前に進むということ
聖央大学付属病院 六〇五号室。
表札には青木海人というネームプレートが差し込まれている。プレートが一枚だけのところをみると、どうやら個室らしい。病室が開いていなくて、ここをあてがわれたのだと有機は絵依から聞いていた。彼女は昨日見舞いに来たそうだ。
その扉の前で有機は銅像のようにまるで微動だにせず立ち尽くしている。
いまさら会って何を言えばいいのだろうか。
俺の言うことをきかなかったからだ、と責めるのか。
あの時もっと強く言えばよかった、と謝るのか。
有機の中で答えは出ないままだ。
ただ、有機が新たな一歩を踏み出すには、ここを無視していいはずがない。
「よし……」有機は扉をスライドする。
扉はひどく重い気がした。
それでも最後までひいて部屋に足を踏み入れる。その音に気付いた青木と有機の視線が交わった。
「おう無灯! 久しぶりだな」青木は笑った。
「あ、ああ……」
青木の反応は有機の予想に反して明るいものだった。それに対する反応がぎこちないことは有機自身が一番わかっていた。青木の視線が有機の右手へ向いた。
「それ、お見舞いなんじゃねえの?」
「え? ああ、そうだった。ごめん」
有機は右手の果物の詰め合わせを青木の枕元に置いた。
「果物はそろそろ食い飽きてきたんだけどな。ま、ありがたく受け取っておくわ。そこ、座れよ。椅子あんだろ?」
「ああ」
少しばかり皮肉のこもった言葉の選び方は普段の青木と変わらない。有機は肩にかけた鞄を床に置いて青木の横に座った。
重い空気が二人の間に流れる。一分一秒が、一年一カ月のようにとてつもなく長い時間に有機には感じられた。青木も同じように感じているのかは有機には判断のつかないことだ。
「……正直さ、お前は見舞には来ないと思ってたよ」
口火を切ったのは青木の方だった。
「え?」
「だってさ、あんな別れ方しただろ? それに怪我の原因があれじゃあさ……」
「……」
「結局お前の言うとおりだったな……。お前の忠告を聞いてりゃこんな無様なことにはならなかった」
「いや、あの場で何を言ったって青木を止めることは俺には出来なかったんだと思う。俺が逆の立場だったら、俺の言った言葉を信じられなかったと思う……」
「ふ、ははは! あっはっはっは!」
「な、なんだよ急に! 何がおかしいんだよ」
「いや、わりぃわりぃ。ということは、この怪我でお前が気に病むことはねえってことだろ? はは、良かったじゃねえか。少しは気が楽になったか?」
「……」
それでも沈んだ表情をした有機に対し、青木は静かに語りだす。
まるで懺悔でもするように。
「……俺さ、焦ってたんだ。春季大会が近いっていうのに、思うようにタイムが伸びなくて……。でも部活のみんなを心配させたくなかった。自分の中にいろんな感情を溜め込んでた。お前にもきつくあたっちゃってさ……ごめんな」
「そんな……俺は……」
「きっとこれは神様が俺に与えた罰なんだよ。だから仕方がないことなんだ」
青木は天井を仰ぎ見てしきりにまばたきを繰り返していた。そうしていなければ何かがこぼれてしまうのかもしれない。
「医者がさ、もう走れないって言うんだ」
「……え?」
「事故のときに右足が巻き込まれてさ、外面は魔法を使うことで傷を目立たなくできたんだけど、粉砕した骨が神経を傷つけたみたいで、リハビリで歩けるようになったとしても今までのようにアスリートとして走ることは無理だって……」
「そんな……」
「おいおい! お前がそんな暗い顔すんなよ! 俺はまだあきらめてないんだぜ? 俺から走ることをとったら何も残らねえからな。あがくだけあがく。医者が無理だって言おうが俺が無理だと思わなければ無理じゃねえ。根性でなんとかする。だからよ、お前もいつまでもウジウジしてんじゃねえよ。前を向け! お前のことを心配してる奴だっているんだからさ」
「ありがとう。……でも、俺を心配してる奴って、何の話だ?」
「ん? あ、いや、なんでもねえよ」
昨日、絵依が見舞いに来た時の会話を青木はうっかり言いそうになった。その時に有機が青木のことで気に病んでいることは聞いていた。青木も絵依の気持ちはわかっている。こうみえて割と空気を読む方なのだ。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
「おう。退院はまだ先だけど、そんときはよろしくな」
「ああ、待ってる」
有機は最後の最後にようやく笑うことが出来た。それを見た青木も少し安心したように肩をなでおろす。
「じゃあ、また」
「おう。――あっ! あぶねえ、言い忘れるとこだった」
有機が扉に手をかけようとすると、青木が声をかけた。有機が振り返る。
「どうしたんだ?」
「俺を助けてくれた白髪の外人にお願いしたんだ。今度の月末、楽しみしときな。臨時ボーナスだぜ!」
「? なんの話だ?」
「まあまあ、忠告を聞かなかった俺からお前に出来るせめてもの罪滅ぼしだと思ってくれよ。そんだけだ。んじゃまたな」
有機はわけもわからないまま病室を後にした。
(これでよかったんだ……。会えば自分の罪の意識が軽くなるってわけじゃない。けど向き合わなきゃ始まらない。これで俺も前へ進める……)
心の中で一つ、もやもやとしたものが消えたように有機は感じた。すると、扉を閉めてすぐに部屋の中からすすり泣く声が聞こえた。ここは個室で中には一人しかいない。
「うっ……うっ……」
それは悔し涙だろう。
青木にとって走れないということは生きる希望を見失うようなもの。それでも有機の前では必死に涙を堪えていたのだ。これ以上有機を傷つけまい、心配させないようにと。有機の知る青木はそんな優しい少年だった。
有機も歯を食いしばり、握り拳に力が入る。力みすぎたせいで血が滲んでいた。だが、痛みは感じない。怒りがそれを凌駕していたから。
許せない。どんな理由があろうと青木を傷つけ、そして今もどこかで誰かを苦しめている事件の犯人を有機は心の底から憎く思った。
「仇は必ずとるからな……」
扉越しに二人の男は泣いた。
最近、泣いてばかりだなと有機は思う。だが、泣くのはこれで最後だと胸に誓った。
目を閉じ、そして開く。
その瞳に、涙のかわりに確かな覚悟と想いをのせて有機は今、もう一度歩きだした。
◇◆◇◆◇
「くそ! あの野郎、窓から落ちたくせにまだ動けるのかよ。てか生きてんのか!?」
「二階から落ちたくらいじゃ人間は死なないぶぅ。それくらいには人間は丈夫にできているんだぶぅ」
裏庭へ降りてきた大森と小森だったが、権藤に回収を命じられた黄崎の死体はどこにも見当たらなかった。二人の視線に映るのは割れた強化ガラスの残骸のみ。大森は苛立ちと焦りから花壇の花を蹴散らした。体を襲う痛みは黄崎のハンマーに打ち付けられたものでも権藤に蹴り上げられたものでもなかった。
「このままじゃ中森さんまで……」
権藤は直接中森の名前をだしはしない。
だが、今まで学園の治安を共に守ってきた黄崎を簡単に切り捨てたその姿は、大森と小森に言いようのない恐怖を植え付けた。
「とにかく、今は生徒会長を探すしかないぶぅ……もしかしたらすでにどこかへ逃げているかもしれないぶぅ」
横から小森が声をかける。その言葉に大森が小さく頷くと、二人はその場を離れた。
(ここはなんとかやりすごすしかないな……。あの二人が僕を探しているということは権藤とは別行動か……。黒輪君が無事だと考える場合、彼女は権藤と行動していると考えるのが自然だな。あくまで、無事という前提だけど)
魔法『透過彩色』
それは自身の体を一定時間だけ光学迷彩よって周囲に溶け込ませる魔法だ。効果が切れる前に二人が裏庭を離れれば、黄崎にもチャンスはある。
(問題はこのあとだ……。仮にここで僕が助かったとして、今の僕に黒輪君を助けだせるだろうか……。権藤は強い。あの相手を出来るほどの強者で、かつ、黒輪君のために全力で戦える人間。となるとやはりあいつしかいないか……)
黄崎の脳裏に浮かんだのは額に青いバンダナを巻いた男。
昨年の生徒会選挙で絵依のために奮闘し、その際に互いの連絡先は交換していた。
黄崎としてはできるだけ頼りたくはない男。
だが、絵依のことに関してはこの男に任せるのが間違いないことも頭では理解していた。
焦燥に染まる大森と小森の横顔が部室棟の方へ去っていくのを確認し、黄崎は有機へ電話を繋ぐ。




