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第2話「桂さん、その笑顔で言うことじゃないです」③

密航まであと三日。夜。自室。荷物の最終確認。


持ち物リスト(半紙に筆書き。字が下手。練習が必要)


着替え(洋装一式は横浜で調達予定。つまりそれまでは和装で移動)


金子(藩から支給された旅費。予算管理は俺。いつの間にか経理も兼任してる。給料変わらないのに役割だけ増える。これも前世と同じ)


久坂先輩の論文(重い。二重の意味で)


蘭和辞書(必需品。スマホがないから単語を調べるのにこれ一冊しかない。文明って偉大だった)


筆記用具(筆と墨と硯。かさばる。ボールペンが欲しい。誰か発明して)


薬(腹痛用。気休め。この時代の薬は気休め。プラセボ効果に期待)


以上。最小限。荷物が少ないほうが、いざという時に身軽だ。いざという時、つまり「追っ手から逃げる時」だ。何のための最小限か考えたくない。


確認を終え、布団に入る。


眠れない。


当然だ。三日後には密航が始まる。命がけの旅。バレたら死罪。バレなくても難破・病気・現地でのトラブル。死のルートは無限にある。RTAで全ルート開放したの? ってくらい死の選択肢が多い。


でも不安を数えたらキリがない。だから数えない。


代わりに、前世のブラック企業時代に身につけた入眠テクニックを使う。「明日やることリスト」を頭の中で作って、上から一つずつチェックマークをつける。全部にチェックが入ると、不思議と安心して眠れる。これは俺の数少ない特技だ。やることが明確なら、不安は「対処可能なタスク」に変わる。対処可能なら怖くない。……ことにしてる。


明日やること:


1. 桂さんへの最終報告。チェック。

2. 井上さんと合流時間の確認。チェック。

3. 残りの三人(山尾、遠藤、野村)との顔合わせ。チェック。

4. 荷物の最終パッキング。チェック。

5. お梅の茶屋に行く。……チェック。


最後の項目で少しだけ手が止まった。なぜわざわざリストに入れたのか。行きたいからだ。それだけだ。行きたいから行く。理由は要らない。理屈じゃない。……ああもう、こういうの考えるのやめよう。寝る。


目を閉じる。


死なない。死なないぞ。駅のホームじゃなく、ちゃんと布団で死ぬんだ。まだまだ先の話だけど。


◇ ◇ ◇


密航まであと一日。最終日。


残りの三人と顔合わせをした。


山尾庸三。二十四歳。真面目。技術者気質。話すと「工学に興味がある」と分かる。声が小さい。もっと小さい。聞き取るのに集中力がいる。


遠藤謹助。二十七歳。温厚。人当たりがいい。笑顔が自然。これは武器だ。人間関係の潤滑油になれるタイプ。直感的に「井上の荒さを受け流せるのはこの人だけだ」と思う。


野村弥吉。十九歳。最年少。おとなしい。でも目がキラキラしてる。「海の向こうを見たい」って顔に書いてある。


五人。年齢も性格もバラバラ。共通点は「長州藩士」であることと「洋学をかじってること」だけ。


つまり、普通のプロジェクトチームだ。メンバーのスキルも性格もバラバラで、「なんでこの五人でやるの?」って最初は思うけど、終わってみれば「この五人だからできた」ってなるタイプのチーム。前世で何度も経験した。たぶん今回もそうなる。そうなってほしい。


桂が五人を前に立つ。短い訓示。


「明日出発する。横浜まで約十日。そこから英国船に乗る。生きて帰ってこい」


いつも笑顔の桂が、今日は笑ってない。つまり本気だ。この人が笑顔をやめる時は、本当に大事なことを言う時だ。覚えておこう。


「伊藤」


「はい」


「道中の取りまとめを頼む。全員を、無事に送り届けろ」


「……了解しました」


また来た。五人の命の責任の一端が俺の肩に。ていうか俺より年上のメンバーもいるのに、なんで最年少の俺が取りまとめなんだ。年功序列じゃないのかこの時代。いや、能力主義なのか。だとしたら余計にプレッシャーだ。


散会後、俺は一人で桂と残る。


「桂さん。一つだけ確認を」


「なんだ」


「万が一、横浜で発覚した場合。全員の逃走先は確保されていますか」


桂が一瞬、目を細める。そして、にやり。この笑い方、久しぶりに見た。前世の部長が「そこまで考えてたか」って顔をする時の笑い方だ。


「お前はいつも最悪のケースを考えるな」


「それが仕事なので」


「ふん。大丈夫だ。横浜に協力者がいる。万が一の時はそこに逃げ込め」


「了解です」


「しかし伊藤。お前は本当に面白い男だな」


「臆病なだけです」


「臆病な男は最悪のケースを想定しない。臆病な男は目を逸らす。お前は最悪を直視して、その上で対策を立てる。それは臆病じゃない。『慎重』と言うんだ」


……うわ、めっちゃ良いこと言われた。


でも素直に喜べない。だって実際は怖いだけだ。失敗が怖い。死が怖い。前世で「怖い」と言えなかったから、準備で不安を潰す癖がついた。それだけだ。「慎重」なんて立派な名前をもらえるようなものじゃない。ただの恐怖の変形だ。


でも弁明はしない。立派な誤解は訂正しない。これが社畜の生存戦略だ。「慎重な男」と思われるほうが「臆病な男」と思われるより百倍マシ。誤解で株が上がるなら、それに乗る。


「……お言葉、ありがたく」


「行ってこい。そして帰って来たら、次の仕事がある」


次の仕事! 英国にも行ってないのに! まだ出発すらしてないのに! 出張前の社員に「戻ったら次これね」って言うスタイル、時代を超えて存在するんだな。人類の業だ。


この人の下で働く限り、俺に安息の日は来ない。それは確定した。


「……はい。帰って参ります」


◇ ◇ ◇


密航前日。夕方。


お梅の茶屋。


最後に一杯。明日から数ヶ月は飲めないこの茶を、最後に一杯。


暖簾をくぐる。夕方の茶屋は他に客がいない。静かだ。


「いらっしゃい。あ、俊輔さん」


お梅が奥から出てくる。手ぬぐいで手を拭きながら。いつもの光景だ。それが妙に沁みる。俺はこの「いつもの」が好きなんだと思う。


「いつもの?」


「いつもので」


座る。茶が出てくる。湯気。苦い香り。いつもの味。


少しの沈黙。お梅は隣の床几に座って、夕焼けを見てる。俺も見る。赤い空。カラスが飛んでる。蝉が少し静かになって、ヒグラシが代わりに鳴き始めてる。


「明日?」


「……うん。明日」


「四ヶ月だっけ。長いね」


「長い」


茶をすする。うまい。いつもと同じ味のはずなのに、「しばらく飲めない」と思うと妙にうまい。前世の最期に飲んだ自販機の缶コーヒーも、なぜかやけにうまかった。人間、最後だと思うと味覚が敏感になるらしい。


「お梅」


「ん」


「俺、帰ってくるから」


言った。自分でも驚いた。「たぶん帰ってくる」じゃなく、「帰ってくる」と言い切った。「できれば」も「運が良ければ」もつけずに。


お梅がこっちを見る。一瞬、きょとんとした顔。それから、ゆっくりと笑う。


「うん。帰っておいで」


「帰ったら、またここで茶を飲む。あと、できれば団子も」


「図々しいなあ」


お梅が呆れ笑いをする。


「いつでも淹れてあげるよ。団子は……まあ、気が向いたら」


「渋いな」


「商売だからね」


夕焼けが暖簾を赤く染めてる。この景色、覚えておこう。数ヶ月後にここに戻る時まで。この夕焼けの色と、この茶の味と、この団子の渋さを。


帰る場所がある。それだけで、人間はちょっとだけ強くなれる。たぶん。


「ごちそうさま」


「はい。俊輔さん」


「ん」


「……元気でね」


「ああ。お梅も」


暖簾をくぐる。外に出る。夕焼けの道を歩く。


背中に視線を感じる。振り返らない。振り返ったら……なんとなく照れくさいから。


◇ ◇ ◇


夜。長屋。最後の夜。


布団に入る。明日の朝は早い。暗いうちに出発する。


目を閉じる。頭の中で明日からの段取りをシミュレーションする。


萩を出る。町人姿に変装。五人だと目立つから二組に分かれる。俺と井上が先行、残り三人が半日遅れで追う。山陽道を東へ。約十日で横浜着。ジャーディン・マセソン商会の手引きで英国商船に乗り込む。出港。


出港したら、もう後戻りできない。


怖い。


怖い。怖い。


でも、もう決まってる。


前世の俺が言う。「決まったことに腹を括る速度だけは速いほうがいい。悩む時間は無駄だ。やると決めたら、あとは段取りだけ考えろ」


段取り。段取り。段取り——。


眠りに落ちる。


最後に思ったこと。


前世は「死ぬこと」が怖くなかった。疲れすぎてて、むしろ「終わるならそれでもいいか」と思ってた。


今は怖い。死が怖い。


それはたぶん、生きたい証拠だ。帰る場所がある。帰りたい場所がある。茶と団子が待ってる。


だから怖い。


でも行く。怖いけど行く。それが俺だ。ずっとそうだった。


◇ ◇ ◇


翌朝。まだ暗い。


目を覚ます。体を起こす。着替える。荷物を確認する。


長屋を出る。戸を閉める。振り返らない。


暗い道。星が見える。空気が冷たい。夏の早朝なのに肌寒い。山陽道を東へ。ひたすら歩く。横浜まで約十日。その先に、海がある。


約束の場所に着く。城下の外れの辻。既に一人の影が待ってた。大柄。腕組みして壁に寄りかかってる。


井上馨。


「遅いぞ、伊藤」


「予定時刻ちょうどですが」


「俺は三十分前に来とる」


この人、集合時間の三十分前に来るタイプか。前世で言う「始業一時間前に出社して新聞読んでる人」の幕末版。面倒だけど、悪い人じゃない。むしろ、こういう人がいるとチームが締まるのも事実だ。


「じゃあ行くか」


「はい。行きましょう」


歩き始める。東へ。横浜へ。そして海を越えて、英国へ。


背後に萩の街。まだ暗い。静かだ。蝉すら寝てる。


歩く。一歩、また一歩。


「……横浜まで何日だっけ。足痛くなりそう」


「弱音を吐くな。まだ一歩も歩いとらんぞ」


「吐いてません。事実を述べただけです」


「吐いとるわ」


井上のツッコミが朝の闇に響いた。

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