省エネ生活。
後悔先に立たずとはよくできた言葉だ。
世界は、あまりにも簡単につくられていた。
幼い頃から、僕の目に映るすべてのものは、あらかじめ「正解」が用意されたパズルのようなものだった。
教科書の文字は一度読めば数式ごと脳に録画されたし、ピアノの鍵盤は先生の手の動きをなぞるだけで、翌日には寸分狂わぬ旋律を奏でられた。スポーツも、物理的な骨格の動きを頭の中でシミュレーションすれば、大抵の競技でトップに立つことなど造作もなかった。
「真面目に、やる気を持って生きること」
なんでもできたとしても、それが僕のモットーだった。周囲の大人は僕を「神童」だの「天才」だのともてはやしたが、僕自身はただ、目の前にある世界を真面目に生きていただけだ。やればできる。だからやる。それだけの、非常にシンプルな因果律の中で僕は生きていた。
だが、あの高校1年の春。
僕は生まれて初めて、「取り返しのつかない失敗」に直面した。
中学卒業という、わずか数ヶ月の物理的な離別。その空白の期間の中で、僕は気づいてしまったのだ。
幼稚園から中学校まで、ずっと僕の隣にいた、あの奥手で物静かな女の子。隣の家に住む幼馴染――水瀬詩織が、僕が完璧だと思っていた世界において「一番大切な存在」だったということにである。
――しかし、僕は何もできなかった。
声をかけようとしても、失敗した時のリスクが脳内を埋め尽くし、最適な1歩が出力されない。幼少期から「失敗」を経験したことのない僕の頭脳は、プライドを守るために硬直し続けた。そうして、誰に邪魔されたわけでもないのに、ただの1回も話しかけられないまま、高校の3年間が終了した。
もし、他の男に取られたのだとしたら、まだ諦めがついただろう。
だけど、彼女の周りには誰もいなかった。彼女はあの頃のまま、ずっと物静かで、手の届くところにいた。
誰も悪くない。100%、僕が臆病だったせいでチャンスを逃し続けたのだ。
その決定的な自己嫌悪が、僕からすべての「やる気」を奪った。何もかもを諦め、ただ息をするだけの置物になり、僕は静かに「神童」の肩書きから転落した。
そして、物語はあの失意の高校時代を終え、大学生になった現在から再び動き出す。
「――おい、起きてるか? 桐谷」
現実の音に引き戻され、僕はゆっくりと目を開けた。
大学の、階段状になっている大講義室。教授の退屈なモノトーンの声が、広い空間に反響している。
声をかけてきたのは、同じ学部の数少ない知人である佐藤だった。彼は手元のノートパソコンを叩きながら、焦燥感を顔ににじませている。
「悪い、次の時間のプログラミングの課題、もう終わった? 教授の講義が意味不明すぎて、みんな詰んでるんだけど」
「ああ……それなら、さっきの10分で終わらせて、提出しといた」
「は? マジで言ってる? お前、授業中ずっと寝てただろ」
僕はため息を抑えながら、自分のタブレット端末の画面を佐藤に向けた。そこには、教授が求めている要件を満たし、かつコードの無駄を極限まで削ぎ落とした、美しいプログラムが書き上げられていた。
「嘘だろ……。お前、なんでうちの大学にいるの? もっと上の、それこそ東京大学とか狙えたろ」
「受験の時に、願書を出すのが面倒だっただけだ」
僕は冷淡に言い放ち、再び机に伏せた。
佐藤の言う通り、僕は今、適当に選んだ家からなるべく近い中堅大学の、適当な学部に在籍している。
大学での僕の評価は一貫していた。「スペックは異常に高いが、何に対してもやる気がない男」。サークルには入らず、飲み会にも行かず、授業の課題だけを機械のように淡々と片付ける。
今の僕は、徹底した「虚無」の中にいた。
激しい絶望に苛まれているわけではない。ただ、毎日がひどく退屈で、色のない映画をずっと見せられているような、薄暗い感覚。
――やれば、大抵のことはできてしまう。
だけど、それをやったところで、僕の心が1ミリも跳ね上がらない。
かつて持っていたはずの「真面目に生きる情熱」の燃料は、いつの日にかの時に完全に燃え尽きて、今は灰しか残っていないのだから。
「じゃあな、佐藤。課題、頑張れよ」
「あ、おい! コードのヒントくらい置いてけよ!」
背中に響く声を無視して、僕は早々にキャンパスを後にした。
時刻は午後4時。5月の生ぬるい風が、僕の頬を撫でて通り過ぎていった。




