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「白い結婚で構わない」と言った夫が、毎晩私の部屋の前で眠っているので理由を聞いてみました

作者: 中身無男
掲載日:2026/07/23

嫁いで三日目の夜明け前、私は廊下で夫を拾った。


喉が渇いて、水差しを取りに出ようとした。


扉を押した先に、覚えのない重みがあった。


建て付けが悪いのかと隙間から覗いて、息が止まった。


扉に背を預けて、男の人が座っている。


エドガー・ヴァルテン辺境伯。


北の戦を終わらせた英雄将軍で、三日前から私の夫だ。


鞘に納めたままの剣を胸に抱き、顎を落として、眠っていた。


廊下の燭台は落とされ、月明かりだけが輪郭を拾っている。


「……あの、旦那様」


声をかけた瞬間、夫の右手が剣の柄へ走った。


抜く寸前で止まり、灰色の瞳がようやく私を認める。


寝起きの緩みがどこにもない。


兵士の起き方だった。


「——すまない。何でもない」


夫は立ち上がり、乱れてもいない上着の襟を直して、廊下の奥へ消えた。


扉四つぶん先にある、自分の寝室のほうへ。


何でもない、で済む光景ではなかったと思う。



私、リゼット・ヴァルテンの結婚は、絵に描いたような政略だった。


実家のフォルクマー伯爵家には娘が三人いる。


戦後の論功で力を増した辺境伯家と縁を結びたい父は、順当に長女へ話を持っていき、長女は泣いて拒んだ。


戦場帰りの無骨者に嫁ぐなんて、と。


次女も同じ理由で逃げ、余っていた末娘が箱に詰められて北へ送られた。


実家での私の扱いは、つまりその程度だ。


顔は並、社交は不得手、これといった芸もない。


唯一、人よりましだったのは、夜中に起きていても平気なことで、家族が寝静まったあとの繕い物は、いつからか私の持ち場になっていた。


礼を言われた記憶はない。


夜更かしの癖だけが残った。


今も深夜に手を動かしていないと、かえって寝つけない。


婚礼の晩、夫は私の目をまっすぐ見て言った。


「白い結婚で構わない。あなたに指一本触れない。それ以外の不自由はさせないと約束する」


怒りも侮りもない、業務連絡の口調だった。


覚悟はしてきた。


むしろ誠実な部類だと思って、私は頷いた。


寝室は最初から別に整えられ、昼に顔を合わせるのは食事の席だけ。


夫は礼儀正しく、皿の感想を一言述べ、政務へ戻っていく。


それだけの夫婦になるはずだった。


その人が毎晩、扉四つぶんの距離を自分の足で詰めて、私の部屋の前で眠っている。


どういうことなのか。



まず、見間違いかどうかを確かめることにした。


四日目の夜、灯りを落としてから耳を澄ませた。


深夜を過ぎた頃、廊下で微かな衣擦れが鳴り、それきり静かになった。


夜明け前にそっと扉を引くと、やはり夫がいた。


剣を抱いた同じ姿勢で、規則正しい寝息を立てている。


今度は起こさず、音を立てないように閉めた。


五日目、寝る前に毛布を一枚、廊下へ出しておいた。


朝には四つ折りに畳まれ、扉の脇へ戻されていた。


上に小さな紙が載っている。


『不要です』


筆跡まで律儀だった。


六日目は毛布に枕を足した。


毛布は再び畳まれていたけれど、枕には使われた窪みが残っていた。


受け取る基準が分からない。


七日目、安眠に効くという薬草茶を水筒に詰めて添えてみた。


『効きませんので不要です』


返事が一語増えた。


効かない、ということは試したことがあるのだ。


つまりこの人は、眠れなくてここにいる。


使用人に聞くわけにはいかなかった。


英雄将軍が妻の部屋の前で野営していると広まれば、困るのは夫のほうだ。


それでも家令のバウマンにだけ、遠回しに尋ねてみた。


旦那様は夜、よく休めているのでしょうか、と。


老家令は一瞬だけ執事の顔を脱ぎ、また被り直した。


「旦那様は終戦からこちら、ずっと——」


そこで老家令は口をつぐんだ。


「……出過ぎたことを申しました。奥様、どうかお気になさらず」


気にせずにいられるなら、毛布も茶も出していない。



八日目の夜、私は寝ないで待つことにした。


手元にはやりかけの繕い物。


夜更かしなら得意だ。


深夜過ぎ、廊下の気配が座って動かなくなったのを見計らい、内側から扉を開けた。


夫はまだ眠っておらず、壁に背を預けたまま、こちらを見上げた。


「……リゼット殿」


「殿はやめてくださいと、婚礼の日に申し上げたはずです」


私は羽織りの前を掻き合わせ、夫の隣の床に腰を下ろした。


石の冷たさが夜着越しに刺さる。


毎晩こんな場所で寝ているのか、この人は。


「理由を、伺ってもよろしいですか」


逃げ道を塞ぐつもりで、先に座ってから聞いた。


夫は長く黙った。


こちらを拒む沈黙ではない。


横顔を強張らせ、言葉を選んでいる。


「……三年、まともに眠っていない」


やがて夫は、観念したように白状した。


北の戦線では夜襲が続いた。


眠れば死ぬ夜を三年重ね、終戦して屋敷に戻っても、体だけが戦場に残った。


寝台に横たわると心臓が走り出す。


薬も酒も祈祷も試した。


軍医の診察も受け続けたが、眠れる夜だけは戻らなかった。


まともに休めたのは、前線の壕の中だけだったという。


「歩哨の気配がする場所でなら、眠れた。誰かが起きて、見張っていてくれる音がすれば」


「……それと、私の部屋に何の関係が」


「婚礼の夜、この前を通った」


夫は閉じた扉を見た。


「中から灯りが漏れていた。布の擦れる音と、鋏の音がした。規則正しく、朝方まで」


初夜に放っておかれた花嫁が、ふて寝もできずに繕い物をしていた音だ。


鋏だけではない。


途中で欠伸もしたし、針を落として独り言も言った。


思い出すほど頬が熱くなった。


「立ったまま、眠りかけた。三年ぶりだった」


それで翌晩も足が向いたのだろう。


その次の晩も。


気づけば毎晩、ここが寝床になっていた。


「なぜ、言ってくださらなかったのですか」


「白い結婚だと告げた口で、あなたの部屋に入れてくれとは言えない」


「せめて隣の部屋へ移るとか、方法はあったでしょう」


「壁越しでは音が届かない」


真顔で答えることだろうか。


笑いかけて、その前に確かめるべきことを思い出した。


「……では、白い結婚というお話は。私が、その、お気に召さなかったからでは」


「違う」


遮る声に力があって、私は少し驚いた。


夫は自分の手のひらを見下ろした。


剣だこで硬くなった、大きな手を。


「俺は寝起きに、人へ剣を向けたことがある」


「……え」


「終戦の月だ。夜中の物音で目が覚めて——気づいたときには、様子を見に来た従者の喉に、抜いた剣を当てていた。寝ぼけたのではない。この体は、動くものを先に敵と数える。同じ寝室は、危険だ」


扉一枚。


それが、夫が自分に許した距離だった。


「あなたの隣で眠って、朝、無事なあなたを見られる保証が、俺にはない」


俺、と初めて聞いた。


婚礼の夜から着込んでいた丁寧な鎧が、一枚剥がれた音だった。



聞きたいことは聞けた。


聞いてしまった以上、放っておけるはずがなかった。


「廊下は冷えます」


私は立ち上がり、扉を大きく開けた。


「床でよろしければ、中でどうぞ。廊下と同じように、扉は開け放しておきます」


夫は敵陣の門でも見るように、開いた扉を眺めた。


「……いいのか」


「歩哨の気配が薬になるのでしたら、近いほうがよく効くでしょう」


夫は答える代わりに、腰の剣を外した。


鞘ごと廊下の壁へ立てかけてから、敷居をまたいだ。


その晩、北の英雄は私の寝台から離れた壁際の絨毯で、毛布にくるまって眠った。


大きな体を几帳面に畳んだ姿は、番犬というより、寝床を借りた大型犬に見えた。


口には出さないでおいた。


私は寝台の上で繕い物を続けた。


左手の鋏で糸を切るたび、床の寝息が深くなる気がした。


夫が寝入ったのを確かめてから、私も灯りを落とした。


翌朝、夫は夜明け前に目を覚まし、毛布を畳み、扉の手前で立ち止まった。


「……朝まで一度も起きなかった。三年で、初めてだ」


振り向いた声に、隠しきれない戸惑いが混じっていた。


それから、私たちの夜は妙な形に落ち着いた。


絨毯は三日で長椅子に変わり、長椅子は十日ほどで夫の寸法に合わせた新品に替わった。


夫が自ら職人を呼んだらしい。


「今夜は私が歩哨です」


寝る前にそう宣言すると、最初は困り顔だった夫も、やがて「頼む」と短く返すようになった。


軍人は役割を与えると従うのが早い。


歩哨といっても、夜通し起きているわけではない。


夫は一度寝入れば朝まで起きないから、私は鋏の音で寝かしつけて、後から眠るだけでいい。


それに、私の鋏だけが薬だったわけではない。


夫は軍医の指示に従い、眠る前の酒をやめ、少しずつ体を慣らしていた。


「歩哨は異常のない夜、何と報告するのですか」


ある晩、長椅子の夫に聞いてみた。


「……なぜそんなことを」


「役目をいただいたので、形式くらいは覚えたくて」


夫は生真面目に教えてくれた。


当直の名乗り、時刻、天候、敵影の有無。


締めは、異常なし。


覚えたての報告をその場でやってみせたら、及第だと言われた。


開け放していた扉は、雨の晩に私が閉めた。


廊下の湿気が入るから、という口実で。


閉じた扉の内側で眠れるようになったことを、お互い、指摘はしなかった。


変化は昼にも表れた。


頬に肉がつき、食が進み、視察から戻った副官のロルフ殿が「閣下、近頃顔色が人間です」と失礼極まりないことを言って喜んだ。


夫は答えず、少しだけ私のほうを見た。


数日後の夕食で、夫が聞いた。


「昼間は、何をして過ごしている」


「……特には。屋敷のことは、皆さんが完璧に回してくださるので」


言ってから、昼の自分が空っぽなことに気がついた。


夫は、それきり黙ってしまった。


その沈黙の意味を知ったのは、また数日あとのこと、夫に案内されて向かったのは、南向きの小間だった。


日の当たる椅子と、書棚と、焼き菓子と、真新しい裁縫箱が置いてあった。


「ここは、あなたの部屋だ」


夫は言いにくそうにしながら、それでも言い切った。


「夜の役目とは関係なく、昼に、あなたが好きに過ごすための部屋だ。夜更かしをやめろとは言わない。ただ——あなたの時間を、夜の余りものにしたくない」


そこで一度、息を継いだ。


「俺のために、あなたまで眠りを削る必要はない」


実家では、夜しか私のものにならなかった。


昼を差し出されたのは、生まれて初めてだった。


返事の代わりに窓の外を見たのは、顔が赤かったからだ。


この人が好きだと、そのとき観念した。


小間をもらってから、夫は昼に報告書を持って現れるようになった。


「書斎でもできるお仕事ですよね」


「そうだ」


「では、なぜこちらで」


夫は書類から目を上げずに答えた。


「……ここでしてはいけない理由もない」


理由になっていない理由だった。


私は聞かなかったことにして、隣で針を持った。


新しい裁縫箱の鋏は、使い慣れた古いものより、不思議なほど左手に馴染んだ。


ある日、焼き菓子をふたつに割って半分だけ食べていたら、視線を感じた。


「残すのか」


「明日の楽しみに、取っておくのです」


変な習慣だと笑われるかと思ったら、夫は何も言わず書類へ戻った。



ひと月半が過ぎた朝、夫が食卓で言った。


「昨夜は書斎で眠った。報告書を待つ間に寝入って、気づいたら朝だった」


晴れやかな声だった。


「おめでとうございます」


心からそう言えた。


言えたのに、胸の奥がすっと冷えた。


その夜から、夫は自分の寝室で眠るようになった。


私の部屋の前で一度立ち止まり、何か言いかけて、結局こう言った。


「……もう、眠るためにあなたの夜を借りる理由がなくなった」


律儀に頭を下げて、廊下の奥へ戻っていく。


部屋には長椅子だけが残された。


借りる、という言葉が、その夜ずっと胸の底に沈んでいた。


最初から、私は貸し出されていたのだろうか。


昼の小間には、それからも変わらず報告書を持って現れる。


けれど、夜だけは来ない。


昼の訪れも、眠らせてもらった恩を返しているだけなのだと思えば、すべての辻褄が合ってしまった。


昼の私は、夜の恩を返す相手。


夜の私は、もう要らない。


そんな間違った計算ばかり、頭が勝手に続けた。


実家から手紙が届いたのは、その三日後だ。


父の筆跡だった。


将軍が政務に復帰し、体調も戻ったと聞いた、と書き出しにあった。


白い結婚が続いているのなら、婚姻の見直しは難しくないだろう。


解消できるのであれば、その後は改めて長女との縁を願い出る用意がある。


長女も、今なら異存はないと申している。


お前は戻り、家のための別の縁を受けよ。


——どこにも、罵る言葉はなかった。


家のための正しい算段が、正しい顔をして並んでいるだけだった。


娘を札として並べ替える、いつもの手つきで。


役目は済んだ、と私は読んだ。


その午後、小さな旅行鞄に荷物を詰めた。


嫁いできたときに持ってきたものだけ。


裁縫箱は、南の小間へ戻しておいた。


あれは私のものではなく、将軍夫人のものだから。


実家へ帰るための鞄ではなかった。


どこか辺境の町で、針仕事を探すつもりだった。


少なくとも、父が選ぶ次の縁へ戻るよりはいい。


今度だけは、行き先を自分で決める。


黙って消えるつもりはない。


朝になったら手紙を見せて、この家を出ますと自分の口で告げる。


そのための荷造りだった。



その晩、嵐が来た。


屋根を叩く雨は、大勢の馬が駆けてくる音に似ていた。


北の夜襲は、いつもその音で始まったのだと、夫から聞いたことがある。


眠れないまま寝返りを打って、ふと、扉の外に気配を感じた。


開けると、夫がいた。


最初の夜とまったく同じ場所に、壁へ背を預けて座っている。


剣は持っていなかった。


「……眠れないからではない。あなたに話したいことが——」


言葉の途中で、雷が落ちた。


夫の肩が跳ねた。


音もなく立ち上がり、腰にない剣を探って、空を掴む。


灰色の瞳が私を映して、私を見ていない。


「——歩哨より、報告します」


返事はない。


「当直、リゼット・ヴァルテン。時刻は——」


届かない。


教わったとおりの形式でも、この人には届かない。


私は報告をやめた。


「エドガー」


敬称を捨てて、名前だけを呼んだ。


空を掴んでいた手が、止まった。


「……リゼット」


「はい」


「ここは」


「ここは、あなたの家です」


夫は目を閉じ、もう一度開いた。


今度は、私を見た。


「……そうだ。俺の家だ」


膝が折れて、長い息が落ちた。


「すまない。……今夜だけ、手を離さないでほしい」


差し出そうとした手を、夫の指が先に捕まえた。


私はその手を、朝まで離さなかった。



目が覚めると、雨は上がっていた。


夫は先に起きていて、窓辺の旅行鞄の前に立っていた。


振り返った顔から、血の気が引いていた。


「……昨夜の俺を見て、決めたのか」


「違います」


それだけは、すぐに言えた。


私は枕元の手紙を差し出した。


夫が読み終えるあいだ、部屋は静かだった。


紙を二つに畳む音が、やけに大きく響いた。


「……よくできた手紙だ。娘の使い道まで、事細かに書いてある」


低い声だった。


「黙って発つつもりは、ありませんでした」


嘘をつくつもりも、最初からなかった。


「今朝、それをお見せして、この家を出ますと申し上げるつもりでした。あなたが怖いのではありません。……不要になるのが、怖かったのです」


言葉にすると、二十年ぶんの傷が声に出た。


「私には、夜に起きていられることしか取り柄がありませんでした。それであなたが眠れるなら、ようやく使い道ができたと思ったのです。でも、あなたはもう一人で眠れます。取り柄の使い道がなくなったのなら、私が残る理由もないのだと」


「あなたがここにいる理由を、取り柄で決めた覚えはない」


遮る声は、静かなのに一歩も引かなかった。


「……でも、あなたが私の部屋へ来ていた理由は、眠るためでした」


「最初はそうだった」


夫は認めた。


「だが、理由は途中で変わった。あなたは糸を切る前に、必ず長さを確かめ直す。焼き菓子は半分残して、翌日の楽しみに取っておく。笑う前に、一度だけ唇を結ぶ。……眠りと関係のないことばかり、俺は覚えていた」


「書斎で眠れた夜、思った。もう眠りを口実に、あなたの部屋へ通う理由がない。通い続ければ、厚意につけ込むことになると。……だが、その夜は眠れたのに、少しも楽ではなかった」


息が、止まった。


「俺が欲しかったのは、鋏の音じゃない。音が止んだあとも、あなたのいる部屋だった。夜を借りる、などと言ったのは——俺の臆病だ」


それから夫は、小間のほうへ目をやった。


「裁縫箱を、なぜ返した」


「……あれは、将軍夫人のためのものですから」


「あの鋏は左利き用だ」


思いもしない言葉だった。


「寝つく前に、あなたが左手で鋏を使うのを見ていた。妻が誰でもよかったなら、職人に利き手までは伝えない。あれは将軍夫人のためではなく、あなたのために置いた」


夫は手紙を執務机に置き、一歩、引いた。


「残るかどうかは、あなたが決めてほしい。あなたの行き先を、あの家にも——俺にも、決めさせたくない」


行き先を委ねられたのは、二十年で初めてだった。


「……残りたい、です」


声は小さくなったけれど、間違えずに言えた。


「帰りません。次の縁も要りません。私の行き先は、私が決めます」


返書には、その言葉を私の手で書き足した。


その下に、夫も一行だけ書き添えた。


ヴァルテン辺境伯家が迎えたのは、フォルクマー伯爵家の娘ではなく、リゼット・ヴァルテンである。


代替は認めない、と。


「……昨夜の、お話というのは」


「これからする」


夫は居住まいを正した。


「白い結婚で構わないと、婚礼の夜に言った」


「はい」


「あれを、撤回したい」


「……白くなくしたい、という意味ですか」


「違う」


夫は言葉を選び直した。


「妻として役に立とうなど、もう考えなくていい」


「……はい」


「それでも俺は、リゼットに、ここにいてほしい」


「そのうえで——もう一度、俺の妻になってほしい」


妻も、歩哨も、眠りの薬も外されて、それでも選ばれたのは私だった。


泣くのを堪えたら、返事が少し遅れた。


「……では、荷解きを手伝ってくださいますか」


夫は目を見開いて、それから、三年ぶんを取り戻すように笑った。


笑い終えた夫が、付け足した。


「もう一つ、撤回したい約束がある」


「……どの約束でしょう」


「指一本触れない、と言った」


夫は手を伸ばしかけて、途中で止めた。


「触れても、いいだろうか」


「……まずは、手からお願いします」


差し出した手を、夫は今度は捕まえず、そっと包んだ。



季節がひとつ進んだ。


長椅子は客間へ下げられた。


夫は今、同じ寝台で、私の隣に眠っている。


横向きで、私の手を握って。


剣は寝室の外、廊下の飾り台の上が定位置になった。


自分で決めて、自分で運んだ。


夜襲の夜は、まだたまに来る。


けれどそういう夜も、この頃は名前をひとつ呼べば、夫は自分で戻ってくる。


私が彼を治したのではない。


彼が自分の足で、ここは戦場ではないと覚え直している。


私は、その道の隣を歩いているだけだ。


裁縫箱は南の小間に戻り、昼はそこで本を読む。


夜は夫が寝入るまでの短いあいだだけ、好きな繕い物をする。


鋏の音が一番の子守唄だと言い張るので、やめる理由がない。


実家からの手紙は、あれきり来ない。


今夜も、私たちの寝室の扉の前には誰もいない。


歩哨は交代制になって、持ち場は扉の内側へ移りました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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