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58・オクトフォスル

ブックマーク300件越えありがとうございます。

まだまだ未熟物ですが、楽しんでいただけるよう頑張らせていただきますので、今後もよろしくお願い致します。



 そいつは水蓮石の中だろうが、大気の中だろうが泳ぐように優雅に振舞う。

 黒い触腕には異様に光る青い文様。水蓮石と同じ光を放っているそれが、見た目の美しさと同時に、血が凍るような圧力を感じる。

 オクトフォスルは自分を囲む眷属たちを敵と認識し、目前の鬼一を睥睨する。

 優希達は四方に散らばったおかげで全員が前衛の立場となっている。


「陣形を整える。一夏行くぞ!」


「おう」


 鬼一の声を引き金にオクトフォスルの触腕が、挟み込むように迫る鬼一と一夏に襲い掛かる。

 両手に木刀を握り走る一夏をオクトフォスルの触腕が薙ぎ払うように襲い掛かるが、一夏は身体を捻って二刀の木刀を触腕に叩き込む。

 その体格差を無視して、弾かれた触腕は水蓮石の壁に叩きつけられる。その衝撃が振動となって優希達の足に伝わる。

 

 対する鬼一には三本の触腕で突き刺すように攻撃する。

 鬼一の軽い身のこなしはその攻撃を容易に躱し、触腕の一本を梯子にしてオクトフォスルとの距離を縮めていく。


 二人がオクトフォスルの注意を引き付けている間に、ばらけた優希達は集まり陣形を整える。

 優希とメアリーを後方にして、その前を皐月、花江、布谷の順で陣形を整える。

 弓兵である花江がオクトフォスルと直接対峙する二人を援護して、魔導士の皐月が治癒と防御、花江が支援系恵術でサポートする。


 オクトフォスルは花江と布谷の遠距離攻撃を二本の触腕で弾いて応戦しながら、自分の身体に近づく鬼一と一夏を残りの足で振り払う。

 一本の触腕を梯子にしていた鬼一は、オクトフォスルの眼に近づくと、オクトフォスルの触腕から水滴が浮かび上がり、


「――――ッく!」


 優希達を襲った水弾が触腕から打ち出される。

 咄嗟の事に鬼一は振り落とされて距離を取らざるを得なくなった。一夏も同様にオクトフォスルと距離を取る。

 だが、一度退けようともやはり自分が押されていることを理解したのか、一度流れを切り替えようとオクトフォスルは水蓮石の地面を潜る。


「くそっ、こん中じゃ俺達が手出しできないことを理解してやがんな」


 木刀で地面を叩いて舌打ちをする一夏。彼の木刀は特別製でそこらの刀より何倍もの硬度を誇る木刀だ。それでもまだ中心部とはかけ離れているこの場所の水蓮石には傷一つつかない。それはつまり水蓮石の中は完全に奴のテリトリーだ。

 まだありがたいのは透過率の高い水蓮石は移動するオクトフォスルを視認出来ることだ。

 

「陣形を崩さないよう気を付けろ」


 水蓮石の中を泳ぐオクトフォスルは美しいが、その巨躯と威圧感からの迫力は、とても鑑賞していられるものではない。

 地面を、壁を、頭上を優雅に泳ぐ。そして、オクトフォスルは優希達の頭上で移動を止める。


 天を仰ぐ鬼一達を水蓮石の中から睥睨するオクトフォスル。その巨躯が天を覆うとその迫力は血を凍らせる。

 そして、オクトフォスルは意を決したように頭上から鬼一達との距離を詰める。


「来るぞ!」


 全員顔を上げて深く構える。頭上の水蓮石からその姿を現したオクトフォスルの巨躯と大気がぶつかり轟音を生み出す。

 隕石でも落下しているかのような視覚と聴覚を占領する迫力に、全員の身体に緊張が走る。

 オクトフォスルの大きく長い触腕が鬼一達ではなく、側面の壁に伸びで突き刺さる。


 獅子奮迅の勢いを自ら殺すオクトフォスルの行動に全員の構えが少し浅くなる。

 あの頑丈な水蓮石を削りながら丁度広間の中央部で勢いが完全に死んだオクトフォスル。

 八方向に伸びた触腕がその巨躯を支える。元々空中を泳いでいたオクトフォスルが、今度は壁を支えに浮いている状態だ。

 真下にいる優希達から見れば傘をさされている気分だ。

 その異様な光景に全員が警戒しながらも状況を把握しようと脳を回転させる。

 そして、オクトフォスルの行動をいち早く理解したのは鬼一だ。


「瑠奈! 【魄楯】だ早く!」


 叫ぶ鬼一の声に驚いて言われるがままに身体が動く布谷は、杖で空に弧を描くとマナの壁がドーム状に広がり彼女を中心に優希達を覆う。

 そして、鬼一と一夏もその壁に入った。瞬間、


「なっ、重っ」


 最初に優希達を襲った水弾が今度は頭上から雨のように降り注ぐ。

 頭上で身体を広げるオクトフォスルが雨雲の役目を果たし、貫通力のある水弾を地面に撃ち放つ。

 いつも退屈そうな布谷が珍しく表情を強張らせ、亀裂が入るマナの障壁をどうにか保とうと踏ん張りを利かす。

 同じ魔導士である皐月も【魄楯】で入った亀裂を修復する。

 

 今度はただの水弾ではない。マナが含まれた貫通力の高い水弾だ。

 今回は鬼一でも斬ることは難しい。だからこそ、布谷と皐月に踏ん張ってもらうしかない。


「哀、ここから奴に矢で攻撃できないのか?」


 障壁と水弾のぶつかる音が轟音を生み出す中、鬼一が現状を打開しようと花江に提案するが、彼女は首を横に振る。

 

「無理。【魄楯】がこっちからのマナも防ぐからここから攻撃できるのは普通の矢だけ。でもそれじゃマナを含んだあの雨にやられてアイツに届く前に矢は粉々になる」

 早くこの状況をどうにかしないと二人の限界も迫る一方だ。


 はぁ、仕方がないな。


 その呟きを聞いたのは傍にいた優希だけだ。

 銀髪の少女が天に手を添える。


「おい、何を……」


 鬼一が突如動いた少女に声をかける。だが、少女は鬼一の言葉を無視して、


「私は雨が……嫌いだ」


 彼女の手から発せられる暴風。それは降り注ぐマナの雨を弾き飛ばしてオクトフォスルの身体を下から抉る。

 断末魔を洞窟に響かせるオクトフォスルは再び頭上の水蓮石に身を潜める。


「逃げられたか……」 


「おい、なんだ今の……」


「そんなことは後だ。次来るぞ」


 糾弾する鬼一にメアリーはオクトフォスルに注意を向けるように仕向ける。

 心のしこりを残しながらも鬼一は目前の敵に集中する。

 

「水蓮石の中ではアイツもこっちに攻撃を仕掛けられないみたいだな」


「なら今のうちに先に進むか? この場所じゃなきゃ奴も思う存分行動できないだろうし。細い道ならアイツに攻撃も届く」


 一夏の提案を思案するがそれは良い方法とは思えない。なぜなら先に進んだ場合、他のオクトフォスルだけでなく他の魔族とも同時に戦闘しないといけなくなる可能性がある。

 オクトフォスルだけでこのありさまなのに他の魔族など相手にしていられない。


「ここで仕留めるしかないか……なぁ、瑠奈と西願寺の【鎖縛】でどれくらい奴の動きを封じれそうだ?」


「……もって十秒だね。あたしとさっちんのマナを全部使っても完全に動きを止めれるのは十秒。そこからだんだん力が弱まるから、アイツが完全ん位自由になるまでの時間は三十秒ってとこ」


 こんな状況でもルーティーンの要領で飴を口に含んで鬼一の問いに答えた。

 魔道士の恵術【鎖縛】を使用できる皐月と布谷が二人がかりでオクトフォスルを抑えたとしても動きを遅らせていられるのは三十秒。この短い時間に鬼一は勝利を確信する。


「三十秒? 五秒で十分だ」

 

 正直これはまだ使いたくなかったと小声でぼやく鬼一。

 ただそんなことも言ってられないと、今にも頭上から水蓮石を抜け出して、先と同じ攻撃を仕掛けようとしている。

 

「タイミングは任せるねー。さっちん準備オーケー?」


「えっあ、うん。何するか分からないけど、取り合えず鬼一君の合図で【鎖縛】を仕掛ければいいんだよね?」


 皐月の確認に布谷は軽く肯く。

 事の成り行きを優希は後方で見届けタイミングを窺う。



「……来たぞ!」


 掛け声は全員の構えを促して、頭上で同じように足を広げるオクトフォスルを注視する。

 八本の足を水蓮石に突き刺して、再び傘を差されたかのような圧迫感が全員を襲う。

 そして、これもまた同じように巨大な体躯からしたたり落ちる水滴。


 この攻撃が始まれば再び攻撃の隙は窺えない。

 だが、攻撃を放つこの瞬間は無防備。【鎖縛】を仕掛けるには十分すぎる。


「「【鎖縛】ッ!!」」


 二人の掛け声とともに、マナで繋ぎ合わされた鎖がオクトフォスルを縛り上げる。

 空気を揺らす断末魔が頭上の怪物から吐き出され、思わず耳を塞いでしまいそうになる。

 全身を縛り上げて動きと攻撃を防ぐ。だが、その体躯から想像される、否、想像より遥かに強い力に、二人の鎖はぎちぎちと音をたてて、今にも千切れてしまいそうだ。


「翠人、早く!!」


 普段のおっとりとした口調の布谷から珍しく激しめの声で名前を呼ばれ、鬼一の全身からマナが溢れていく。

 周囲の空気を揺らして、鬼一の力が跳ね上がっていくのを肌で感じる。


 剣士の練度が五千を超えると使用可能な専用恵術【覚醒】。

 三十秒間練度を十倍に引き上げる恵術で最強の強化恵術。鬼一の練度は5600。つまり、【覚醒】を使用した今の鬼一は――練度56000。


 鬼一は天を仰ぎ敵をその眼に定める。

 そして、優希の視界から彼が消えた時、僅かだが足元の水蓮石にひびが入り、衝撃が優希の全身に打ち付けられる。

 咄嗟に優希の視界も上に持ち上げる。そこにはすでにオクトフォスルとの距離を縮めている鬼一。

 柄を握り抜刀の構えでオクトフォスルの真下の大気をその身で割きながら、


「【騒速の太刀】!」


 鬼一の抜き身は光り輝く。視界を遮るそれが消えて、全員の視覚が機能した時、恐怖と威圧感を放っていたオクトフォスルの巨大な肉体は、二つに切り裂かれ、筋肉と内臓が外の世界に姿を現し、血の雨が全員の身体を濡らした。




 ********************




「おい翠人、斬り捨てる以外に倒す方法はなかったのかよ」


「あ? 別に倒せればなんでもいいだろ」


「そりゃアンタは上にいたからいいけどね、あたしたちは下にいたから魔物の血でべとべとなんだけど」


 一夏と花江に不満をぶつけられる鬼一は何故か一番の功労者でありながら居たたまれない表情。

 一応魔石によって血糊を落としはしたものの、それでも一度味わった感触は不快感極まりないものだった。


「それはそうと凄いね今の。鬼一君の天恵?」


「いや、あれは普通の恵術。そんなことより気になるのはお前なんだけど」


 皐月の質問を軽く返す鬼一は、銀髪の少女に目をやる。その瞳は不思議なものを見るような警戒心剥き出しのもので。


「さっきの技、ありゃ一体なんだ? 恵術じゃないのは確かだよな。マナの気配は感じなかったし、どの恩恵にもあんな恵術はないはずだ」


「…………」


 鬼一の質問にメアリーは銀色に輝く髪をいじりながら黙秘する。

 優希は状況を窺い庇う様子は見受けられない。勿論、彼女がオクトフォスルを吹き飛ばした力は恵術ではないことを知っている。

 

 権能の説明を受けた時、彼女は〖純白の園(ヴァイスガルテン)〗以外にももう一つの力があると話していた。

 彼女が使ったのはそのもう一つの力だろうと認識している。権能の正体を明かさないのは、これも言動の束縛されているのだと、今は追及するつもりはない。


 だがそれは、事情を知る優希だから何も聞かないが鬼一達は別だ。

 あれほど規格外な力を前に追及しないことなどあり得ない。彼女は決して馬鹿ではない。むしろ優希よりは後先を考える力があると認識している。

 彼女が力を使ったということは、それなりの言い分を用意しているはず。

 だから優希は一切口出すことなく、彼女の反応を待っていた。


 全員が彼女に視線を集める中、彼女は懐から何かを取り出した。

 それはメアリーが徹夜で作り上げ、見事に売れ残った悍ましい風貌の人形ティムル君。

 

「……なんだ? この不気味なにんぎょっふ!?」


 ティムル君を覗き込んで述べる一夏の感想はメアリーの腹パンによって遮られる。

 腹を抑え蹲る一夏を全員が無視して、彼女の言葉を待っていた。


「皐月には私が作ったと言っていたが、実はこの人形……神器だ」


「これが神器……俺には信じられねぇな。まぁ見たことないから何とも言えねぇけど」


 ティムル君を持ち上げいろいろな方向か物珍しそうに観察する鬼一。

 そんな彼の言葉に彼女は加えて説明する。


「これは神器“守護の呪人”持ち主の身に危険が迫った時、その状況を打開する反撃を相手に加えるものだ。ま、一度使うとただの可愛い人形になってしまうんだが」


 全員から可愛いのか? という心の声が感じ取れたのは、誤魔化すことが出来た証拠と受け取っていいだろう。

 よくもまぁそんなウソが噛まずに言えるものだと、実際一生懸命縫い上げていたことを知っている優希はただただ感心してしまう。


「さてと、そんじゃ先進みますか」


 腹パンから回復した一夏がそう言って先を歩き出す。

 全員もそんな彼の背中に続いて行こうとしたその時、優希の右手に握られた石が光出したのに気づく者はいない。


「――――ッ!」


 広場の大半を占めるオクトフォスルの死体。二つに分かれた死体の断面から筋線維が突如全員に襲い掛かる。勿論それは優希も例外ではなかったが、優希と傍にいたメアリーは皐月の【魄楯】に守られ、花江と布谷は鬼一の刀身の見えない謎の恵術で、繊維が分かたれる。

 だが一人、先頭を歩きオクトフォスルの死体から一番離れ、尚且つ完全に油断していた一夏は反応が僅かに遅れる。

 

「――――っな!」


 足首を繊維が絡めて、うねうねと生物の動きをする筋線維は一夏を投げ飛ばそうと動き始める。

 必死に抵抗を見せる一夏。筋線維をその木刀で叩き、切り裂こうとしても衝撃を吸収しているのか切れる様子はない。

 そしてついに一夏の足が地面を離れた時、もう一夏はやられるがままに振り回されていた。


「一夏ッ!!」


【覚醒】は強力だ。そんな恵術を鬼一が使いたくなかった理由はとても単純だ。

 恵術発動後の反動が大きすぎるからだ。たった五秒使用しただけでも自覚できるほどのはっきりとした倦怠感に襲われ、今の鬼一には布谷と花江、そして自分自身を守るのに必死だった。


 花江が弓を引いて一夏を助けようと試みるも、放たれて正確に射抜かれた筋線維は切れるどころか、その矢をはじき返してしまう。

 このままではまずいと全員が判断した時、事態はさらに悪化した。


「っうそ……」


 その光景を見た時、皐月から信じられないという感情が込められた一言が漏れてしまう。

 死体から生み出されるように小さなオクトフォスルが姿を現した。

 一夏は完全に混乱してその様子に絶望を感じる暇などない。


 自由を奪われ、助けを求められない一夏がこの状況を打破できる方法は一つ。

 一夏が縛られているのは左足首のみ。つまり、左足を切り落とせば解放される。

 だがそれは、言葉で表せるような決して単純なことではない。片足を失うという事実はこの緊急事態でも不安でしかない。


 一夏がその葛藤を繰り広げている中、他の全員は突如現れたミニオクトフォスルに苦戦を強いられていた。襲い掛かる筋線維は切り刻み、機能を無くしている。

 一体一体の力はオクトフォスル本体に比べれば可愛いものだ。だが、近接系恩恵者の鬼一は【覚醒】の反動で全力を暫くは発揮できない。

 対して花江、布谷、皐月の恩恵では現状自分の身を守ることで手一杯。


 それでも全員、一夏を助けようと何度も視界をずらす。

 だから、その光景は全員の心を動揺で揺らした。


 歯を食いしばり、涙を浮かべながら一夏の左足の膝から先は完全になくなっていた。

 血潮が空気を湿らせ、叫び声が全員の鼓膜を揺れ動かした。

 一夏はようやく相当な代償を支払って動きの自由を確保したのだが、彼の焦りがその行動を後悔させた。


「ぁああああッッッ!!」


 足を切断したはいいものの、空中で振り回された勢いが消えるわけはなく、運悪く一夏の身体は魔物が蠢く断崖の方へと放り出されていた。


「一夏!」


 鬼一が動くとそこへ立ちふさがるミニオクトフォスル。焦りが鬼一の形相を険しい者へと変えて、


「邪魔だ!!」


 【覚醒】使用後の身体を気力だけで動かして、立ちふさがるミニオクトフォスルを次々と切り捨てる。

 だが、鬼一を必要以上にミニオクトフォスルが囲い、勢いを幾多の犠牲で殺していくミニオクトフォスル。


 もう一夏の姿は見えない。崖の下へと落ちていいたのだ。だが、まだ諦めるわけではない。

 他の全員が必死に応戦して注意を引いてくれたおかげで、一人の少年がミニオクトフォスルの注意から逃れていた。

 白い髪を靡かせて崖の方へと走る少年。


 切り立った断崖の下は二段構えになっており、僅かに足場があった。そこに落ちているならまだ一夏は助かる。

 一夏の落下一からして、その足場に落ちている可能性は十分に考えられた。

 鬼一は優希をサポートするように、派手な恵術でミニオクトフォスルを自分へと集め、メアリーを除く他の三人も優希にミニオクトフォスルが向かわないように抑えていた。


 優希は迷うことなく崖を飛び降り、僅か、と言ってもテニスの半コートくらいの広さがある足場に着地する。

 そこに一夏の姿は――ない。


「…………すけ……れ」


 僅かに声が優希の鼓膜を掠めた。

 上が派手な戦闘で騒がしい中、その声はかなり近くで感じ取れる。


「……すけ……くれ……助けてくれ」


 声の方向へ振り向いてもそこに一夏の姿はない。だが、そこから下は崖である広場の境界に指先が四本、引っかかるようにそこにある。

 優希はそこに足を進めると、右腕を伸ばして左足の激痛を耐えながら、崖に掴まっていた一夏の姿。


「ジークか、助かったぁ。早く引き上げてくれ。失血で今にも気を失いそうで、全然力が入らねぇ」


 優希の姿を見て安心したのか、少し笑みを浮かべて余裕そうに振舞う。だが、彼の状態は決して余裕を見せつけれるものではなくて、その笑みもかなり無理をして作り上げている。


 早く引き上げて止血しないとそれこそ失血死で御陀仏だ。それに力が入らないと言っているが、水蓮石の断崖絶壁の下は足場など一切なく、大量の魔物が蠢く地獄。落ちたら失血ではなく喰われて死ぬだろう。


「ジーク、早く、してくれ。かなりきつい」


「……」


「おい、何してんだよ、早く引き上げてくれ」


「…………」


「なに黙ってんだよ。ちょっと今は冗談に付き合ってやれる状態じゃ……」


 そこまで言って優希はようやく動く。無言を貫いたまま、屈んで一夏を見下すように座る。

 そこでようやく、違和感に一夏は気付き始めて、恐怖を駆り立てる。

 フックのように引っ掛けている一夏の指。それに優希は手を伸ばし、四本の指の内、小指を外した。


「お、おい! 馬鹿何やってんだ! 冗談が過ぎるぞ」


「…………」


 薬指を外し、


「やめ、やめろ! ふざけんなよマジで!!」


「………………」


 中指を外して、


「ぁっ、ぁぁあ!!」


 死にたくないという必死さが、人差し指の一本に力を注ぐ。

 左手を引っ掛ける気力など残っていないが、それでも必死に食らいつく執念。

 だが、それも限界だ。徐々に指先が伸びていき、少しずつ一夏の身体は魔の巣窟へと引き寄せられていく。


 その様子を歪んだ笑みを刻み、無言で眺める()()の少年。


「な、おまっ…………」


 その顔を見た時、一夏の指は離れて、困惑と脳裏を縛る死の恐怖に表情を固めたまま、その身体は魔物の巣窟へと落ちていった。


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