始まったばかり
この家では2階にある居住空間に家族以外の者を上げることは滅多に無かった。クラリスの記憶にあるのは業者に水回りの修理を頼んだ時とテーブルを買い替えた時の2回だけしかない。
叔父は躊躇うことなく婚姻届にサインをするとジャンを上へ連れて行くようにと言ってきた。つまりはジャンのことを家族と認めてくれたということなのだろう。
狭いテーブルに隣り合って座ると、クラリスは紅茶のマグカップを二つ並べた。
「……」
「……」
ジャンはマグカップを見つめたまま黙っていた。クラリスも何から話せばいいのかと悩んでいるが、きっとジャンもいろいろなことを考えているのだろう。
「ちょっと急ぎすぎたかな。…反省してる。」
「……反省?」
「ちゃんと伝わってなかったみたいだし。」
「結婚のこと?」
「うん。俺の中ではもう決まってたんだけど。」
「そうなの?でも私婚約しようとも結婚しようとも言われてないよ?」
「そう……だった。」
ジャンは椅子から立ち上がると、クラリスの目の前に跪いてそっとその右手を握った。
「クラリス。俺と結婚して、ザールで一緒に暮らして欲しい。」
「……はい。」
ジャンは嬉しそうに笑うとクラリスの右手に唇をつけた。クラリスは照れながらもじっとその様子を見ていた。トロメリンの騎士が跪いて自分の手に口付けをしている。誰もが夢見たお伽話のワンシーンだ。こんな夢のようなことが今自分の身に起きているなんて……。
「良かった。ありがとう。」
「私、夢を見てるみたい。まだ信じられないわ。」
「まだまだこれからだよ?ザールに行った事ないんだろ?」
「ザールどころか…。この街から外に出たこともないのよ?」
「え?それ、本当に?」
ジャンは床に跪いてクラリスの手を握ったまま驚いて顔を上げた。
「そうよ?だってお店の休みなんて年明けの3日だけだったもの。どこにも遠出はできなかったわ。」
「そんな……。それはかなり衝撃的だな。他には?何でもいいから君の話が聞きたい。」
「……親子関係は良好よ?でも…この街はあまり好きじゃない。」
「にぎやかな商店街なのに?」
「住んでると田舎の村と何も変わらないわ。ちょっとしたことですぐに噂が広まるの。いろんな所に目と耳があるんだから。」
「それは知ってる。だから今日はわざわざこんな格好で来た。トロメリンでの騎士服の威力はまだまだ強いからね。みんな服の中の人間には興味なんてないくせに…。」
「今頃また噂になってると思うよ?食堂の娘に騎士が求婚しに現れたって。」
「その通りだ。それは間違ってない。」
ジャンはやっと床から立ち上がるとクラリスの肩に手を置き、そっと屈みこんだ。ジャンの顔が近付いて来るのを感じたクラリスが目を閉じようとしたその時、階段を上って来る足音が部屋に響いた。
ジャンはハッとしてクラリスから身を離すと、椅子に滑り込むように座り目の前にあるマグカップに手を伸ばした。
「まるでどこかで見られてたみたいなタイミングだな…。」
「ジャンったら!」
クラリスが可笑しそうに笑うのと叔父が部屋の扉を開けて入ってくるのがほぼ同時だった。
「あら、無事に話がついたみたいね?」
叔母は珍しい事に店から料理を持って上がって来たようで、ジャンの目の前にその大皿を並べた。大皿には店で出すフライや肉団子などがこれでもかと盛られている。
「クラリス、お皿をお願い。」
「でも、まだ話はこれから……。」
クラリスがどうしようかと迷っていると、叔父は黙ったまま戸棚から酒瓶を取り出し、ジャンの目の前にグラスを差し出した。
「クラリス、早く皿。何よりもまずは食事が先だ。」
「お父さん……」
クラリスが4人分の皿を用意して戻ると、叔父は今度はクラリスに向かってグラスを差し出して来た。
「何?私も?」
「ほら、お前も18なんだから少しくらいいいだろう?」
「でも…」
おずおずと受け取ったグラスを差し出すと叔父がほんの少しだけそこにワインを注ぎ入れ、クラリスの頭にポンと手をのせた。
「18か…大きくなったな、お前も。おめでとう、クラリス。」
「お父さん…。」
「ほら、みんな座って!スープもあるわよ!あらやだグラスが一つないじゃない?」
「あ、私取って来る!店から持って上がる?」
「いいからあんたは座ってなさい!お祝いなんだからね?私が行くよ。」
「お祝いって……」
「あの!」
ジャンが騒がしい声を遮るように大きな声を出すと、いきなり椅子から立ち上がった。
「まずは私からきちんと言わせてください。クラリスさんと結婚をしてザールに住みたいと思っています。お父さん、私にクラリスさんをください。」
「よし!許可する!どこにでも連れて行け!さぁ座れ!」
「アンタ…」
「……」
「何だ?婚姻届に俺はもうサインしたんだからな?今更だろう?二人で話し合って決めたならそれでいいじゃないか。」
「はい。必ず娘さんを大切にすると誓います。」
「よし!さあ、もう一杯飲め。酒は飲めるんだよな?ところでジャンって言ったか?アンタ見たところまだ若そうだが、一体いくつになる?」
「20歳です…。」
クラリスと叔母夫婦の動きが一斉に止まった。
「20歳?あんなにおじさんと酒を飲んでたのに?」
「20歳で騎士爵持ってるなんて……。」
「騎士爵?クラリス!どういうことだ?騎士爵とは!」
「それにはいろいろと複雑な事情が……。」
「そうか。どうやら我々にはまだ話し合いが必要みたいだな。まぁいい。夜はまだ始まったばかりだ。さぁ飲め!」
「始まったばかり…確かに。」
ジャンはクラリスの方を見ると、机の下で手をそっと重ねた。
「ずっと話をしたいと思ってたけど……やっとだ。」
「うん、まだ知らないことばかりで……何もかもこれからだもんね。」
「始まったばかりだ。」
クラリスはジャンの少し硬い手をぎゅっと握り返すと、グラスのワインを一気に飲み干した。




