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第十一章 「わたしとあの人たち」

「あの人がミレナ先生なの?」

 デュラハンも、書割の世界を体験してきたようだった。

「うん。わたしの大事な先生」

「そうか。キリアの『大事』という言葉の意味がよくわかった」

「ありがとう。デュラハン」

 先生のことをわかってもらえて、うれしかった。デュラハンとの対話がさらに安全な場所となった。これなら、「あの人たち」について話すことができるかもしれない。

 デュラハンが改まって、話を始める。

「さっきのミレナ先生との別れのエピソードを体験して、確認したいことができたんだ」

 キリアは覚悟した。デュラハンの目を見つめて、うなずく。

「なに、かな……」

「キリアは、親との関係があまり良くなかったの? ミレナ先生が別れのときに語っていたのは、キリアと親との関係のことを話していたのではないか? それに、この対話の中で、キリアの言葉で表現される家族のことは、あまり良い印象ではないのが気になっていたんだ」

「親」という言葉を聞いた瞬間、冷たい鉄の棒で背中を撫でられたように身がすくむ。

「うん……」

 消え入るような声で肯定する。

「わたしは、あの人たちのことを『家族』と思えないんだ」

 言ってしまった。もう元には戻せない。デュラハンは、どこか感情を抑えている感じがした。キリアは、慌てるように続きを語る。

「『あの人たち』っていうのは、わたしの両親と二人の兄、そして家で雇っていた使用人のこと。……変でしょ? 『あの人たち』なんて。でも、わたしには、それが普通なんだ」

 デュラハンは、まっすぐにキリアを見る。

「大丈夫。キリアのこと、疑ってないよ」

 キリアは、デュラハンの視線に勇気をもらう。つぐみかけた口が開いた。

「先生は出会ったときから、わたしとあの人たちの関係をわかっていたみたい。たぶん、今みたいに、わたしの話し方でわかったんじゃないかな」

「だから、別れのときに、キリアにあのようなメッセージを送った」

「たぶん、そう」

 デュラハンがキリアに優しく語り掛ける。

「おまえと、あの人たちとの関係がどんなものだったのか、聴かせてくれないか?」

 キリアは、デュラハンが「あの人たち」と表現したことがうれしかった。その気持ちに背中を押され、あの人たちとのことを話そうとする。しかし、言葉が出てこない。

 思い出そうとすると、頭の奥で蛇が這うような気色の悪い感じがする。その感じが後を引いて、言葉がまとまらない。胸に鈍い疼痛を感じる。すごく気持ちが悪い……。


 長い沈黙となっていた。

 デュラハンは、キリアを急かさなかった。ただ一言だけ「話しても、はなさなくてもいいよ。あたしと、キリアはこれからもいっしょだから」と言い、うつむいて待っている。

 キリアは決心した。

「……話すよ」

「うん。どんな言葉でも、ちゃんと受け止める。おまえの辛さをあたしに預ければいい」

 デュラハンは姿勢を正して、キリアに向き合う。

 キリアの瞳に涙がにじむ。胸のうずきや頭の重さが軽くなった。これなら話せそうだ。

「あの人たちのことを『家族』と思えない。そう思い始めたのは、きっとあのときだ」


 脳裏に、あの日の光景がちらつく。書割も、それに連動して絵が瞬間的に切り替わる。

 次兄を侮蔑する父親。嘲り笑う長兄。父親に殴りかかる次兄。顔をそむける無関心な母親。そして、無表情な使用人。

 ああ、この光景が、わたしが観た最後の「家族」だった……。

 続けて、書割が一枚の集合写真を映した。

 わたしを含めた五人が写っている。たいしたつながりを感じられない五人だった。

「これは、わたしが六歳の頃に撮った家族写真。わたしは一番左に写っている」

 服に付いた食べこぼしを説明するような恥ずかしさだ。

「中央右に不遜な態度でいすに座っているのが、父親だ。確か六十歳ぐらいで、国会議員だった。感情を切り離した効率的で無慈悲な決断ができる人だった。強い権力で人を従わせ、他人に意思があると思っていない、最低な老人だ」

 隣の人物に目を移す。

「中央左で必死に余所行きの顔を作っている女性が、母親だ。歳は、四十代前半。中央省庁の官僚で、女傑と呼ばれるのにふさわしい人だった。他人に対して、自分と同じように有能で、理想を持っていることを強要し、そうでない人は怜悧に切り捨てる悪魔だ」

 これほど、たんたんと話すことができていることに安心していた。

「中央で両親の肩に手をのせているのが、長兄。当時は十六歳の高校生。父親に議員になることを命じられていた。すべてにおいて中の上という成績で、秀でたものを持っていない。自分の価値観さえも両親にゆだねていて、それが当然だと思い込んでいる変人だ」

 もっと吐き気をもよおすかと思っていた。

「一番右でふくれた顔で立っているのが、次兄。当時は十三歳の中学生。この頃から両親に反抗を始め、非行に走り、警察のお世話になっていた。遠目から見ると、とても怖かった。しかし、それは強がりだったのだと思う。とても臆病な人だった」

 少し強くなれたのかもしれない。

「この写真を撮ったのが、家の維持を任された使用人。女性で二十代前半。家の中の全ての家事を担当していた。要人警護の訓練も受けていて、有事のときは、母とわたしを優先的に守るように契約されていた。仕事に忠実で、言われたことはきっちり守る堅物だった」

 キリアが、ふうと息をつく。そして、再び語り始める。

「この写真を撮った五年後、わたしの中で、『家族』が終わったんだ」

 書割からあふれ出す光が再び強くなり、キリアとデュラハンを吸い込んでいった……。


 *

 珍しく両親が家で夕食を食べることになった。いつもと少し違う一日の終わり。夕食を、わたしと両親、長兄がそろって食べ終わる。そのあとのお茶の時間だった。

 ダイニングに次兄がやってきた。

 彼がダイニングに顔を出すことは、ほとんどない。

 わたしは、珍しいなと思っていた。

 彼は思い詰めた表情でダイニングにいる家族を見回す。そして、改めて決断したかのように力を込めて、全員に向かって「話がある」と切り出した。

 しかし、家族の信用を失くしていた彼の言葉は、誰の心にも受け止められずに、ダイニングの壁に染みていく。

 次兄は、父親と長兄の目の前に座る。

 父親は、彼を無視するように視界から外し、長兄は、彼に刺すような視線を送っていた。

 そんな二人に構わず、彼は話し始めた。

「俺は警察で働く。これまで世話になった恩を返したいんだ。そして、誰かを守れるようになりたい。だから、俺はこの家を出ていく! あんたが用意したキャリアは、いらない」

 次兄は一度に言い終え、それぞれの家族の反応を見る。

 両親は、本当に興味がない様子で彼の言葉を聞き流しているようだった。長兄は、歯を食いしばりながら、彼を力強くにらんでいる。こみ上げる怒りを抑えているようだった。使用人は、何食わぬ顔で夕食の片づけを続けていた。

 ダイニングは、次兄の言葉などなかったように、皿やグラス、フォークやナイフのこすれる音がひびいている。

 キリアは、彼の突然の告白に驚き、戸惑っていた。

 家を出ていく……、そんなことをしてもいいの? そもそも、お父様とお母様に、あんなふうに主張してもいいの? それになんで、みんな何も言わないの?

 今何が起こっているのか把握できていなかった。事態はさらに深刻になっていく。

 長兄の抑えていた怒りが爆発したようだ。

「おまえは、最後まで、好き勝手なんだなぁ! そんな生き方が、許されると思ってんのか! この家の人間として生まれた責任を全うしろよ!」

 次兄が反論する。

「この家の人間として生まれた責任って何だよ? 何すりゃいいんだよ!」

「父さんと母さんの志を継ぐことだ! おまえは、なんでこんなこともわかってないんだ」

「なんだよ、それ! 兄貴の方がおかしいんだよ。変なんだよ。気持ちわるいんだよ!」

「やめろ」

 父親が、長兄と次兄の口論を止める。

 二人の兄は黙り、父親の方を見る。次兄は、父親に挑むように目を据える。

「なぜ、わざわざ私たちに報告に来た?」

 次兄は、いぶかしく思いながら、答える。

「それは……、ここまで育ててもらった恩があるからだよ」

 父親は初めて次兄の方を見る。疑うように、じっと見つめていた。

「本当にそんなことを思っているのか?」

「ああ、そうだよ!」

 父親は、言葉のわからない汚い生き物を見るようなさげすんだ表情となる。

「野蛮なけだものでも、一人前のような礼を口にすることができるんだなぁ! そんなことは考えなくていい! おまえは生まれも、育ちも、生き方も、けだものと同じだからな」

 キリアは、父親が誰に向かって、何を言っているのか、理解できなかった。それぐらい場違いな言葉だと思った。

 父親が、その場違いな言葉を続ける。

「私とだけは血がつながっているが、母親の血が劣っているんだろう。ふぅん……、よく見ると、母親によく似ているよ、おまえは」

 次兄の顔が青ざめていく。それに構わず、言葉の暴力がふりそそぐ。

「おまえは、私の言うことをまったく聞かなかった。逆に、私は、おまえの言うことがまったくわからなかった。十八年間続けたが、こんなに言うことの聞かない人間は初めてだよ。野良犬の方がよっぽどましなんじゃないか?」

 次兄の顔が真っ青になっていた。涙目になって、からだが、がくがくふるえている。怒っているのか、悲しんでいるのか。テーブルの反対側にいるキリアにはわからなかった。

 キリアは、次兄と本当の意味で兄弟ではないことを初めて知った。それは、長兄もそうだったらしい。ようやく理解できたというようなすっきりした表情をしていた。

 長兄は静かに笑い始める。

「なぁんだ、そうか。そういうことか。僕とおまえは、流れている血が違うのか。おまえの方が不完全だったんだ。良かったぁ。安心したよ。おまえが、弟ではなかったことに!」

 長兄が次兄に詰め寄り、罵声を浴びせる。真っ青だった次兄の顔は、今や真っ赤になっていた。父親から目を離さず、わなわなとからだを震わせて、こぶしをにぎり締めている。

 ぎぃっ、がたん!

 次兄が急にいすから立ち上がる。その拍子にいすが派手な音を立てて床に倒れた。

 あまりに大きな音だったので、キリアは驚き、からだがすくむ。

 彼は近くにいた長兄を突き飛ばし、言葉にならない声を上げて、テーブルの反対側にいる父親に駆け寄る。父親を見下ろす場所に立った直後、彼は父親の顔面を思いきり殴った。殴られた勢いそのままに父親は床に倒れる。彼は逃すまいと、父親に覆いかぶさった。

 キリアは、次兄の顔を目撃した。起こりながら泣いている。複雑で悲しい表情だった。それはとても苦しそうだった。

 次兄が父親に馬乗りになって顔面を殴り続ける。

 母親が悲鳴を上げる。使用人が、母親をかばう。

 キリアは目の前で起こっている事態についていけなかった。怖いと思うことができず、いすに座ったまま、ただただ茫然と次兄がふるう暴力を見続けていた。

 父親が、顔面をかばいながら、次兄を罵る。人を傷つける言葉が、弱弱しく発せられる。次兄がわめきちらしながら殴っているため、父親の言葉はほとんど聞こえない。

 ここは一体どこなんだろう。

 キリアは自分のいる場所がさっきまでとは違う場所なのではないかと感じていた。日常から非日常へ突き落され、くらくらする。

 長兄が次兄の後ろに立っていた。手には、次兄が倒したいすの脚をにぎっている。遠心力をのせて、父親に馬乗りになっている次兄の背中を、いすの背で強打した。

 次兄は苦悶の声上げて、床にうずくまる。

 この隙に父親は床を這い、母親と使用人の傍に逃げていた。母親は、一瞬だけ嫌悪の表情を見せるが、次の瞬間には夫を心配する顔になっていた。

 長兄が、床にうずくまった次兄に馬乗りになり、次兄の顔面を殴る。大事な仕事に集中するように、静かな情熱を持って、懸命に殴っている。次兄の抵抗する声が、やがて聞こえなくなった。代わりに、水浸しの布袋を壁にぶつけるような不快な音と、父親が長兄をあおる下卑た声が部屋中に響く。母親は、見たくもない格闘技の試合に来てしまったように顔を背ける。使用人は、お面が張り付いたような無表情で状況を見守っていた。

 キリアは、目の前で大変なことが起こっていると、ようやく理解し始めた。次兄が部屋に入ったときに口に運ぼうとしていたティーカップは、皿の上に落ちていた。カップは割れ、テーブルクロスに琥珀色の染みがある。

 これ以上、何も見たくなかった。

 これ以上、何も聞きたくなかった。

 これ以上、嫌な思いを感じたくなかった。

 頭がぐらぐらして、意識がはっきりしない。

 頭が重い。ふっ、と意識が途切れる。キリアは、頭を支えられず、いすに座ったまま、頭をテーブルにぶつける。テーブルの上の食器が、がしゃんと音を立てるのを聞いた。

 頭をぶつけた痛み。テーブルクロスに染みたお茶の温かさ。

 それ以降のことは、もう覚えていなかった。


 *

 書割の光が引いていく。キリアとデュラハンは、書割の世界から戻ってきた。

「今見た光景が、わたしの『家族』の最後だった」

「あたしはイドラだから、家族がどんなものかを本当には理解していない。でも、知識としては持っている。それと比較すると、あまりにも違いすぎだ」

 キリアは、一筋の涙をこぼす。デュラハンが続けて質問する。

「その涙は、どんな涙なんだ?」

「どんな……」

「次兄が家族全員からはじき出されようとしていることに対する悲しみの涙なのか?」

「……次兄に対する悲しみじゃない」

「そうか」

 キリアは、どんな……とつぶやきながら考える。そして、ある考えに至り、はっとした。その考えは、とても悲しかった。

「もしかしたら、失望の涙かもしれない。これまで一緒に暮らしていた家族の本当の姿を知ってしまったという……。家族って、ドラマで観たり、漫画や本で読んだりするような温かいものだと思っていた。でも、本当は違った。本当は冷たくて、孤独だったんだ」

「自分の家族も温かいものだと思ったのに、裏切られてしまった……」

「そうだね。あのときから、物語に出てくる家族の描写に感情移入できなくなったわ。それに、友達の家族が幸せそうに笑いあう様子を見ても、素直に受け取ることができなかったの。どうせ、違うんでしょって」

 デュラハンは、言葉を挟まず、揺らがずにキリアの言葉を聴いている。

 キリアは、話しているうちに感情が高ぶってきた。

「しょうがないよね? だって、わたしには、みんなが言う「普通の家族」なんて、なかったから! そして、これからも得ることはできない! だって! 家族という存在を信じることができないんだもの……」

 キリアは、悲しいのか怒っているのか、自分でもわからなかった。

 こんな感情は初めてだった。どうやって心に納めればいいのか、わからない。

「苦しいね……」

「うん」

「もう少し話してみないか? そうしたら、自然に整理できるかもしれない。忘れることができるかもしれない。苦しみが小さくなるかもしれない。このまま何もせずに苦しみ続けるよりはましかもしれないよ」

 キリアは、うなずき、先ほど鑑賞していた書割のエピソードの続きを語り始める。

「わたしが意識を取り戻したのは、翌朝、自分のベッドの上だった。使用人から昨日の顛末を聞いたの。次兄はからだ中ぼろぼろだったけど、命に別状はなく、使用人が応急処置をして、未使用の物置に閉じ込めたらしかった」

 当時の苦々しい思いを再体験しながら続けた。

「他の人たちは、いつものように自分の仕事や大学に行ったと聞かされた。あんなことがあったのに、どうしてって思ったわ。でも、昨日見た光景を思い出すと納得できてしまった。そして、納得できたわたしも変わってしまったのかもしれない。家の中の光景を冷めた目で見ている。赤の他人として、あの人たちと関わる感覚だった」

「キリアは、家族に対して違和感を覚え始めた、ということ?」

 キリアは静かにうなずいた。

「その違和感は、傷の治りきらない次兄が家を出奔したとき、はっきりと自覚したの」

「何があったんだ?」

「あの人たちは次兄の捜索をしなかった。長兄が『ようやく出ていったか』とわたしの前で隠しもせずに言ったのを聞いてしまった……」

 当時を思い出して寒気を感じる。

「長兄とは、歳が離れていて、生活のリズムが合わなかったから、会話することはほとんどなかった。でも、あいさつや受け答えは問題なくできていたんだ。でも、その言葉を聞いたときから、長兄と話すのが怖くなっちゃって……」

「怖くなった……」

「長兄が目の前にいると、背筋が寒くなって、腕がふるえるようになった。このふるえを見られたら、長兄の機嫌が悪くなる。そうなったら、次兄のように殴られるかもしれない。今は笑顔だけど、そのお面がはがれ落ちて、次兄を懸命に殴っていたときの表情に変わるんじゃないかって。そう思うと、あいさつや返事をするのが、とても怖くなったの」

 なぜか、次兄が殴られていたときの音が聞こえてくる。ぐちゃっ、ぐちゃっ。粘るようなくぐもった音。キリアはその音を聞かないように、自分の話に集中する。

「それに次兄からの手紙も、わたしの家族に対する違和感を増幅させた」

「手紙? キリア宛に届いたのか?」

「次兄の出奔から数か月後、わたしに直接手紙が届いたの。学校のかばんの中にいつの間にか入っていたわ。手紙には、血縁について黙っていたこと、暴力的な場面を見せてしまったことを謝罪すると書かれていた。そして最後に、『キリアもそこに違和感を覚えているんだろう? 何かおかしいと思ったら、いつでも逃げなさい』と記されていたわ」

「次兄は、キリアが家族に違和感を抱いていることをわかっていた……」

「わたしの違和感があの人たちにばれているかもしれない。そう思うとパニックになったわ。ばれるのも時間の問題。ばれたら、この手紙の相手のように排除される。わたしは、手紙をびりびりと細切れに破いて、学校のトイレに流してしまった」

 渦巻きながら流れていく細かい紙片を何度も何度も、すべてが吸い込まれていくまで水洗のボタンを押し続けてことを思い出した。

「そのときから、あの人たちに『違和感』がばれないようにすることに必死になった。表情、態度、言葉。すべてに気を張って、あの人たちと接する。生き残るためにはしょうがなかった。そして、それは隠そうとすればするほど、大きくなった」

「家にいる間、ずっと気を張るなんて、大丈夫だったのか?」

「そういう力配分は上手くできたよ。まず、あの人たちと会話をしないことにしたんだ。長く話せば話すほど、ぼろが出るから……。最低限のあいさつやうなずき、応答だけで済ませるようにした」

 キリアは、自嘲の笑いをもらして、デュラハンに告白する。

「でも、そうしているうちに、あの人たちに対して、話すことができなくなってしまった。自分から何かを話すこと、長く会話することも嫌になって」

「そんなことに……」

「生き残る力の代償、なのかも」

 デュラハンが悲痛な表情をしている。わたしは、何でもないこととして話しているけど、これはそんなに悲しいことだったのかな……。

 話したくない気持ちや話せなくなったことがばれないように、自分をよそおうことに必死だった。張り付けた微笑。「いいえ」と言わないこと。怖くないふりをすること。

 今思うと窮屈だった。しかし、そうしないと生きていけない。本当にそう思っていた。緊張を解けば、隙をねらわれて、からだと心を傷つけられると思っていた。

「他にもキリアの生き残るための力はあったのか?」

「あの人たちと話す時間を少なくするために、いろんな習い事や勉強に集中した。その時間は話さなくて済むし、言いつけ通りにしていれば怒られる理由も、殴られる理由もない。絶好の居場所だった」

「ミレナ先生だけではなかったんだな」

「そう。学校の勉強、マナー、料理、水泳、陸上、テニス、ゴルフ、音楽。たくさんの経験をした。わたしは器用だったみたいで、やればやるほどいろんなことができるようになった。これは良かったことだね」

「悪かったこともあったのか?」

 デュラハンが当然のことのように訊いてくる。

 キリアは気持ちが落ち込むのを感じながら、答える。

「それは、習い事や勉強で良い成績を得ることができたときに苦しい思いをすることだね。がんばって良い成績を得たとき、家の中の息苦しさを忘れるほどうれしかった。でも、すぐにうれしさよりもつらさの方が強くなった」

「つらくなった……。なぜ、つらくなるんだ?」

「ほめてもらいたくなるから」

 そう言って、キリアは目を伏せる。デュラハンを見ずに先を話した。

「すべての習い事や勉強は両親の言いつけで行っていた。だから、言いつけ通りにちゃんとやったことや良い成績を収めたことをほめてもらうのは当然だと思っていたけど、ほめられたことは一度もなかったの」

 キリアは話しながら、ふつふつと怒りがわいてくるのを感じていた。

「逆に、成績が悪くて怒られたこともなかった。成績が悪かったときは、使用人からその習い事や勉強の復習が課されて、良い成績を収めるまで開放されなかった」

「どうして、そんなことに……」

「わからないよ。ほめられも怒られもしない代わりに、次の課題だけはしっかりと欠かさずに伝えられて。この状況に納得できない理不尽さと、あの人たちに、わたしの違和感がばれてしまったのかもしれないという恐怖を感じていた」

 キリアはため息をつく。

「そんな状態がずっと続いていたから、だんだん習い事や勉強でよい成績を得たとしても、『ただ目の前を通り過ぎるもの』くらいにしか思わないことにした。そうすると、やりがいやおもしろさをまったく感じなくなった。ただ、あの人たちから逃げるための時間を提供してもらえるもの、としか思えなくなった」

「まるで、あの人たちがキリアのことを何の感情もなく、きれいに磨いているみたいだ」

 デュラハンの言葉が、キリアのいくつかの思い出をつなげていく。

「その言葉、正しいかもしれない……」

「え?」

「わたしは、卒業したらすぐにお嫁に行くことになっていたの。相手は自分の家よりも高貴な家の御曹司。政略結婚ね」

 ため息まじりに話を進める。

「わたしは、相手の家への贈り物。良い状態で受け取ってもらうために、有無を言わさず磨かれていた……。贈り物をほめたり、怒ったりする人はいないから」

 そうか。あれもこういう意味だったんだ、とつぶやき、語りを続ける。

 書割が変化を始める。絵の中には、応接間のような場所に座る四人の男女。両親が奥に、手前側にはジュリアとキリアが並んでいた。

「少し話が変わるのだけど……ジュリアさんにアイドルとしてスカウトされたあと、アイドルになることの許しをもらうために、彼女といっしょに両親のもとに相談に行ったの」

 あのときは、本当に憂鬱だった。きっと許可されることはない。なぜなら結婚が控えているからだ。

 キリアは当時を思い出しながら語る。

「ジュリアさんには、わたしの結婚のことをすべて話していたわ。それでも、彼女は『私に任せておいて』と言ってくれた。とてもうれしかったわ」

 デュラハンが心配そうに尋ねる。

「あの人たちと話せない状態だったのに、問題なかったの?」

「うん。問題は……なかったよ。ジュリアさんとともに、両親の前に座ったとき、とても緊張した。ちゃんと自分の気持ちを話せるかな。話せなかったら、彼女が何を言ってもどうにもならないかもしれない。そうなったら……」

 キリアは、めまいがした。言葉が途切れる。

「どうした? 体調が悪いのか?」

「大丈夫。そうなったら……、わたしも次兄みたいにしないといけないのかなって思っていた。それを考え始めたら、めまいがして、頭が痛くなって、口がからからになって、何も話せそうになかったわ」

「それで……、どうなったんだ?」

「両親に対して、ジュリアさんがすべてを話してくれた。スカウトの経緯や、アイドルになったあとの生活、、そして、わたしの思いまでも。わたしはうなずいたり、はいと答えたりしていただけだった……。すごく情けない気分になった」

 キリアは、右手で胸の鎧をぎゅっとにぎりしめながら、でも、と続ける。

「両親は、アイドルになることを許可した。許可だけでなく、すごいぞと称賛された。ほめられたんだよ。あの人たちにほめられたのは、それが初めてだった。そのとき、わたしはとても満たされたんだ」

 キリアは、鎧のすき間からのぞくぼろぼろの服を撫でながら、悲しそうに笑う。

「今考えると、両親がほめたのは、ジュリアさんというステータスのある人物に見込まれたことや、わたしがアイドルとして全世界で有名になれば、自分の仕事に有益になることに対してで、何より、『アイドル』という申し分のない『習い事』を始めて、後に控える名士との結婚に箔がつくと算段したからだったんだよ」

 わたしがアイドルとなることを祝福したわけではない。話し終えたキリアはうなだれた。

 ああ、やはりわたしに、家族はいないんだ。

 キリアは家族に対してすでに絶望していたが、いまここで当時の状況を話したことで再び家族に対して失望した。

 何も言葉が出てこない。

 二人の間に、沈黙が訪れる。


 キリアが再び口を開く。

「久しぶりにあの人たちのことを思い出した。長い間忘れていて、もう、なくなったと思っていた。でも、なくならないんだね……。昔と変わらず、わたしに強く影響してくる。もう、なくしたいのに……どうすればいいの」

 デュラハンが思い切るようにキリアに語り始める。

「さっきも伝えたけど、ミレナ先生のことを話すときと、あの人たちのことを話すときでは、表情も、声のトーンも、からだの動きもまったく違っていたよ」

「そうなんだね。自分じゃわからないけど……」

「ミレナ先生といっしょにいたとき、あの人たちのことを考えていた? あの人たちの影響があった?」

 キリアはデュラハンの言葉に驚き、やがて納得したようにうなずく。

「なかった、と思う」

 デュラハンがさらに問う。

「なぜミレナ先生といっしょだと、あの人たちの影響がなかったんだ? ミレナ先生といっしょの時間には何があったの?」

 そうだ。先生といっしょだったとき、あの人たちの影響を感じなかった。先生と別れてから、だんだんとその影響が戻ってきた。だから、わたしはジュリアさんに対して、あの人たちに対するときと同じような失望をして、イドラの大釜に行き、デュラハンに負けて、今ここにいる。先生と過ごした時間に、いったい何があったのだろう?

 キリアは、沈黙し、深く考え始める。

 そのとき、デュラハンが呼びかけた。

「思ったことを口にしてみたらどうだ? ここには、あたしとキリアしかいないんだ。あたしは、キリアの言葉を間違いだって批判しないよ」

 キリアはデュラハンの言葉にうなずく。そして、心に浮かんだ考えを口にする。

「あの人たちとは、話せなかった。しかし、先生とはたくさん会話をした」

「ミレナ先生と、どんな会話をした?」

 突然、書割が淡く光り始めた。光の中に現れた絵には、中学生のキリアが真剣な表情で身振り手振りを交えて一生懸命語っている。隣にはミレナがいた。満面の笑みでキリアの話を聴いているようだった。

「歌やピアノ、ダンスの表現方法について話をした。先生が意見を言うときは、熱意がこもり上気した表情で、洪水のように言葉をあふれさせて、もう止まらないのかもと思うほどしゃべるんだ。でも、わたしが意見を話すときは、さっきとは正反対に、わたしが話し終わるまで静かに、わたしの目を見て、一言も逃さないように、じっと聴いてくれた」

 キリアは自分が笑顔になっていることに気づく。やはり、あの人たちの話と先生の話には違いがあった。

「最初は、話すときと聴くときのギャップに、ちょっと変な人なのかなと驚いたけど、先生が、音楽やダンスで自分を表現することがとても好きなこと、わたしの意見だけでなく、わたし自身も大切に思ってくれていることがわかって、うれしかったな。だんだん積極的に自分の意見を先生に伝えることができるようになったよ」

 キリアは先生とのエピソードをもっと話したくなった。

「少し幼稚だけど、改めて考えると、答えを出すのがとても難しい質問を、先生が問いかけ、わたしが自分の考えを言葉で表現する、という遊びもおもしろかった。学校で体験した嫌なことを先生に話すこともあった。先生は、わたしの話を一通り聴いたあと、思いもつかない考え方でアドバイスをくれた。先生はコミュニケーションを専門的に学んでいて、当時のわたしには、先生が何を言っているのか、さっぱりわからなかった。でも、わたしのことを思って、まじめに応えてくれているのはしっかり伝わってきた。先生から、心が温かくなる言葉や気持ちをもらっていたわ」

 デュラハンがキリアの話を要約した。

「ミレナ先生は、キリアの表現する力を育んでいたようだね。音楽やダンスの表現を他者とともに磨くこと、特別でないものに対する自分の考え方を整理して伝えること、キリアがまだ触れていない考え方を教えること。どれもが、これからキリアが何かを表現するときに困らないようにするトレーニングみたいだ」

 デュラハンが、続けて尋ねる。

「キリアはあの人たちと話したくなかったし、話せなかった。しかし、ミレナ先生とは話すことができた。ただ話すだけではなくて、自分自身のことを深く掘り下げるようなことまで話せていた。なぜ、こんなことができていたんだ? あの人たちとミレナ先生。何が違うんだ?」

「……先生は、ちゃんと聴いてくれたから、話せた。でも、あの人たちはまったく聴いてくれないから話せなかった。ただ、それだけ……」

 キリアは、今の自分の言葉を聞いて、手がかりをつかんだ。

 先生は、わたしの目の前に立っていた。わたしの目を見てくれた。わたしに触れてくれた。わたしを抱きしめてくれた。

 だから、わたしは話すことができた。

 あの人たちは遠いところにいた。わたしも遠ざけていた。わたしを見てくれなかった、わたしに触れてくれなかった。

 だから、わたしは話すことができなかった。

 キリアは大変なことに気づいてしまったショックで涙ぐみ、声がふるえていた。

「先生は、わたしを、わたしだと認めてくれていたんだ。だから、わたしは、わたしであることを不安に思わずに話すことができていた。でも、あの人たちといっしょにいたときは、両親の思い通りに強制される子ども、兄たちへの恐怖にふるえる妹、伏し目がちで口答えせず迷惑をかけない、いい子……。わたしは、わたしではなかった」

 キリアは両手をにぎり締める。全身に力が入り、背筋が伸びる。顔をデュラハンの方にまっすぐ向けて、目を見開いた。

「そんなわたしを、先生は見て、触れて、聴いて、わたしがいることを認めてくれた。だから、わたしは安心して、わたしであることを表現できていたんだ」

 からだの奥から力が湧いてくるようだった。

 その証拠に、からだがぽかぽかと温かくなっていた。

「ああ、そうか! そうだったんだ」

 湧き上がる熱い高揚のまま、自然に言葉が出ていた。

 必要なものは、わたしと、他人との関わり方。

 わたしがわたしであることに制限なんてない。そして、他人が自分の思い通りになることはない。

 わたし自身や、向き合う他人と葛藤し、それを乗り越えて、未来を臨めばいい。

 そのとき、キリアのからだ中から光があふれ出した。朝焼け色のアドミレーションの光だった。光はキリアの全身を包み込み、座っていたキリアを宙に浮かせる。

 光の中で、キリアがまとっていたひび割れだらけの鎧がじわじわ溶けながら消えていく。同時に、鎧の下に着ていたぼろぼろの服もかさかさと風化していくように、消えていった。一糸もまとわぬ姿になったあと、全身を包み込んでいた光は、キリアのからだに凝縮し、ロングスカートの真っ白なワンピースとなっていた。

 ふわりふわりと自在にゆれ動く。軽くて動きやすかった。着心地が良くて快適だった。

 キリアは、ゆっくりといすに着地する。

 視線を移すと、デュラハンは呆然と自分のことを見ていた。

「そうかって……、何がわかったの? 何が起こったのよ?」

 自分も、この変化には驚き、戸惑っていたが、ひびだらけの鎧とぼろぼろの服から解放されたキリアは、デュラハンに向かって毅然として話し始めた。

「何が起こったのか、わたしにもわからない。けど、自分のことがわかってきた」

「自分のこと?」

「わたしは、先生と同じようにジュリアさんに、わたしらしさを認めてもらいたかったんだ。でも、彼女のことを信じられなくなって、認めてもらうことに飢えるようになり、あの人たちに対して思っていた失望感や絶望感を彼女に対しても思うようになってしまった。そして、その気持ちに囚われたまま、デュラハンに敗北した。わたしのわたしらしさを信じられない心を、デュラハンに見透かされて、聖杯浸食されてしまった。そのあと、デュラハンとともに活動してきたが、未だに自信のない状態が続いている……」

 デュラハンは、顔をしかめながらキリアの言葉を聴き、するどい視線でキリアを見つめている。少し怖かった。その表情のまま、キリアの言葉をさえぎって、質問する。

「キリアは、これまでの自分の状況がわかった。それがどうしたの? だから、何なの?」

 キリアは続きを答える。

「だから……、わたしは、この今の気持ちのまま、いろんなことをやり直したいと思う」

「やり直す?」

「うん。もっと自分を大切にしたい。自分の好きなものを、堂々と他人に対して好きだと言えるようになりたい。他人の評価を一つの意見だと思えるようになりたい。他人に対して、先生と同じように接することができるようになりたい」

 キリアは、自分の胸に手を当てる。

「今まで、アイドルになる前はあの人たちに、アイドルになってからはジュリアさんに、認めてもらいたい一心でがんばっていた。でも、それは、他人ばかり気にして自分がなかったし、自分の行き先を他人の顔色で決めていたことと同じ」

 傷つき凍えた自分の心を、癒し温めるように包み込む。

「他人がどう思うかなんて自分では操作できないのに、勝手に期待して、勝手に失望して、疲れていたわ」

 キリアは、ふふっと笑い、楽しそうな笑顔で語る。

「そうだ。これからやりたいことを決めたい! 今まで自分が何をしたいか、なんて考えてなかった。マリアに憧れたときを思い出して、確認したい」

 デュラハンは、しっかりとキリアの話を聴いているようだった。しかし、表情は眉をしかめたままで、瞳には恐れのような感情が混ざっていた。

 デュラハンの様子にひるまず、キリアは続けた。

「わたしは、今まで自分を誰かに承認して欲しかった。そうでないと生きる資格がないと思っていたの。誰かの承認を得るために失敗することを恐れていたわ。でも、今はそう思っていない。どう生きてもいい、チャレンジしてもいい、失敗してもいい、完璧じゃなくていい。そう思えるようになれた。わたしがわたし自身であることを、誰かに預けてはいけないのね」

 キリアは一つため息をつく。自分のわかったことを一通り語り終えていた。

 すっきりした表情で、目の前に座るデュラハンを見つめ、「ありがとう、いっしょに話すことができてよかった」と感謝の気持ちを示す。

 ほんの数秒の間を空けて、「ああ」と、デュラハンが返事をする。

 話が途切れる。

 キリアはデュラハンの態度の変わりように戸惑う。どうすればよいか迷っているうちに、デュラハンがようやく口を開いた。

「この対話は、あたしがキリアのことを知るための時間だ。キリアはわかったことがあったようだが、あたしにはキリアのことがわからなくなった。もっと話さないとこの対話に意味がなくなってしまう!」

 デュラハンは、いらいらがよくわかる暗く冷たい表情と強い口調で、キリアに伝えた。

 キリアは混乱する。

 デュラハン……。わたしのとりとめのない話を、あんなに寄り添って聴いていてくれたのに。いつの間にか遠くに感じるようになってしまった。

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