウィルバートが入れてきてくれた水を飲んだ。

 一息ついて、ウィルバートの胸に体を寄せる。もうこのまま気を失いそうな気だるさに身を任せてしまおうと思った時、ふと重要なことを思い出した。

「あっ」

 今日はまだ墓守の役をこなしていない。

「お祈りをしてきます」

「……まだしていなかったのか? いつもは午前中に済ませていたのに」

 訝しげに眉をひそめるウィルバートから顔をそらした。彼が来なければ、もう仕事を放棄するつもりでいた事への罪悪感からだ。

 彼は何となく悟ったようだが、何も言わずに立ち上がって手を差し出した。

「立てるか?」

「はい」

 強がってみたが、実際は座っているのも辛いほど体が怠かった。彼の手にもたれかかりながら立ち上がって、転ばないように歩き出す。

「終わったら少し休もう」

「はい」

 ぐるぐると視界が回り始める。何とか部屋までたどり着いて、中心に座った。

「後ろで見ているから、無理そうならやめておけよ」

 頷いてから目をつむった。もしかすると、これが最後のお祈りになるかもしれない。

 胸の前で指を組んで、シャーロットは祈り始めた。

 墓の住人たちが安らかに召されるように。

 外で暮らす人々に幸福が訪れるように。

 早く次の墓守が見つかるように。

 そして、初めて自分のことを祈ってみる。

 幸せになれますように。ウィルバートと一緒に、幸せになりたい。

 胸に満ち溢れるのは確かに希望だ。苦しくて息ができないくらいの。

 祈り終わって、胸の前で組んでいた手を下げる。

 ふと目を開けると、なぜか目の前に地面があった。どうしてだろうと考える間もなく、すぐにまた意識が暗転する。

 次に目を開いた時に見えたのは、自室の天井だった。

 目が回っている。頭が痛い。ぼんやりとした頭でウィルバートを探す。

「先生……」

「起きたか」

 すぐそばから声が聞こえてきて、シャーロットは顔を向けた。手に持っていた本を閉じながら腰を上げたウィルバートがいた。彼はシャーロットの顔を覗き込んで、ひんやり冷たい手を額に当てる。

「……全部夢だったらどうしようかと思った」

「夢じゃないぞ」

 彼はほんの少し微笑んでから口付けをした。

「昨日倒れたのは覚えているか?」

「……昨日?」

 ほんの一瞬寝ていただけだと思っていたが、随分と時間がたっていたようだった。

「すぐに医者を呼んで診てもらった。脱水と低栄養状態だそうだ。もうすぐ点滴が終わるから、じっとしてろよ」

 腕を見下ろして、そこから延びている管を追いかける。ベッドの天蓋に点滴の袋がふたつぶら下げてあった。

「俺が来るのがあと一日二日遅かったら、かなり危険な状態だったらしい」

 ウィルバートが点滴に繋がっているシャーロットの手をそっと握りしめた。

「頼むから、もうこんなことしないでくれ」

「……ごめんなさい」

 死ぬつもりだったなんて彼が知ったら、どれほど怒られるだろうか。

 謝ったシャーロットを見下ろして、ウィルバートはため息をついた。

「全く、一体何日食べていないんだ」

「……四ヶ月も連勤してる先生に言われたくないです」

「……六ヶ月だ」

 本当に、よく倒れないものだ。

「まぁ、それも今日でお終いだ。長い長い休暇が始まる」

 少し嬉しそうな声で言ったウィルバートを見上げる。この人のことだ。すぐに仕事がしたくてたまらなくなるのだろう。

「ゆっくり休んでください」

「いいや、お前がいる間はやることがたくさんある」

「私といちゃいちゃすることですか?」

「勉強だ」

 なんとも色気のない返事だ。うんざりした顔を向けると、彼も似たような表情を返してくる。

「お前、俺の大学に入試なしで入学するんだからな。入試問題をいくつか持ってきた。せめて六割は取れるまで頑張るぞ」

「はぁい」

 気のない返事をしたシャーロットの頭を撫でて、ウィルバートはベッドの脇の椅子に座った。

「さぁ、もう少し眠っていろ。点滴が終わったら起こすよ」

「分かりました」

 布団を首まで引き上げて、シャーロットは目をつむる。そして、恐ろしいほどの不安に駆られた。このまま眠ってしまったら、何もかもが夢に溶けてしまいそうな錯覚だ。

 そっと目を開ける。ウィルバートはシャーロットの顔を覗き込んでいたようで、すぐに目があった。指が伸びてきて、優しくまぶたを撫でる。

 その手に甘えたい。いや、もう充分過ぎるほど甘えている。でも、彼はもっと甘えてくれと言ってくれた。しかし、これ以上迷惑をかける訳にはいかない。でも、でも、やっぱり。

「あの、先生……」

「何だ」

「わがままを、言ってもいいですか?」

「ああ、いいよ」

 優しい声色に、恐る恐る彼の腕に手を伸ばす。

「起きた時に先生がいなかったら、また夢だったんじゃないかって怖くなるから……この部屋にいてもらってもいいですか?」

 ウィルバートは声に出して笑った。彼が笑う声を初めて聞いたかもしれない。

「そんなのわがままじゃない。それくらい、いくらでも聞いてやる」

 大きな手がシャーロットの手を包み込む。ひんやりと冷たい手はお互いの体温ですぐに温まって、シャーロットに微睡みをもたらす。

「ありがとうございます、先生……」

「うん。おやすみ」

「おやすみなさい……」

 瞳を閉じる。もう不安は一片すら湧いてこない。

 頬に触れるウィルバートの唇を感じながら、シャーロットは眠りの世界に落ちていった。












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