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第3話「鎖国中に海外出張を命じられました」①

山陽道を東へ。目指すは横浜。だが主要街道は歩けない。東海道は幕府の管轄で関所だらけ。長州藩士が五人で歩けば一発でアウト。だから脇街道に入り、関所を迂回しながら東を目指す。


文久三年、六月。梅雨明け直後の蒸し暑さ。


歩きながら、改めて思う。「徒歩移動」という行為の過酷さを甘く見ていた。


前世。東京から横浜までは電車で三十分。新幹線なら東京から大阪まで二時間半。飛行機なら東京からロンドンまで十二時間。以上、常識。


今世。萩から横浜まで徒歩で約十日。


十日!

朝から晩まで歩いて、十日! 移動だけで十日! 日数がおかしい。単位がおかしい。何もかもおかしい。


足が痛い。草鞋の紐が食い込んで足首が擦れてる。太ももの内側が擦れてる。腰が痛い。肩に荷物が食い込んでる。全身が筋肉痛。前世では考えられない部位が痛い。たとえば足の裏の特定の一点だけが痛い。前世の俺の足の裏は、駅のホームとオフィスの床しか知らなかった。舗装されてない道を歩くのは、まったく別の筋肉を使うらしい。


三日目にして既にこの有様だ。


「伊藤。顔が死んどるぞ」


隣を歩く井上が涼しい顔で言う。この男は体力お化けだ。同じ距離を歩いてるのに汗すらかいてない。武芸で鍛えた体は違う。俺は稽古で竹刀を振ってるだけだが、こっちはたぶん日頃から走ったり山に登ったりしてる。基礎体力の次元が違う。


「……少し休みませんか」


「まだ一里も歩いとらん」


「一里って何キロですか」


「は?」


「いえ。何でもないです」


危ない。口が滑った。「キロメートル」なんて言葉、この時代には存在しない。距離の単位は里と町と間だ。一里は約四キロ。その四キロがまだ「一里も歩いてない」扱い。つまりこの時代の人間は四キロ歩くのを「準備運動」くらいに思ってる。狂ってる。


俺と井上は先発組。二人で町人姿に変装して東進中。井上は商人風、俺は手代風。残りの三人(山尾、遠藤、野村)は半日遅れで別ルート。合流は横浜の宿。


変装といっても大したことはしてない。刀を外して、町人の着物に着替えただけ。でもこれだけで周囲の態度が変わる。武士の着物だと道を開けてもらえるが、町人の着物だと誰もよけてくれない。無言でぶつかられる。身分社会ってこういうことか。前世でスーツを着てる時と、休日に部屋着でコンビニに行く時の扱いの差に似てる。世界は見た目で判断する。どの時代も同じだ。


◇ ◇ ◇


五日目。宿場町。


安宿を取る。一部屋を二人で使う。狭い。でも贅沢は言えない。


井上が「飯を食いに行く」と言って外に出た。俺は部屋に残る。体力が限界だ。足の裏に水ぶくれができてる。破れてないだけマシだが、明日の朝は激痛だろうな。


でも体は休めても頭は休めない。やることがある。


半紙を広げ、筆を取る。横浜到着後の行動計画を書き出す。


一、ジャーディン・マセソン商会の横浜支社に接触。事前に桂さんから連絡済み。

二、乗船する英国商船の確認。船名、出港日、船長の名前。

三、五人全員が合流した段階で乗船手続き。←ここが最大のリスクポイント。

四、出港。


三番が問題だ。五人の日本人が英国商船に乗り込む。船側に説明が必要。でも鎖国中の国から密航する人間を乗せるのは、船側にもリスクがある。金銭的インセンティブで引き受けてもらってるが、当日になって「やっぱ無理」と言われたら終わり。


バックアッププランを考える。万が一商会の手配がダメになった場合、横浜の他の商会を当たれるか。英語で交渉できるのは俺だけ。つまり俺が動くしかない。


バックアップのバックアッププラン。そもそも横浜に入れなかった場合。幕府の目が厳しくて居留地に近づけなかった場合。その時は退却して日を改める。


最悪のケース。密航が事前に発覚し、横浜で待ち伏せ。逃走。桂さんが言ってた「協力者」の家に逃げ込む。


……こうやって最悪のケースを並べてると、どんどん胃が痛くなる。でも並べないよりマシだ。「想定外」が一番怖い。想定してれば、少なくともパニックにはならない。


前世の上司が言ってた。「リスクは書き出せ。書き出せば半分は消える。対策が立つからだ」。あの上司は嫌いだった。パワハラ気質だし、残業は当たり前だと思ってるし、「村上くん、君のために言ってるんだよ」が口癖だった。でもこの言葉だけは正しかった。嫌いな上司の言うことにも、たまに真実が混ざってる。それがまた腹立つ。


書き終える。半紙を畳んで懐に入れる。


井上が戻ってくる。酒の匂いがぷんぷんする。この人、一人で飲んできたな。


「伊藤、お前も飲みに来ればよかったのに。何をしとったんじゃ」


「明日以降の段取りを確認してました」


「律儀じゃのう。まあ、お前がそうやって心配性をやっとるおかげで、俺は安心して飲めるんじゃが」


「それはどうも」


「褒めとるんじゃぞ」


「分かってます」


井上が布団に倒れ込む。数秒後にイビキが聞こえ始める。この男の入眠速度は異常だ。頭が枕につく前に寝てるんじゃないか。心配事がないのか。あるいは心配事があっても寝られるタイプか。どっちにしろ羨ましい。俺は寝る前にもう一仕事、頭の中で明日のシミュレーションをするタイプだ。


天井を見つめる。染みがある。なんの染みだろう。考えるのはやめよう。


あと五日で横浜。


◇ ◇ ◇


七日目。箱根の山を越える。


これが地獄だった。


街道としての箱根は整備されてるが、俺たちは関所を避けて脇道を行く。獣道に近い。細い。アップダウンが激烈。息が上がる。足が棒になる。棒って表現、比喩だと思ってたけど本当になるんだな。感覚がない。感覚がないのに前に出る。変な感じだ。


井上は涼しい顔。本当にこの人、化物だと思う。


「伊藤、遅いぞ」


「……すみません……」


「荷物、持ってやろうか」


「大丈夫……です……」


限界だった。でも自分の荷物を他人に持たせるのは、前世の俺のプライドが許さなかった。仕事を人に振れない。資料は全部自分で作る。議事録も自分で書く。後輩に「手伝いましょうか」と言われても「いや、大丈夫」と言ってしまう。だから過労死した。学習してない。でも今更変われない。三十二年間の習慣は、死んでも染みついてる。


山道の途中で休憩。切り株に座る。汗が止まらない。息が荒い。水筒の水を飲む。温い。でもうまい。喉が渇きすぎて、味なんてどうでもいい。


井上が隣に立って、山の下を見てる。景色はいい。海が見える。相模湾だ。遠くに青い海。これからあそこを越えるんだ。


「伊藤」


「はい」


「お前、なんでこの仕事を引き受けたんじゃ」


予想外の質問だった。井上がこういう「内面に踏み込む」質問をするタイプとは思ってなかった。もっと豪快で、細かいことは気にしない人だと思ってた。


「……断れなかった、というのが正直なところです」


「断れなかった? 桂さんに?」


「はい」


井上が鼻で笑う。でも馬鹿にする笑いじゃない。共感の笑いだ。


「正直な奴じゃ。俺も似たようなもんだがな」


「井上さんも断れなかった?」


「まあな。桂さんに『お前が適任だ』と言われたら、断る理由がない。あの人はそういう言い方をするんじゃ。断れないように、こっちのプライドをくすぐりながら依頼してくる。上手い人じゃ」


分かる。痛いほど分かる。前世の部長も同じだった。


「村上くんしかいないんだよ」

「この案件は村上くんの調整力がどうしても必要でね」

「信頼してるんだ」


そう言われると、もうダメだ。断れない。「自分しかいない」と言われることの、プレッシャーと、でもほんの少しの快感。それが麻薬みたいにクセになる。桂小五郎という男は、その加減を知ってる。天性の管理者だ。最悪の上司にして、最高の上司。


「でもな」


井上が続ける。


「断れなかったにしても、引き受けたのはお前じゃ。引き受けた以上はやり切る。そうじゃろ」


「……はい。そのつもりです」


「よし。じゃあ歩くぞ。横浜まであと三日じゃ」


立ち上がる。足が痛い。でも歩く。


やり切る。引き受けた以上は。前世と同じだ。中途半端に投げ出すくらいなら、最初から引き受けないほうがいい。引き受けたなら、這ってでも完遂する。それが俺の唯一の誇りだった。仕事の質は平凡。成果も平凡。でも「投げ出さない」ことだけは、誰にも負けなかった。

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