「白い結婚で構わない」と言った夫が、毎晩私の部屋の前で眠っているので理由を聞いてみました
嫁いで三日目の夜明け前、私は廊下で夫を拾った。
喉が渇いて、水差しを取りに出ようとした。
扉を押した先に、覚えのない重みがあった。
建て付けが悪いのかと隙間から覗いて、息が止まった。
扉に背を預けて、男の人が座っている。
エドガー・ヴァルテン辺境伯。
北の戦を終わらせた英雄将軍で、三日前から私の夫だ。
鞘に納めたままの剣を胸に抱き、顎を落として、眠っていた。
廊下の燭台は落とされ、月明かりだけが輪郭を拾っている。
「……あの、旦那様」
声をかけた瞬間、夫の右手が剣の柄へ走った。
抜く寸前で止まり、灰色の瞳がようやく私を認める。
寝起きの緩みがどこにもない。
兵士の起き方だった。
「——すまない。何でもない」
夫は立ち上がり、乱れてもいない上着の襟を直して、廊下の奥へ消えた。
扉四つぶん先にある、自分の寝室のほうへ。
何でもない、で済む光景ではなかったと思う。
◇
私、リゼット・ヴァルテンの結婚は、絵に描いたような政略だった。
実家のフォルクマー伯爵家には娘が三人いる。
戦後の論功で力を増した辺境伯家と縁を結びたい父は、順当に長女へ話を持っていき、長女は泣いて拒んだ。
戦場帰りの無骨者に嫁ぐなんて、と。
次女も同じ理由で逃げ、余っていた末娘が箱に詰められて北へ送られた。
実家での私の扱いは、つまりその程度だ。
顔は並、社交は不得手、これといった芸もない。
唯一、人よりましだったのは、夜中に起きていても平気なことで、家族が寝静まったあとの繕い物は、いつからか私の持ち場になっていた。
礼を言われた記憶はない。
夜更かしの癖だけが残った。
今も深夜に手を動かしていないと、かえって寝つけない。
婚礼の晩、夫は私の目をまっすぐ見て言った。
「白い結婚で構わない。あなたに指一本触れない。それ以外の不自由はさせないと約束する」
怒りも侮りもない、業務連絡の口調だった。
覚悟はしてきた。
むしろ誠実な部類だと思って、私は頷いた。
寝室は最初から別に整えられ、昼に顔を合わせるのは食事の席だけ。
夫は礼儀正しく、皿の感想を一言述べ、政務へ戻っていく。
それだけの夫婦になるはずだった。
その人が毎晩、扉四つぶんの距離を自分の足で詰めて、私の部屋の前で眠っている。
どういうことなのか。
◇
まず、見間違いかどうかを確かめることにした。
四日目の夜、灯りを落としてから耳を澄ませた。
深夜を過ぎた頃、廊下で微かな衣擦れが鳴り、それきり静かになった。
夜明け前にそっと扉を引くと、やはり夫がいた。
剣を抱いた同じ姿勢で、規則正しい寝息を立てている。
今度は起こさず、音を立てないように閉めた。
五日目、寝る前に毛布を一枚、廊下へ出しておいた。
朝には四つ折りに畳まれ、扉の脇へ戻されていた。
上に小さな紙が載っている。
『不要です』
筆跡まで律儀だった。
六日目は毛布に枕を足した。
毛布は再び畳まれていたけれど、枕には使われた窪みが残っていた。
受け取る基準が分からない。
七日目、安眠に効くという薬草茶を水筒に詰めて添えてみた。
『効きませんので不要です』
返事が一語増えた。
効かない、ということは試したことがあるのだ。
つまりこの人は、眠れなくてここにいる。
使用人に聞くわけにはいかなかった。
英雄将軍が妻の部屋の前で野営していると広まれば、困るのは夫のほうだ。
それでも家令のバウマンにだけ、遠回しに尋ねてみた。
旦那様は夜、よく休めているのでしょうか、と。
老家令は一瞬だけ執事の顔を脱ぎ、また被り直した。
「旦那様は終戦からこちら、ずっと——」
そこで老家令は口をつぐんだ。
「……出過ぎたことを申しました。奥様、どうかお気になさらず」
気にせずにいられるなら、毛布も茶も出していない。
◇
八日目の夜、私は寝ないで待つことにした。
手元にはやりかけの繕い物。
夜更かしなら得意だ。
深夜過ぎ、廊下の気配が座って動かなくなったのを見計らい、内側から扉を開けた。
夫はまだ眠っておらず、壁に背を預けたまま、こちらを見上げた。
「……リゼット殿」
「殿はやめてくださいと、婚礼の日に申し上げたはずです」
私は羽織りの前を掻き合わせ、夫の隣の床に腰を下ろした。
石の冷たさが夜着越しに刺さる。
毎晩こんな場所で寝ているのか、この人は。
「理由を、伺ってもよろしいですか」
逃げ道を塞ぐつもりで、先に座ってから聞いた。
夫は長く黙った。
こちらを拒む沈黙ではない。
横顔を強張らせ、言葉を選んでいる。
「……三年、まともに眠っていない」
やがて夫は、観念したように白状した。
北の戦線では夜襲が続いた。
眠れば死ぬ夜を三年重ね、終戦して屋敷に戻っても、体だけが戦場に残った。
寝台に横たわると心臓が走り出す。
薬も酒も祈祷も試した。
軍医の診察も受け続けたが、眠れる夜だけは戻らなかった。
まともに休めたのは、前線の壕の中だけだったという。
「歩哨の気配がする場所でなら、眠れた。誰かが起きて、見張っていてくれる音がすれば」
「……それと、私の部屋に何の関係が」
「婚礼の夜、この前を通った」
夫は閉じた扉を見た。
「中から灯りが漏れていた。布の擦れる音と、鋏の音がした。規則正しく、朝方まで」
初夜に放っておかれた花嫁が、ふて寝もできずに繕い物をしていた音だ。
鋏だけではない。
途中で欠伸もしたし、針を落として独り言も言った。
思い出すほど頬が熱くなった。
「立ったまま、眠りかけた。三年ぶりだった」
それで翌晩も足が向いたのだろう。
その次の晩も。
気づけば毎晩、ここが寝床になっていた。
「なぜ、言ってくださらなかったのですか」
「白い結婚だと告げた口で、あなたの部屋に入れてくれとは言えない」
「せめて隣の部屋へ移るとか、方法はあったでしょう」
「壁越しでは音が届かない」
真顔で答えることだろうか。
笑いかけて、その前に確かめるべきことを思い出した。
「……では、白い結婚というお話は。私が、その、お気に召さなかったからでは」
「違う」
遮る声に力があって、私は少し驚いた。
夫は自分の手のひらを見下ろした。
剣だこで硬くなった、大きな手を。
「俺は寝起きに、人へ剣を向けたことがある」
「……え」
「終戦の月だ。夜中の物音で目が覚めて——気づいたときには、様子を見に来た従者の喉に、抜いた剣を当てていた。寝ぼけたのではない。この体は、動くものを先に敵と数える。同じ寝室は、危険だ」
扉一枚。
それが、夫が自分に許した距離だった。
「あなたの隣で眠って、朝、無事なあなたを見られる保証が、俺にはない」
俺、と初めて聞いた。
婚礼の夜から着込んでいた丁寧な鎧が、一枚剥がれた音だった。
◇
聞きたいことは聞けた。
聞いてしまった以上、放っておけるはずがなかった。
「廊下は冷えます」
私は立ち上がり、扉を大きく開けた。
「床でよろしければ、中でどうぞ。廊下と同じように、扉は開け放しておきます」
夫は敵陣の門でも見るように、開いた扉を眺めた。
「……いいのか」
「歩哨の気配が薬になるのでしたら、近いほうがよく効くでしょう」
夫は答える代わりに、腰の剣を外した。
鞘ごと廊下の壁へ立てかけてから、敷居をまたいだ。
その晩、北の英雄は私の寝台から離れた壁際の絨毯で、毛布にくるまって眠った。
大きな体を几帳面に畳んだ姿は、番犬というより、寝床を借りた大型犬に見えた。
口には出さないでおいた。
私は寝台の上で繕い物を続けた。
左手の鋏で糸を切るたび、床の寝息が深くなる気がした。
夫が寝入ったのを確かめてから、私も灯りを落とした。
翌朝、夫は夜明け前に目を覚まし、毛布を畳み、扉の手前で立ち止まった。
「……朝まで一度も起きなかった。三年で、初めてだ」
振り向いた声に、隠しきれない戸惑いが混じっていた。
それから、私たちの夜は妙な形に落ち着いた。
絨毯は三日で長椅子に変わり、長椅子は十日ほどで夫の寸法に合わせた新品に替わった。
夫が自ら職人を呼んだらしい。
「今夜は私が歩哨です」
寝る前にそう宣言すると、最初は困り顔だった夫も、やがて「頼む」と短く返すようになった。
軍人は役割を与えると従うのが早い。
歩哨といっても、夜通し起きているわけではない。
夫は一度寝入れば朝まで起きないから、私は鋏の音で寝かしつけて、後から眠るだけでいい。
それに、私の鋏だけが薬だったわけではない。
夫は軍医の指示に従い、眠る前の酒をやめ、少しずつ体を慣らしていた。
「歩哨は異常のない夜、何と報告するのですか」
ある晩、長椅子の夫に聞いてみた。
「……なぜそんなことを」
「役目をいただいたので、形式くらいは覚えたくて」
夫は生真面目に教えてくれた。
当直の名乗り、時刻、天候、敵影の有無。
締めは、異常なし。
覚えたての報告をその場でやってみせたら、及第だと言われた。
開け放していた扉は、雨の晩に私が閉めた。
廊下の湿気が入るから、という口実で。
閉じた扉の内側で眠れるようになったことを、お互い、指摘はしなかった。
変化は昼にも表れた。
頬に肉がつき、食が進み、視察から戻った副官のロルフ殿が「閣下、近頃顔色が人間です」と失礼極まりないことを言って喜んだ。
夫は答えず、少しだけ私のほうを見た。
数日後の夕食で、夫が聞いた。
「昼間は、何をして過ごしている」
「……特には。屋敷のことは、皆さんが完璧に回してくださるので」
言ってから、昼の自分が空っぽなことに気がついた。
夫は、それきり黙ってしまった。
その沈黙の意味を知ったのは、また数日あとのこと、夫に案内されて向かったのは、南向きの小間だった。
日の当たる椅子と、書棚と、焼き菓子と、真新しい裁縫箱が置いてあった。
「ここは、あなたの部屋だ」
夫は言いにくそうにしながら、それでも言い切った。
「夜の役目とは関係なく、昼に、あなたが好きに過ごすための部屋だ。夜更かしをやめろとは言わない。ただ——あなたの時間を、夜の余りものにしたくない」
そこで一度、息を継いだ。
「俺のために、あなたまで眠りを削る必要はない」
実家では、夜しか私のものにならなかった。
昼を差し出されたのは、生まれて初めてだった。
返事の代わりに窓の外を見たのは、顔が赤かったからだ。
この人が好きだと、そのとき観念した。
小間をもらってから、夫は昼に報告書を持って現れるようになった。
「書斎でもできるお仕事ですよね」
「そうだ」
「では、なぜこちらで」
夫は書類から目を上げずに答えた。
「……ここでしてはいけない理由もない」
理由になっていない理由だった。
私は聞かなかったことにして、隣で針を持った。
新しい裁縫箱の鋏は、使い慣れた古いものより、不思議なほど左手に馴染んだ。
ある日、焼き菓子をふたつに割って半分だけ食べていたら、視線を感じた。
「残すのか」
「明日の楽しみに、取っておくのです」
変な習慣だと笑われるかと思ったら、夫は何も言わず書類へ戻った。
◇
ひと月半が過ぎた朝、夫が食卓で言った。
「昨夜は書斎で眠った。報告書を待つ間に寝入って、気づいたら朝だった」
晴れやかな声だった。
「おめでとうございます」
心からそう言えた。
言えたのに、胸の奥がすっと冷えた。
その夜から、夫は自分の寝室で眠るようになった。
私の部屋の前で一度立ち止まり、何か言いかけて、結局こう言った。
「……もう、眠るためにあなたの夜を借りる理由がなくなった」
律儀に頭を下げて、廊下の奥へ戻っていく。
部屋には長椅子だけが残された。
借りる、という言葉が、その夜ずっと胸の底に沈んでいた。
最初から、私は貸し出されていたのだろうか。
昼の小間には、それからも変わらず報告書を持って現れる。
けれど、夜だけは来ない。
昼の訪れも、眠らせてもらった恩を返しているだけなのだと思えば、すべての辻褄が合ってしまった。
昼の私は、夜の恩を返す相手。
夜の私は、もう要らない。
そんな間違った計算ばかり、頭が勝手に続けた。
実家から手紙が届いたのは、その三日後だ。
父の筆跡だった。
将軍が政務に復帰し、体調も戻ったと聞いた、と書き出しにあった。
白い結婚が続いているのなら、婚姻の見直しは難しくないだろう。
解消できるのであれば、その後は改めて長女との縁を願い出る用意がある。
長女も、今なら異存はないと申している。
お前は戻り、家のための別の縁を受けよ。
——どこにも、罵る言葉はなかった。
家のための正しい算段が、正しい顔をして並んでいるだけだった。
娘を札として並べ替える、いつもの手つきで。
役目は済んだ、と私は読んだ。
その午後、小さな旅行鞄に荷物を詰めた。
嫁いできたときに持ってきたものだけ。
裁縫箱は、南の小間へ戻しておいた。
あれは私のものではなく、将軍夫人のものだから。
実家へ帰るための鞄ではなかった。
どこか辺境の町で、針仕事を探すつもりだった。
少なくとも、父が選ぶ次の縁へ戻るよりはいい。
今度だけは、行き先を自分で決める。
黙って消えるつもりはない。
朝になったら手紙を見せて、この家を出ますと自分の口で告げる。
そのための荷造りだった。
◇
その晩、嵐が来た。
屋根を叩く雨は、大勢の馬が駆けてくる音に似ていた。
北の夜襲は、いつもその音で始まったのだと、夫から聞いたことがある。
眠れないまま寝返りを打って、ふと、扉の外に気配を感じた。
開けると、夫がいた。
最初の夜とまったく同じ場所に、壁へ背を預けて座っている。
剣は持っていなかった。
「……眠れないからではない。あなたに話したいことが——」
言葉の途中で、雷が落ちた。
夫の肩が跳ねた。
音もなく立ち上がり、腰にない剣を探って、空を掴む。
灰色の瞳が私を映して、私を見ていない。
「——歩哨より、報告します」
返事はない。
「当直、リゼット・ヴァルテン。時刻は——」
届かない。
教わったとおりの形式でも、この人には届かない。
私は報告をやめた。
「エドガー」
敬称を捨てて、名前だけを呼んだ。
空を掴んでいた手が、止まった。
「……リゼット」
「はい」
「ここは」
「ここは、あなたの家です」
夫は目を閉じ、もう一度開いた。
今度は、私を見た。
「……そうだ。俺の家だ」
膝が折れて、長い息が落ちた。
「すまない。……今夜だけ、手を離さないでほしい」
差し出そうとした手を、夫の指が先に捕まえた。
私はその手を、朝まで離さなかった。
◇
目が覚めると、雨は上がっていた。
夫は先に起きていて、窓辺の旅行鞄の前に立っていた。
振り返った顔から、血の気が引いていた。
「……昨夜の俺を見て、決めたのか」
「違います」
それだけは、すぐに言えた。
私は枕元の手紙を差し出した。
夫が読み終えるあいだ、部屋は静かだった。
紙を二つに畳む音が、やけに大きく響いた。
「……よくできた手紙だ。娘の使い道まで、事細かに書いてある」
低い声だった。
「黙って発つつもりは、ありませんでした」
嘘をつくつもりも、最初からなかった。
「今朝、それをお見せして、この家を出ますと申し上げるつもりでした。あなたが怖いのではありません。……不要になるのが、怖かったのです」
言葉にすると、二十年ぶんの傷が声に出た。
「私には、夜に起きていられることしか取り柄がありませんでした。それであなたが眠れるなら、ようやく使い道ができたと思ったのです。でも、あなたはもう一人で眠れます。取り柄の使い道がなくなったのなら、私が残る理由もないのだと」
「あなたがここにいる理由を、取り柄で決めた覚えはない」
遮る声は、静かなのに一歩も引かなかった。
「……でも、あなたが私の部屋へ来ていた理由は、眠るためでした」
「最初はそうだった」
夫は認めた。
「だが、理由は途中で変わった。あなたは糸を切る前に、必ず長さを確かめ直す。焼き菓子は半分残して、翌日の楽しみに取っておく。笑う前に、一度だけ唇を結ぶ。……眠りと関係のないことばかり、俺は覚えていた」
「書斎で眠れた夜、思った。もう眠りを口実に、あなたの部屋へ通う理由がない。通い続ければ、厚意につけ込むことになると。……だが、その夜は眠れたのに、少しも楽ではなかった」
息が、止まった。
「俺が欲しかったのは、鋏の音じゃない。音が止んだあとも、あなたのいる部屋だった。夜を借りる、などと言ったのは——俺の臆病だ」
それから夫は、小間のほうへ目をやった。
「裁縫箱を、なぜ返した」
「……あれは、将軍夫人のためのものですから」
「あの鋏は左利き用だ」
思いもしない言葉だった。
「寝つく前に、あなたが左手で鋏を使うのを見ていた。妻が誰でもよかったなら、職人に利き手までは伝えない。あれは将軍夫人のためではなく、あなたのために置いた」
夫は手紙を執務机に置き、一歩、引いた。
「残るかどうかは、あなたが決めてほしい。あなたの行き先を、あの家にも——俺にも、決めさせたくない」
行き先を委ねられたのは、二十年で初めてだった。
「……残りたい、です」
声は小さくなったけれど、間違えずに言えた。
「帰りません。次の縁も要りません。私の行き先は、私が決めます」
返書には、その言葉を私の手で書き足した。
その下に、夫も一行だけ書き添えた。
ヴァルテン辺境伯家が迎えたのは、フォルクマー伯爵家の娘ではなく、リゼット・ヴァルテンである。
代替は認めない、と。
「……昨夜の、お話というのは」
「これからする」
夫は居住まいを正した。
「白い結婚で構わないと、婚礼の夜に言った」
「はい」
「あれを、撤回したい」
「……白くなくしたい、という意味ですか」
「違う」
夫は言葉を選び直した。
「妻として役に立とうなど、もう考えなくていい」
「……はい」
「それでも俺は、リゼットに、ここにいてほしい」
「そのうえで——もう一度、俺の妻になってほしい」
妻も、歩哨も、眠りの薬も外されて、それでも選ばれたのは私だった。
泣くのを堪えたら、返事が少し遅れた。
「……では、荷解きを手伝ってくださいますか」
夫は目を見開いて、それから、三年ぶんを取り戻すように笑った。
笑い終えた夫が、付け足した。
「もう一つ、撤回したい約束がある」
「……どの約束でしょう」
「指一本触れない、と言った」
夫は手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「触れても、いいだろうか」
「……まずは、手からお願いします」
差し出した手を、夫は今度は捕まえず、そっと包んだ。
◇
季節がひとつ進んだ。
長椅子は客間へ下げられた。
夫は今、同じ寝台で、私の隣に眠っている。
横向きで、私の手を握って。
剣は寝室の外、廊下の飾り台の上が定位置になった。
自分で決めて、自分で運んだ。
夜襲の夜は、まだたまに来る。
けれどそういう夜も、この頃は名前をひとつ呼べば、夫は自分で戻ってくる。
私が彼を治したのではない。
彼が自分の足で、ここは戦場ではないと覚え直している。
私は、その道の隣を歩いているだけだ。
裁縫箱は南の小間に戻り、昼はそこで本を読む。
夜は夫が寝入るまでの短いあいだだけ、好きな繕い物をする。
鋏の音が一番の子守唄だと言い張るので、やめる理由がない。
実家からの手紙は、あれきり来ない。
今夜も、私たちの寝室の扉の前には誰もいない。
歩哨は交代制になって、持ち場は扉の内側へ移りました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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