50.鬼と成る
『生成り』というのは、日本の伝統芸能である能に使用される面である。
一般的には『般若』と呼ばれることの方が多く、『葵上』や『道成寺』、『安達ヶ原』などの演目で使われていた。
生成り、あるいは般若は嫉妬や恨みを抱いた女性が生きながらにして怨霊になり、鬼となった存在である。
『葵上』では光源氏の寵愛を欲した六条御息所が怨霊となり、『道成寺』では旅の修行僧に叶わぬ恋をしてしまった女が鬼女となる。
『安達ヶ原』でも、人の生き胆の味を覚えてしまった女が鬼となり、旅人を襲って喰らうようになる。最終的には愛する我が子まで殺してしまうのだ。
『生成り』が普通の鬼と異なるのは、生きた人間が鬼となるという点である。
かつて高尾山に巣食っていた連中のように……本来の鬼は悪神であり、地獄の獄卒であり、生まれながらの魔性だった。
それに対して、『生成り』は人が化けたもの。
人間の悪意と恨みつらみの集大成である。
「お兄さんには話したと思うけど……私は退魔師協会とは別で『刀桜会』という組織に所属しているの」
華凛が空っぽになったオレンジジュースのコップを握りしめながら、説明をする。
「刀桜会は剣術家や武芸者の集まりで明治の頃に結成されたグループなんだけど、この組織の長年の宿敵として『鬼哭衆』という敵がいるの。この組織は元・人間の鬼によって構成されていて、刀桜会と何度も何度もぶつかり合っているんだ」
「鬼哭衆という組織については、私も聞いたことがあるわ。人を食って鬼になった邪悪な外法使いの集まりよね?」
「うん、それで合ってるよ。美森ちゃん」
華凛が頷いて友人に笑顔を向けるが、すぐにしかめっ面になる。
「鬼哭衆の創設者は元々は優れた剣客だったんだけど、力を求めるあまりに人を食って鬼になる道を選んだの。心に邪悪を抱えた人間を勧誘して仲間を増やして、人を襲ってるんだ。刀桜会も歴史をさかのぼれば、鬼哭衆によって友人や師を亡くした人間が仇討ちのために作り出した組織なの」
「私も連中のことは知っている。だけど……鬼哭衆は昭和の終わりくらいに壊滅したんじゃなかったかしら?」
信女が首を傾げて、不思議そうに言う。
どうやら、彼女もまた鬼哭衆なる組織について知っていたらしい。
話についていけてないのは、外国人であるロゼッタと退魔師事情について興味のない恭一だけである。
「うん、そうなんだけど……最近になって、海外で彼らが活動しているって情報が入ったの。私が最近まで国外に出ていたのも、アイツらを追いかけてたんだ」
「それで……何かわかったのか?」
「うん。鬼哭衆は海外に潜伏して力を蓄えていて、今は日本の東京に潜伏しているの。今年のクリスマスに大きな事件を起こそうとしているみたいで、それでみんなの力を借りたくて集めたんだ」
ようやく、依頼内容がハッキリとした。
鬼哭衆という鬼の組織の企みを打破して、彼らを今度こそ殲滅する。
そのために、若手ながらも力を持った退魔師達が集められたのだろう。
「刀桜会の仲間も動いてくれているんだけど……ちょっと人数が心もとなくてさ。退魔師協会にも警戒と協力を呼びかけて、手伝ってくれる人を募ってるの。鬼哭衆は本当に強いから、みんなの力を貸してくれないかな?」
「……私としては文句はないわよ。東京を守ることも武蔵賀茂家の役目だからね」
真っ先に、美森が依頼を承認した。
友人である華凛の頼み事を受け入れる。
「私も問題はない。悪鬼討伐は毘沙門天の化身である私の役目。少しも異存はないわ」
続いて、信女もまた同意を返す。
尼僧姿の彼女の瞳は闘志で燃えており、むしろ鬼との戦いを待ち望んでいるようだ。
「俺は……」
「受けましょう。迷える子羊を導くのは聖職者の仕事です」
恭一が言葉を発するよりも先に、まるで負けたくないと主張せんばかりにロゼッタが言葉を被せてくる。
おかげで、最後になってしまった恭一に一同の視線が集まることになった。
「…………やるよ。やるから、そんな目で見んな」
最初から断るつもりはない。
一億なんて大金を積まれているのだ。鬼退治くらいやってやろうじゃないか。
「女から金を貰うのは嫌いじゃないんだ……その依頼、謹んで受けてやる」
少しも慎んでいない様子で言って、恭一は鬱陶しそうに両手を挙げるのだった。
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