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59・先へ

 これはまだ優希が一年の頃だ。

 入学から半年、制服の下に複数の痣を残す優希は、身を縮めながら窓の外を眺めている。

 教師の話を耳に流しながら、優希の心は強い圧迫感で押しつぶされそうな記憶で潰れてしまいそうだ。

 窓の外、地上に蓋をするような曇天が、自分の心を現しているようで、今にも雨基涙が零れそうだ。


「はいここテストに出るからしっかり復習しておくように。授業はここまで、日直」


 日直の掛け声に従って教師に挨拶をすると、皆、帰り支度をしていたのか、次々と席を立って教室を後にする。

 優希も、一刻も早く帰ろうと机に並べた教科書を鞄に詰めていき、席を立とうとしたところ、


「おい、なに帰ろうとしてんだよ」


 冷たい声に心臓が引き締められる感覚を味わった。

 座っている優希は、隣に立つ男の足から徐々に視線を上げていき顔を確認する。

 刺々しい金髪と威圧的な三白眼に、蛇に睨まれた蛙の反応で返した。


「おいおいまさか忘れてねぇだろうな。放課後、あ、そ、ぶ約束……してたよな?」


「え、そんな約束……それに今日はちょっと……」


「おいおい約束破んのかよ。こりゃ()()()()()だな」


 その言葉に優希の拒絶の声が喉元で消える。

 勿論優希にそんな約束した覚えはないし、彼の言う遊びは優希にとっては遊びではない。

 そんなことは分かっている。だが、彼のペナルティという単語が優希の身体に刻まれた痣を刺激して、脳に従うように逆命令してくる。


「わ……わかった……よ」


 渋々の声が優希から漏れる。

 満足そうに竜崎が教室を出ていき、優希も鞄を抱え込むようにして彼の後を追う。

 先に歩く竜崎。勿論逃げることは可能だ。竜崎は優希の返答を聞いた後、ちゃんと来るかどうかなど興味がないように、早い足取りで歩いていく。

 だが、それは決して優希を信頼しているわけではない。優希が言いなりになることを理解している、否、言いなりになるよう洗脳したのを自覚しているからだ。


 体育館。定期テスト一週間前である今はどの部活も休みなのか、広い体育館はとても静かだ。

 竜崎が引き戸を開けて、優希がその後ろから身体を縮めて入っていく。

 体育館には葉倉と水上が、バスケットボールを片手に立っていた。体育館の鍵をどうやって入手したのか気になるが、追及できないのが優希の現状。


「あれ、奈月と灰垣はどうした?」


「二人とも今日はパスだってよ」


「んだよ、付き合い悪ぃな」


 村光奈月むらみつ なつき灰垣はいがき穂乃果ほのか。この二人は竜崎達とよく一緒にいる女子生徒だ。灰垣についてはどこか一歩引いている気がするが、そのあたりの事情は優希に知る由はない。


「まいいや。さて……ゲームでもはじめっか」


 竜崎の笑顔は優希には恐怖でしかなかった。




 ********************




 体中の痛みを我慢しながら、優希は体育館の扉を閉めて施錠する。

 灰色の空から雨が降り、時間は五時半。一時間半程近くやられていたのかと、辛い苦しいを超えて可笑しくなりそうだ。

 妹が心配していると早く帰ろうとすると、身体の骨と筋肉の痛みが優希の表情を苦痛に歪ませる。


「お、桜木じゃん。こんな遅くまで……あ、いいや」


「き、鬼一君……」


 クラスメイトの鬼一翠人きいち あきとが、校門をくぐる優希に気付いて声をかけた。

 時間的にはまだ他の生徒がいても不思議ではないのだが、テスト前ということで部活はなく、今日はいつ降り出してもおかしくない天気で、もう教師以外は帰宅している。


 勿論優希も例外ではないが、鬼一は全てを察したように口籠る。

 逆に優希は鬼一がこんな時間まで何をしていたのか、気にならないわけでもない。委員会に入っているわけでもなく、中学の頃は剣道部に所属していたそうだが、今はどの部にも所属していない為、勝手に自主練という線はなさそうだ。


 だが、気にはなるが追及するほどの疑問でもない。

 帰ろうと足を進めると、鬼一が声をかけて再び足を止めた。


「お前も大変だな。丁度いい、テスト前で道場が空いてんだ、今からちょっと付き合え」


「い、今から……でも、もうこんな時間」


「一時間だけだって」


 この時、竜崎の影響が彼以外の場でも優希を苦しめているのを自覚した。

 拒絶という選択肢を、竜崎でもない相手にも消されてしまう。断ろうとすると、囁かれるように聞こえてくるのだ。


 ――これはペナルティだな……


 声が出ない。何をされたわけでも、何をされるわけでもない。そんなことは分かっている。鬼一翠人という人間を知らない優希が、彼に恐怖心を抱く理由などない。だが、それでも優希は、


「分かったよ……」


 そう答えるしか出来なかった。


 時間が経つにつれ、激しさを増す雨の中、優希は鬼一と共に剣道場に入っていった。

 中に入ってまず感じるのは一日二日使われていないのにもかかわらず、染み付いているかのように鼻につく汗臭さ。

 体育でもそうそう入ることのない剣道場の隅々に視線を巡らせる優希を置いて、鬼一は軽い足取りで入っていき、竹刀を一本優希に投げ渡す。


 咄嗟に投げられたそれを優希は掴むことが出来ず、身体にあたって床に落ちる。

 すぐにそれを拾い上げて首を傾げる優希に、鬼一は自らも竹刀を手に取って蹲踞する。


「一本……どこでもいいから打ち込んで来い」


「ぇ……どういう……」


「いいから……打ち込んで来い」


 流されるまま、一礼して道場に足を踏み入れる。

 湿度が高く蒸し暑さを肌で感じながら、優希は慣れない構えで対応する。初めて握った竹刀は意外に重く、剣先から床に引き寄せられるようだ。


「どうした? 構えたんなら状況は受け入れてんだろ? 早く来いよ」


「そういわれても……それになんで」


 お互いに防具は一切つけていない。打ち込めと言われてもド素人の優希が手加減などできるわけもないし、怪我をさせてしまう可能性は僅かだがあり、反対に優希は怪我をする可能性しかない。

 こんなことに意味があるとは思えないのだが、鬼一はそれでも、


「いいから……打ち込んで来い」


 その台詞しか吐かず、優希は呼吸を整えて、状況を飲み込めないまま、


「――――ッ!」


 目の前で構える鬼一との距離を詰める。

 振り上げた竹刀は、筋力の無さを露骨に表す。ブレた剣先は優希の頭の位置よりも下に下がり、竹刀を振るより竹刀に振られるといったところだ。

 鬼一は振り下ろされる竹刀を弾き、優希は手を抑えて、竹刀は宙を舞って優希の背後で竹の音を響かせる。


「はぁ……握りが甘い、腕の力がない、素質もくそもあったもんじゃない……そうだ、これからお前放課後ちょっと付き合え。俺がお前を鍛えてやる」


「きたぇ……どうして?」


「竜崎にいろいろされてんだろ? だから俺が鍛えてやろうって言ってんだ」


 その言葉が救いに思えたのは一瞬だけだということを、当時の優希に知る由は無かった。




 ********************




 数分前の喧騒が嘘みたいに静寂が包み込んでいる。崖下から聞こえる魔族の租借音も消えて、今ではすっかりおとなしい。

 上では戦闘が落ち着いたのかと思いながら、優希は水蓮石の僅かな窪みに指をかけて断崖を登っていく。

 そんな優希が崖から顔を出すとまず迎えたのは、全員の危惧な表情。その表情が何の答えを待っているのかは容易に想像がつき、優希は無言で顔を横に振る。


「そう、か……」


 全員の表情が一気に暗くなり、優希に手を差し出す皐月の表情はどこかで見た悲壮の顔。

 彼女のこの表情を見たのは二度目で、同じような表情を作るのも二度目だ。


 重い空気が漂うのは当然だ。何せ友人、仲間が死んでしまったのだから。皐月ですらこの表情を浮かべるほどならば、鬼一たちは更に悲しいに決まっている。だが、


「先へ進もう。帰り道が塞がれた。一夏を弔うのはここ出てからにしよう」


 人の死に慣れてしまった。という訳ではなさそうだ。彼は彼で悲しみや悔しさといった感情を抱いている。だが、リーダー的役割を担う鬼一がその感情を晒してしまえば、誰も前に進む人がいなくなる。だからこそ、鬼一は言う。先へ進もうと。


 それと同時に、鬼一の瞳に覚悟のようなものが感じ取れた。それは彼の持つ目標に日向一夏の蘇生も加わったからだろうか。


「帰り道が塞がったって……」


 嘘で所と言わんばかりに布谷が振り返る。

 二つに斬られたオクトフォスルの死骸の片割れが、どういう訳か移動して入り口を綺麗に塞いでいる。


 この状況をすべて理解できるのは一人のみ。

 誰一人それに気づいていないのが、白髪の少年に追及しない時点で確認できた。


 優希が所持していた魔石は、ほんの僅かな間だけ、死んだ魔族を操るものだ。

 オクトフォスルが生命活動を停止した時、その肉体から豎子となるオクトフォスルが出現することは知っていた。

 鬼一達がその豎子に気を取られている間、優希は魔石を使ってオクトフォスルの遺骸を帰り道を塞ぐように移動させた。

 動かせるのはほんの数秒、一度使えば効力を失う上、魔族を操るなど獣使で充分。用途があまりないにもかかわらず、かなり高価なので、二度と使いたくない代物だ。


「翠人でも斬り刻めないの?」


「はっきり言って無理だ。今の状態じゃ傷付ける事すら出来ないし、回復したとしてもアイツを斬るほどの大技は後ろの水蓮石に傷が付く可能性がある。コルンケイブで生き埋めにはなりたくないだろ?」


 ここでの選択肢は先へ進むしかない。

 コルンケイブは入り口が複数存在する。勿論、それぞれ離れているため結局奥まで行かないといけないのだが、来た道が塞がれても出れないというわけではない。


「ジーク、引き続き案内を頼む」


 コクリと頷いて、先頭を行く優希。

 少女の背後からの視線に気付くことなく、優希は水蓮結晶を辿って行った。


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