10話 人の呪(後編)
その光景を見た者は全て息を呑んだ。
広い荒野の一隅に、両者の血が垂れ落ちて染みこむ。
傷だらけのキヨナの伸ばした左腕の延長線上、握られた剣がエグザリの胸部を貫き、背中へと抜けていた。
微笑んだエグザリの右腕が跳ねて、刃がキヨナの首を狙うが鈍い。
キヨナは肉の鞘から剣を引き抜いて、血の剣閃を描いてエグザリの右腕を斬り落とした。
慣性で投げ出させれた腕と、握られた剣が宙に舞う。その切っ先がキヨナの頬を浅く裂いた。
最後の抵抗を終えたエグザリはため息の代わりに血を吐き、吐ききれない血を喉に絡ませた声を出した。
「自惚れていたか」
「さあ。二度戦えば、一度は私が死んでいるでしょうけど」
「自惚れていたなあ。確実に制すことができると、思っていたが」
全身に刻み合った傷の数では、エグザリがキヨナにつけたものの方が遥かに多い。
地力では、特に対人戦という舞台ではエグザリが上回っていた。
剣技と魔術を組み合わせ、体系化された王国軍式近接戦術の理想的な体現者と評されるエグザリは、単身での竜討伐すら経験している。
先日、ツェルドーグを敗走に追い込んだ際も、その功績はキヨナよりもエグザリに多く由来した。それは両者共に認識する事実であった。
数々の逸話を耳にしていたキヨナも、年齢の衰えを見せない動きに驚いたほどだ。
だからこそ、戦いたくなるのは必然だった。
エグザリはキヨナの血に濡れた顔を見て、最期の声を漏らす。
恨みや怒りではなく。
憐れみの声だった。
「お前には理念も信念も無いのだろうなあ」
「そんなものは、所詮まやかしですよ」
「そうだな。それでも、それにすがってきた」
蒼白な顔は、死の気配を濃密に漂わせる。
切断された腕から溢れる血はその勢いを弱めていた。
指揮をイルトナフィに。
その言葉を言い切ってエグザリは地面に崩れる。
「さて、イルトナフィさん、どうします?」
軌跡閃くアイペロスが空を切り、血液がその剣閃を描いた。
飛散した血液を顔に受けた男がイルトナフィだった。
この大隊ではエグザリに次ぐ高級士官。
ここまでの進軍中でキヨナは何度かイルトナフィと会話をしていた。
武勇よりも智謀と人格が評価されたような人物で、特に戦いたい相手ではない。
しかし、数百の軍人を指揮されればキヨナに勝ち目は無い。
生きて逃げ帰ることができれば幸運といったところだ。
同時に大隊の方に大きな被害を与えうるという計算は、キヨナとイルトナフィに共通する。
その被害を恐れたからこそ、エグザリは一対一の戦いを承諾した。
キヨナの背後の方向で、隻腕の契約の魔女がツェルドーグに寄りかかり、微笑んだ。
大隊を動かさない代わりに、エグザリは竜と魔女の関与を禁じた。それはエグザリとの契約で、イルトナフィが望めば大隊を動かすことができる。
答えは決まっていた。
人の価値観を覗くことができるネアは、すでにそれを察していた。
「撤退する」
新しい指揮官の選択が、短く告げられた。
* *
日が昇った。
真上に近い位置から荒野を照らし、三人分の影を作った。
ジャック、リア、そしてネリアのものだった。
黙々と歩き続ける。
「魔力波は来ないわね」
長い沈黙を破って、ネリアが独り言のように言った。
すでに基地は地平線の先。
明け方頃からずっと歩き通しだった。
「それどころじゃないんだろうね。エグザリが率いている軍と戦うんだ。最悪、攻略されることもありうる。
同盟領側に大きな探索を行う余裕はない、と願うしかないね」
ジャックが返した。
その予測と事実とは、キヨナが魔女に寝返るという事態によって大きく異なっていたが、それを知る由は無い。
しかし、異なる理由によって探索魔術は行われなかった。
「つらそうね」
ジャックの声から疲労を感じたネリアが、歩みを止めないまま振り返った。
ネリアの少し後ろを歩くジャックは笑顔を作る。
「数日寝たきりだったからね。もう若くないのかな、リアが羨ましいよ」
ネリアと手を繋いだリアが振り向いて、一瞬心配そうな表情を浮かべてから、自慢げな笑顔を浮かべた。
繋いで手と反対の腕を曲げて力こぶを作るように腕を曲げた。
「その調子で頑張ってね。まだずいぶん歩くよ」
ジャックに言葉に頷くと、リアはネリアの手を引いて前を向かせた。
童女のようなあどけない動作にネリアは微笑んで、何かネリアに話しかけた。
それを見ながら、ジャックはリアに感謝する。
話題を変えたいという意図を察して、ネリアの気をひいてくれた。
幼いように見えて、人のことを良く見ているし、良く気づく子だった。
障害を持っているからこそ、磨かれたのだろう。
人よりも自分の意思を伝えられないから、相手の意志をくみ取る方向に。
* *
「撤退していきましたね」
司令室に伝わった情報がまとめられて、結論が指揮官に伝えられた。
索敵魔術班の大半を動員して、精密に動きを追った結果だ。
狼犬人の指揮官は低く唸ったまま考え込む。
エグザリ本隊の撤退は、すでに魔女ネアから報告を受けていた。
半信半疑であったが、先ほどからそれを示す報告が次々と挙がっている。
「言ったでしょう? まあ、疑り深いのは悪い事ではないけれど」
ネアが微笑む。
知らぬ間に隻腕、隻眼となっているが、そのことへの説明は一切なかった。
「疑ってなどいませんが、確認は大事ですからね。特に、根拠のない情報には」
「どちらでもいいわ」
「ついでにひとつお聞きしたいのですが、その協力者さんとやらは何者なんです?」
指揮官が視線を送る先、司令室の入口のそばの壁に一人の剣士がもたれていた。
赤橙色の髪の女性は、一目見れば亜人や獣人ではなく人間と分かる。
その腰元には逸品の剣。
軌跡閃くアイペロスの名を指揮官は知っていた。
送られた視線に応えるように顔を上げた剣士が、優雅に微笑んだ。
指揮官はため息を吐いてからネアに向き直る。
「いえ、何者という質問は適切ではないですね。私はあの者を知っている。
キヨナ・リウェンの名はこちらでもそれなり有名です」
「あら、そうなの。それは聞いておけばよかったわね」
おかしそうに微笑むネアを睨みながら、指揮官は思考を回す。
ネアが戦争を長引かせているという情報が入ってきている。王国の人間で、所属も目的も怪しいが、虚偽判別魔術には引っかからなかった。それに、いくつか個人的に集めていた情報とも符合する。
武力行使でネアを拘束し、尋問することを考えていた矢先の奇襲だった。
それもエグザリ軍の撤退で片がついたところに、ネアの戦力補強。
竜人と、王国屈指の冒険者に、魔女の魔法。
基地の戦力はさほど疲弊していないが、魔女の戦力は未知数。
「良い人ね、あなたは。それに、エグザリも」
不意にネアが言った。
悲しそうな瞳に指揮官が違和感を覚えた。
「そうですかね」
「良い人よ。部下の命と、自分の使命を天秤にかけて思い悩んでいる。自分の未来は少しも乗せないでね。
公人としては理想的よ」
「それはどうも」
「その生き方は、けれど幸せなの?」
ネアが問うた。
魔女らしくもなく、その答えを本気で求めているように見えた。
「人の幸せは、価値観によって定義されるわ。
その価値観には本当に多くの形がある。典型的な形も、そうでない歪な形もある」
ネアが一瞬キヨナを見た。
そして、再び指揮官を見る。
「義務は果たさなければならない、という価値観の人もいる。
それらは、全て後天的なものとして、周囲の人間によって決定される。
他人の都合で押し付けられた価値観は、呪いと同じよ。一生、人を縛る」
ネアの言葉は静かな口調だったが、吐き捨てるような言い方に聞こえた。
啓蒙家か、あるいは宗教家のような台詞に対する反論は指揮官には思い浮かばない。
しかし、問い返した。
「では、あなたは今幸せですか?」
「分からない。
ずっと昔、一瞬だけ幸せだった気がするけれど。
それから幸せはあったのかな」
「曖昧ですね」
「はっきりしてるのは、幸せになる資格がないことかな」
ネアが指揮官の目をじっと見た。
ネアの黒い髪の向こうには右目が無く、残った左目には諭すような真剣さと優しさが混ざる。
「私は、私自身の契約を守らなければならない。
そのために、襲われたら抵抗をするし、こちらにはツェルドーグも、キヨナもいる。
仕掛けてくれば多くの人が死ぬ。何より、あなたか、あるいは部下の方に、次の契約の魔女を負わせることになる」
魔女を襲うという考えが見抜かれていた指揮官が心臓を大きく鳴らす。
対して、ネアはまるで母親のように優しい表情だった。
「この基地にいた人間の女の子。
多分、あの子が、私と戦争を終わらせてくれる。
だから無駄な人死にはいらないわ」
良い人は貴重だから、とネアが少し冗談めかした口調で言った。
結局、ネアを襲う案は指揮官によって計画され、計画者によって破棄された。
加えて索敵班に対してひとつの指示がくだされた。
王国軍への警戒を密にして、同盟領側への索敵は中止するという内容だった。
* *
すでに荒野には夜の闇が落ちていた。
基地から拝借した軍用の寝袋にリアとネリアが眠る。
外套を羽織ったジャックは寝ずに周囲を警戒していた。
体の内部に走る痛みに、眠ることができないのだった。
冷えた空気がゴイド山脈から降りてくるのか、風は強い。
その風に吹かれながらジャックはじっと痛みに意識を集中させていた。
指や足の先など、体の末端は何かに触れるだけで痛みが走る。
脊髄の周辺は断続的に激痛が続き、終わる頃にはその部位の感覚は無くなっている。
何より瞳の奥と脳の狭間のあたりがずっと疼く。
竜の呪が、今か今かと待ち望んでいる。
ジャックが体の所有権を失う瞬間を。
「綺麗な星ね」
ふと背後から声がした。ネリアのものだった。
ネリアが目を覚ましていたことにも気づけない現状に軽い焦りを覚えながら、ジャックが振り返る。
星明りの下で、寝袋から体を起こしたネリアが空を見ていた。
金色の髪と紺色の瞳が、星の光を淡く反射させる。
その横顔を見てジャックが今更に気づく。
「ネリアって美人なんだね」
「……なんで、こんなタイミングで」
「いや、思っただけ」
ジャックは毒気のない表情だった。
彼には珍しく、何の意図も計算もない言葉だった。
ネリアの視線を追ってジャックも空を見る。
大地が荒れ果てていても、星は変わらない。
しばらくの静けさに、ネリアが呟きを優しく溶かす。
「美人なのよ、私。普通に人間として王国に生を、それか同盟に生を受けていたらきっと幸せに生きられた。
でも奴隷として生まれたら、それが仇になった。知っているんでしょ?」
そうだね、とだけジャックは返す。
ネリアの情報を事前に知っていたことを、ネリアが気付いていることをジャックは察していた。
ラクアレキで再開した頃から、ジャックに向けられる敵意に気づいていたからだ。
「あなたは、私の半生を詳細に知っていた。
それを利用するためにセルクドに訪れた」
「そうだよ」
「どんな気分だった?」
それは責めるような口調ではなかった。もっと優しい声。
「特に何も思わなかった。
作業だったからね」
「ねえ、何が君にそうさせるの?
人の人生を狂わせて、自分は命を捨てるように竜に立ち向かって。
リアに恋愛感情を持ってるようにも見えない。それなら、こんな危ないことは止めると思う」
「それはそうだね。リアにそういう気持ちはないかな。
もっともさ、そういうの、俺には分かんないんだけどね」
ネリアはジャックを見る。
ジャックは、星を見続けた。
「けど、リアの依頼は成功させたい。
そのためにあんたを利用したし、何でも利用する。自分もね」
「それでいいの?」
「さあね。他にどうすればいいかを知らないから」
星を見ていたジャックはネリアに顔を向けた。
正面から見るネリアの顔は確かに愛嬌のある美人だった。
反対に、ネリアはジャックの疲れ果てた顔を見た。
生気がなく、荒んだ瞳だけが鋭く生きていることを主張していた。
「もう保証できないんだ」
ジャックが言った。
「いつまでもつのか、何ができるのか。
リアをモニテリへ連れていくことができるのかどうか。
だからあんたに頼みたいんだ」
「……何を?」
「俺がもたなかった後のこと。全部を」
「あつかましい頼みね」
そっけない口調でネリアが小さく笑った。
生活を奪っておいて、よくも頼むことができると。
「俺のことが嫌いでも、リアとは仲が良いだろう?
だから頼んでるんだ。
同盟でだって、ひとりくらい、人間を安全に暮らさせることはできるはずだ」
「リアにね、言ってみたの。
私と一緒に来ないかって。あの子は断ったわ」
ネリアがジャックを睨んだ。
この夜に、初めての攻撃的な視線だった。
「私はね、君ほど優秀な諜報員ではないわ。
王国にいた経験のために無理やり入軍させられて、訓練もずっとさぼってた。
でもね、ひとつだけ自信があるのよ。
少し年下の女の子が、何を望んでいるのか。それだけは分かるつもり」
「リアは何を?」
「あの子は、君に連れて行って欲しいのよ。
安全に暮らすことも、ただモニテリへ行くことも望んでいない。
あなたに連れられていくことを、望んでるの」
ネリアは心を冷ますように大きく呼吸をした。
「だから、君は、君がリアを連れて行かなきゃ駄目だよ。最後まで」
* *
地竜車が夜の荒野を駆けていく。
豪華な客室の中でキヨナは不機嫌そうに眉を潜めていた。
対面する座席に座るネアが首をかしげた。
「まったく、そんなに乗り物が嫌?」
「例えば刺客がいたとして、近づかれるより近づいていく時の方が圧倒的に気付くのが難しいでしょう?
不必要なリスクです」
「けれどモニテリまで歩いていくのは疲れるわ。せいぜい私と契約したことを悔いていて」
「ええ、充分に今しているところです」
ツェルドーグは二人から少し離れたところで目を閉じている。
興奮と苛立ちで眠くならないキヨナと、先ほどまで眠っていたネアの二人が起きていた。
交代要員の御者が隣の部屋で眠っている気配をキヨナは感じている。
前方には地竜が一頭と、御者が一人。
過敏なほどに感覚が研ぎ澄まされていた。
「三人ほど戦ってみたい同盟軍人がいます。名前は分かりませんが、外見の特徴と参加した作戦なら分かります」
「ええ、手配するわ。契約は守る。守らざるをえない」
ネアが承諾したことで、ようやくキヨナが微笑む。
それから、ふと遠くに見知った気配を感じた。
微笑みを意味ありげに深くするキヨナに、ネアは不思議そうな顔をする。
「どうかした?」
「いえ。そうか、なるほど」
上手くいってるみたいですね、と心中でキヨナが呟いた。
二種類の竜の魔力をまとわせた少年の気配は、やがて後方に流れ去り、感じ取れなくなった。




