未来を臨む少女たち ―「私」になる少女―（改稿前）

第十三章 「あたしとマリア」

　太陽が、東の空の真ん中まで昇った頃、デュラハンはアヴニール大聖堂に到着した。

　ロープウェーの頂上駅から目の前にそびえ立つ大聖堂を見上げる。雲の切れ間から差し込む十数本の光の柱が、大聖堂のおごそかさを強調していた。正面に見える中央塔を頂上とする峻険で優美な大聖堂。レンヌ・ル・シャトーの街並みと同じ白い外壁に、日の光が反射し、さらに白く輝いている。

　デュラハンとって見慣れた景色のはずだった。しかし、今は別の景色に見える。それは、キリアとの対話があったからだろう。

　キリアとの語らいを失った。失って初めて大切さがわかった。ふとした瞬間に、心から彼女がいなくなった穴の輪郭が強調され、刺すような寂しさに襲われる。

　その代わりに、キリアを聖杯の奥底に追いやることができた。当分の間、聖杯がひとつになる。そして、自分の目標も明確になった。

　デュラハンが大聖堂まで戻ってきたのは、それらをマリアに報告するためだった。大聖堂に向かう足取りは軽快だった。キリアと語り合って、変わったことを聴いてもらいたい。その相手はマリア以外にいなかった。

　マリアに褒められるだろうか。評価されるだろうか。昔は、その程度のこと、と疎まれるのが怖くて、自分の成果をアピールすることができなかった。しかし、今は昨日のことをいかに伝えるかで、頭がいっぱいだった。

　大聖堂に到着し、中に入ったデュラハンは、まっすぐにマリアのところに向かう。この時間は祭壇の奥にある小さな礼拝堂で、「〝アイドル〟」への祈りを捧げている。

　〝アイドル〟とは、我々の組織が神と崇める存在のことだ。〝アイドル〟はイドラの大釜の奥底に隠れていて、マリアだけは直接出会ったことがあるという噂だった。大聖堂の祭壇はもちろん、礼拝堂にも〝アイドル〟をかたどった偶像が鎮座しており、数人がいっしょに祈りを捧げることができる。

　誰もいない大聖堂は、とても広く、底冷えした。しんと静まりかえっており、足音が響く。天井の採光窓からは光の柱が降りてきていた。空中のほこりが日の光を反射してきらきらと光っている。

　大聖堂の中を早足で移動し、最奥にある礼拝堂の前までやってきた。上がった息と、はやる心を整えて、扉に手をかける。マリアの祈りを邪魔しないように、力を入れてゆっくりと扉を開け、素早く中に入る。マリアの祈りは中断することなく続いていた。

　デュラハンは、扉に一番近い長いすに腰かける。

　礼拝堂は、正面のすべてが窓だった。日の光が部屋全体に降り注ぐ。ぽかぽかと暖かく、とても心地よかった。

　静寂の中、〝アイドル〟像に向かって、マリアが祈りを捧げている。像の前にひざまずき、頭を垂れ、胸元で両手を組み合わせ、熱心に祈っている。

　マリアが祈るのは、ノヴム・オルガヌムの目標達成だ。それは、マリア自身の願いの成就でもある。微動だにせず集中している様子からは、その祈りの真摯さと切実さが伝わってくる。

　今のあたしなら「自分のために、キリアのために、今度こそ必ずリンを倒すこと」を祈る。生まれてからずっと、祈ったことがなかった。しかし、目の前のマリアから伝わってくる雰囲気が今の自分に重なった。

　デュラハンは長いすに座ったまま、目をつむり、両手を組んで、心の中で静かに、熱く、祈りを表現する。その声なき言葉は、心の奥にすうっとしみわたっていく。それは、心の奥底に閉じ込めたキリアにメッセージを伝えているようだった。

　はっと目を開く。たしかに、あたしの祈りは、キリアにも関係している。この祈りは、彼女に宣言していることと同じなのかもしれない。改めて目を閉じ、キリアに届くように、自分の祈りを無心に強く宣言する。

　心の中で言葉を言い終えたあと、目をゆっくり開く。礼拝堂の最奥にいるマリアと〝アイドル〟像の存在感が増していた。見かけ以上に大きく見える。

　デュラハンは、心の中のキリアともっと真摯に向き合いたくなった。

　デュラハンはいすを立ち、礼拝堂の最前列の長いすに移る。マリアの近くで祈りを捧げた。マリアの祈りの深さに引っ張られるように、自分の祈りも深くなっていった。

　デュラハンは、自分の祈りを終え、顔を上げる。どれだけ祈っていたのかわからないほど集中していた。心も、からだもすっきりして、無駄なものがそぎ落とされた気分だった。

　左から、ふわっと香水の匂いが漂ってくる。嗅いだことのない、いぶされた甘い香り。

　左を向くと、マリアが隣に座っていた。思わず「えっ！」と驚きの声を上げる。

　マリアは茶目っ気のある表情で、口に人差し指をあて、大声を上げたデュラハンを無言でたしなめた。マリアが尋ねる。

「何を祈っていたの？」

「あ、あたしの目標達成を……」

　マリアの驚きと微笑みを混ぜ合わせたような表情。デュラハンが初めて見る表情だ。

「私にもあなたの目標を聴かせて？」

　マリアがこれほど近くにいることも生まれて初めてだった。

　これ以上ないほど話しやすい雰囲気。デュラハンは、今しかないと思った。マリアに向き合い、顔をじっと見つめる。うなずいて「あたしの話を聴いてください」と切り出した。

「ええ、しっかりとあなたの話を聴くわ。安心して」

　マリアは大きくうなずき、からだを乗り出した。

　その様子に、話す勇気をもらったデュラハンは、キリアとの対話について話し始める。

「先ほど、聖杯の中でキリアと対話しました。少し前に、あたしの不調の原因は、彼女の不規則な目覚めだとわかったんです。彼女の目覚めを制御するため、彼女のことを深く知りたいと思いました。それで、話を聴いていると、いろんなことを話すことになって……」

　デュラハンは何をどのように話せばよいかわからなくなっていた。マリアに伝えることができる高揚と、伝わらなかったらどうしようという不安で、しどろもどろになる。

「キリアは、リンのことばかり見ているんです！　あたしのことを見ていないんです。それで、なんかいらいらしてしまって……。そのことで、あたしは、キリアのことをすごく大事に思っていることに気づきました。できるなら、ずっと彼女と語り合っていたい。でも……それじゃ駄目なんです。あたしも彼女も今を変えたいんです！　彼女の目標は、リンを倒すことでした。そして、あたしもリンを倒したいと思っています。だから、キリアに一時的に眠ってもらい、その間に、彼女の代わりに目標を達成することにしました。今度こそキャメロットを、リンを倒します。そして、キリアともう一度対話がしたい。それがあたしの目標です」

　マリアは真剣なまなざしで、口を挟まず、静かにデュラハンの話を聴いていた。

　ちゃんと受け止めてほしい。ちゃんと受け容れてほしい。

　そして、ちゃんと評価してほしい。

　デュラハンはぎゅっと目をつむり、審判を待った。

　受け容れてもらえないのかな……。

　――受け容れてもらえなかったら、今の言葉はなかったことにするの？

　そんなことない。マリアに何と言われようと、自分にできたこと、自分がこれからやりたいことは変わらない。大丈夫。何とかなる。

　突然、さっきの甘い香りに包まれた。次の瞬間、柔らかくて温かな感触をからだ中に感じる。耳の近くで衣擦れの音がした。礼拝堂の寒さで冷え切ったからだがじんわり溶けていくようだった。

　デュラハンはゆっくりと目を開ける。

　マリアの胸の中に抱かれていた。彼女の両手が、頭と背中を撫でる。指先の冷たさと手のひらの温かさがとても心地よかった。

「大丈夫です。ちゃんと、伝わっていますよ」

　マリアの声が、全身から伝わってくる。

「デュラハン、おつかれさまでした。あなたは自分の生き方を自分で選択し、決断したのです。とてもすばらしいことです。あなたのことを祝福します」

　マリアの抱く力が少し強くなる。

「大変だったでしょう？　今は少し休むといいわ」

　マリアから拒絶されなかった。

　デュラハンは恐るおそるマリアの背中に手を回す。そしてゆっくりと力を入れて、マリアにしがみつくように抱きしめる。

　心の底から安心した。これまでのマリアへの畏れや疑心が体温で溶けていくようだった。

　からだや手足がこれまでにないほど弛緩し、力が入らない。手足が小刻みにふるえて、まるで自分のものではないようだった。はあぁ、と大きく息を吐き、胸いっぱいに空気を吸い込む。マリアの甘い匂いがデュラハンの全身に染みわたる。その感覚は、マリアに受け容れられた実感をより大きくしてくれた。

　そして、心も弛緩を始める。じわじわゆるむ心が撫でられ、くすぐられる。

　優しくて大きなものに抱きつき、包まれている。まどろみながら、たゆたう感覚に身を任せていると、涙があふれてきた。むせぶことなく、ただただ涙が流れ落ちる。何かを洗い流すようにとめどなく。

　とてもすがすがしかった。

　マリアに受け容れられ、愛情を独占できたことに達成感とやりがいを強く感じていた。それだけでいいはずなのに。なぜ、涙が流れるのだろう。胸に感じる温かさとともにあるのは、うれしさや、やすらぎだった。この涙と感情は、自分のものなのだろうか？

　そのとき、涙に濡れた声が聞こえてきた。

　――母親に優しく抱かれるている……

　――受け容れられるって、こんなにも解放されるものだったのね

　――もっと前にこんなのが欲しかった……

　そうだね……。

　ああ、キリアと対話して良かった。自分のことを決断できて良かった。

　あたしは、この場所があれば、どこまでもがんばることができる。聖杯を満たすことができた。あとは進むだけ。足りなくなったら、また、ここに戻ってくればいい。

　マリアの胸の中で、泣きながら、何度も「ありがとう」と繰り返す。

　彼女の心に直接届けるつもりで、リンを必ず打ち倒すことを誓った。

　礼拝堂の中が再び静寂に包まれる。

　デュラハンはマリアの胸から顔を上げた。まぶたをこすり、涙をはらう。

「取り乱してしまいました。ごめんなさい」

「いいのよ」

　マリアは優しく応えてくれた。そして、デュラハンに語り掛ける。

「目標が決まったのなら、それをどうやって達成させるかを考えましょう」

　デュラハンは涙に濡れたままの顔を上げる。大きくうなずく。

　あたしはこの時間が欲しかったんだ。

「リンを打ち倒したときって、どんな状況なの？　そのイメージはあなたの中にある？」

「……あたしのイメージは、正々堂々とした勝利です。全力全開のキャメロットの四人と戦い、それで勝つことです」

「もっと私に教えて。あなたの中のイメージを言葉にして」

　デュラハンは、少しずつ自分の心を言葉に変えていく。自分とキャメロット以外の邪魔が入らないこと、イドラの大釜が見える場所を、戦いの舞台にしたいこと……。

　マリアは、デュラハンの言葉一つひとつに大きくうなずきながら、デュラハンの目標達成のために、プロデュース方針や具体的な行動の案を挙げる。

　デュラハンは、マリアとともに、自分の未来を形作っていると実感していた。

　この瞬間をかみしめることができる。それは、最上の幸せだった。