〈月の泉〉の出来事を聞いてください
私がその日、なぜに単身、宮殿を遠く離れた泉ヶ森近郊まで遠出したかと申しますと、妖剣〈誰彼〉が沈んでいるという〈月の泉〉と呼ばれる湖を、ひとめ見たかったからなのです。
妖剣の前の所有者は、陛下の弟御、ヴィードラ公爵でした。勇猛な将軍として名を馳せた方で、陛下の御治世での領土拡張は、ひとえにこの方のお手柄と言われております。戦では連戦連勝で、公爵が妖剣を振るうたびに、屍の山が築かれたと聞きます。
公爵の悲劇は、ご自分が妖剣の力により全滅させた、敵国軍の長の妹御を愛してしまったことでした。
紆余曲折の後、その少女は公爵夫人としてむかえられました。
やがて身ごもったのですが、兄の命を奪った公爵をどうしても許せずに……産み月が来る前に夫を毒殺してしまったのです。
彼女は、妖剣の呪いのことを知っていたのでしょう。
鞘ごと持ち出した妖剣を道連れに、身重の体で、〈月の泉〉に身を投げたのです。
我が子が産まれる前に、呪いを断ち切ろうとして。
それでも、妖魔ミレーヌケティを封じた〈誰彼〉が消滅するはずもなく、月の泉は、湖にあるまじき情景を持つこととなりました。
沈められた妖剣を早く引き上げろと言わんばかりに、水面から少しだけ浮遊して、大きく揺らめく炎が見受けられるようになったのです。
宙に浮かぶ炎は、ときおり巨大な火蜥蜴の形にも、美しい女の姿にも変わり、湖に訪れる人々に語りかけました。
『我は妖魔ミレーヌケティ。勇者レオンハルトに封じられし者なり。我が恨み、未来永劫癒えず、とこしえに次なるあるじを所望す」
人とは、弱いものでございます。身重の少女が命を賭して妖剣を沈めましたのに。
『ディングフェルダーの血に繋がる者よ、我が前へ。我の魔力は妖剣に込められ、新しきあるじに多大なる武力と呪いを与えん』
呪われるとわかっていながら、妖剣に選ばれたがる人々は後を絶ちませんでした。
ほんのわずかでも、ディングフェルダー家の縁戚に該当する人は競って月の泉に向かい、新しいあるじになることを望みました。それは相当数に及んだはずですが、なぜかみなさま、妖魔ミレーヌケティのおめがねには適わなかったようです。
私は私で、やはり業を持っております。
魔法使いの道を極めたい者として、最強の火の魔法を操るという古代獣、妖魔ミレーヌケティに無関心でいられましょうか。
ヴィードラ公爵がご存命だった頃、妖剣は肌身離さずお持ちで、とても大切にしてらして、たとえそれが陛下でも他人には触らせませんでしたので、私などがしげしげと拝見することはかないませんでした。
もちろん、ときおり妖剣から分離するという妖魔の姿も、見たことがございません。
せめて一度、妖魔ミレーヌケティに会ってみたい。妖剣が新しいあるじを選ぶ前なら、通りすがりの人間にも話しかけてくれるかも知れないと思い、月の泉へ向かったのです。
ただ私……、方向感覚に少々難ありですので……月の泉にたどり着けず……近くの村の人に尋ねてみるしかないと思いかけていた矢先、ルイーゼさまとレオンハルトさまのお住まいに行き当たったのでした。
月の泉へ向かうという私を、ルイーゼさまはレオンハルトさまに、良い機会です、王妃さまを御案内なさい、そのついでに妖魔に挨拶なさい、おまえがあるじに選ばれないとも限らないわ、と仰いました。
なんでもルイーゼさまは、口を酸っぱくして、ディングフェルダーの血筋を証明するために妖魔に会いに行きなさい、とはっぱをかけていらっしゃったのに、レオンハルトさまは妖剣や妖魔というものを怖がって、月の泉には一度も行ったことがなかったそうなのです。
でもこの時は。
「王妃さまが行くんならぼくも行くー」
と朗らかに仰って、私の手を引いて歩き出したので、ルイーゼさまは薪の山に寄りかかり、それはそれは深いため息をついておられました。
私はくすくす笑いながら、レオンハルトさまに先導いただき、ほんの軽い気持ちで森の最奥へと分け入ったのでございます。
本当に、予想も出来ませんでした。
まさか私の目の前で、レオンハルトさまが妖剣のあるじに選ばれることになろうとは。
うっそうとした緑の枝が重くしなる道を、かき分けかき分け進みますと、いきなり前が開け、あたりが明るくなりました。青空のもと、陽光をはじいて煌めく湖のまわりには、三日月形の花をつけた月光草が群生していました。それが、この湖が月の泉といわれるゆえんであるそうです。
澄み切った水をたたえた湖には、しかし、禍々しい炎がゆらめいておりました。
珍客に気づいた炎は、ふわりと形を変えました。
「ほう。そこな子供。ディングフェルダーの血を引く者か? 待ちかねたぞ」
それが巨大な火蜥蜴だったので、レオンハルトさまは怯えて私にしがみつきました。
「うわー。妖魔だー。火蜥蜴だー。やだよう。こわいよー」
「レオンハルトさま。さあ、胸を張って、ミレーヌケティどのにご挨拶なさるのですよ」
「やだー。もういいよ。帰るー。もう帰るー。王妃さま、帰ろうよう」
「しかたございませんわねぇ。でも、もうしばらくご辛抱下さいまし。私はミレーヌケティどのとお話してみたいのです」
火蜥蜴は、ちょっと毒気を抜かれた風に、私とレオンハルトさまを見比べておりましたが、すぐにまた炎に戻ったかと思うと、今度は見事な肢体を持つ少女の姿に変わりました。
少女は、真っ赤な切れ長の瞳を私に向けました。
「悪いんだけど私、女の人と無駄話する気はないのね」
「さようでございますか。あの、急に、いまどきの村娘さんのような口調におなりに……」
「その子の程度に合わせないと、しょうがないみたいだから。……レオンハルトねぇ。気に食わない名前だわぁ」
レオンハルトさまは目をぱちくりさせて、妖艶な少女を見つめておりましたが、すぐにご機嫌な顔でにっこりなさいました。
「わぁ。お姉さん美人だね。名前なんていうの?」
「……妖魔ミレーヌケティ。ねぇ、あんたお母さんから、全然人の話聞いていない子ね、ってよく言われるでしょう」
「ミレーヌケティかぁ。じゃあ、ミケって呼んでいい? あのね、妖剣て呪われてるっていうし、封印されてるのが火蜥蜴の妖魔だから、なんかやだなぁって思ってたんだけど、美人のお姉さんに変身してくれるんなら、まあいいや」
「まあいいやって何よ! 人の話聞きなさいってば」
「妖剣って、湖の底に沈んでるんだよね。ぼく、泳ぎも潜るのも得意なんだ。取ってくるよ。ありがとね、選んでくれて」
「選んでない。まだ選んでない、っていうか何でいきなりそういう話に。ちょっと待」
なんとレオンハルトさまは、ひとりで納得なさり、とぷんと月の泉に潜られたのです。
呆然としているミレーヌケティどのと並んで、私も月の泉の水面を眺めておりました。
しばらくして、妖剣を抱えたレオンハルトさまの影が見えました。息を切らして湖の岸に上がると、びしょ濡れの顔で、私に微笑んだのです。
「妖剣のあるじに選ばれるのが、ディングフェルダーの血を引いてる証明になるのなら、これで認知は大丈夫なんだよね。ぼく、王妃さまのいる宮殿でくらせるんだよね」
「……なるほど。そういうこと」
ミレーヌケティどのは、ふっと口元を緩められました。
それは、妖魔の残酷さを秘めた表情でございました。
「ねえレオンハルト。あんたはまだ小さいからわかってないんでしょうけど、妖剣〈誰彼〉のあるじはね、必ず愛する女に殺される末路をたどるの。それでもいいの?」
「うん。呪いって、それだけだよね?」
「それだけって、あんたねぇ」
「あいするおんなにころされるのは、おとこのほんかいだって、いつもお母さんが言ってるよ」
「あははは。やっぱりあんた、意味わかってないじゃない」
なぜか、ミレーヌケティどのはとても楽しそうでした。久しぶりに生きのいい獲物を見つけた猛獣のような――そんな風情です。
少女の姿をした妖魔は、どんな貴婦人もかなわぬほどの淑やかな物腰で、レオンハルトさまの足元にひざまずきました。
ミレーヌケティどのの古風な赤い薄衣が、白い月光草の上にふわりと広がります。まるで、あたり一面を血染めにするかのように。
「承知した。王子レオンハルト・フォン・ディングフェルダーよ。御身を妖剣のあるじと定め、御身の命ある限り、我が魔力を御身に捧げん」