第一章 7
何かがヒルダに語りかけていた。
男性とも女性ともとれない声だった。
耳に聞こえる声なのか。それとも脳裏に直接響いているのか。それすら分からない。
ヒルダに分かっているのは、誰かが自分に向け話している。ただそれだけだった。
──起きなさい。ヒルダ・マルチフィローリアよ。
ヒルダは声に反応するように目を開けた。
だが目の前もあたり一面も真っ暗闇で、開けていても閉じていても差がない。ヒルダは何もない暗闇の空間へと語りかけた。
「……私を呼ぶのは誰ですか。私はヒルダ・マルチフィローリア。語りかけてくる者に私は答えます」
だから、どうぞ名を名乗ってほしい。
自分が寝ているのか立っているのか。現実にいるのか夢を見ているのか。さっぱり状況は掴めなかったが、対話を求める者には誰であれ答えるのがヒルダ・マルチフィローリアであった。
ところでヒルダの声は『相手』に届くようだった。
耳と脳裏に響く声が返答をする。
──貴女は『魔の力』を取り込んでしまった。微量ではある故に、貴女の自意識まで侵すことは恐らくない。しかし、影響はある。恐らく少なくはない。その『力』、あやまった方向へ使わぬよう、努々気をつけなさい。
(……?)
ヒルダは内心で首をかしげた。
この手の──この手のというのもアレだが、意味深長に訴えかけてくる声にしては説教くさいというか、人間味はあるというか、なんというか、そんな感じだった。
だからだろうか。どこかで聞き覚えがあるような無いような。そんな感覚を抱かされた。
それはともかくとして、ヒルダは謎の声に答えることにした。
状況は不明だが、謎の声は貴重な情報源でもある。
「『魔の力』というのはやはりあるのですね。カール・ロッシジャーニが取り込まれ、不本意にも私の身体の中に入り込んだ……。これは一体何ですか。貴女の口振りから察するに、制御可能ではあるが、人により制御下から外れることもあり、それを悪用する者もいる。その力自体は善悪を持たない。そういう力なのですか?」
ヒルダが矢継ぎ早に問いかけると、謎の声は、
──ともかく私は伝えましたよ。悪用したら承知しませんからね!
と、若干キレ気味に返された。
確かに理詰めで問い正しすぎた感はあった。自分が謎の声だったら同様にキレたかも知れない。
ヒルダが何かを返す間もなく、謎の声の存在が消失した感覚があった。
耳から繋がる脳の回線の一つが、これまで謎の声に使用されていた。その回線が未使用に戻った。そういう感覚だった。
待てと呼びかけても、正体を問いつめても、きっと謎の声は答えない。
ヒルダは無駄なことをせず、徐々に夢から覚めていくような感覚に、あるがままに身を任せながら、謎の声の正体について思い馳せる。
どこかで聞いたような声だった。
思い当たる節で最も近いのは、母アリシア・マルチフィローリアその人だった。
◇
そしてヒルダ・マルチフィローリアは夢から目を覚ます。
何だか最近、妙な夢をよく見るなあ。そんな風に欠伸をしながら。
「お、目が覚めたな」
「うわあっ!?」
目の前に男の顔があって堪らずヒルダは悲鳴を上げる。
咄嗟に寝たままの姿勢で、地を這う虫のように後ずさる。地面がごつごつの岩肌ではなく、石畳だったから出来た芸当だ。
後ずさりながら、同じく石造りの壁際に背がついたところで、ヒルダは我に返る。
ここは意味深長な夢の世界ではない。現実だ。
ヒルダの目の前にいたのは、真の勇者・アゼルだった。
アゼルは変人扱いされ憮然としたが「目が覚めたんなら良かった」と笑った。相変わらず笑うと子供っぽい男だ。
気を取り直し、状況の確認をする。
ヒルダたちがいる場所は更なる下層のはずだが、明確に人の手によるダンジョンの様相であり、通路や小部屋。明かりを灯す燭台も通路には完備されている。
天井も石畳だが、ちょうどヒルダたちの頭上だけ、石畳が割れて茶色い岩肌が覗いている。このフロアのすぐ上まで崩落が進み、もろともにヒルダたちが落下していき、石造りの下層フロアに到着した。
「確か私たちは、落盤に巻き込まれて、さらに洞窟の下層へと落ちていった。そこまでは覚えています」
「俺も同じだ。俺は真の勇者だが、まだ天変地異をいなす術を学んでない。お前も助けてやりたかったが、無理だった。すまんな」
何故か素直に頭を下げられる。
自分が真の勇者で、困っている人を救うのは当たり前と信じて疑わない者の対応だった。
別段その点は気にしていない。
ただ単に私がロサ・マルチフローラの要人だったから起こったこと。
そう伝えようとしたところで、ヒルダはある点に気付く。
「あら。アゼルさん貴方ケガをしていますね」
「……ああ。崩落の時に打ち付けたらしい。むしろこの程度でよく済んだって話かもしれねーけどな」
バツが悪そうにアゼルは顔をしかめる。アゼルは戦士としては軽装だ。防具に覆われていない右腕の服の布地が破け、血が滲んでいた。
この程度でケガするなんて格好悪い。だから看過されたくなかった。そんな子供じみた内面が透けてヒルダは内心でくすりと笑う。
確かに盛大に崩落したにしては、二人とも目立って埃や泥にまみれているだけで、大きな傷は無さそうだ。奇跡的といっていい。
しかし、分けても命の恩人のケガを目の当たりにし、特別な力などなくともケガの手当くらいはしてやりたい。この子供じみた自称『真の勇者』のために。そんな気持ちがヒルダの中で強く膨らんだ。
その時のことである。
キイイィィィ──ン……。
「うっ」
ヒルダは突然の頭痛に襲われる。頭蓋の内側に高音が響くようなアラガいがたい痛みだった。
アゼルが心配し話しかけてくる。だが返す余裕はなかった。
頭痛から逃れようと、手で頭を押さえる。その時にヒルダは気付いた。
「……おい。お前の手、ヘンな色に光ってるぞ」
アゼルもその異変に気付いた。
そう。ヒルダの手が薄ぼんやりと、淡く紫色に輝いていたのだ。
気がつくと頭痛は気にならなくなっていた。
反面、紫色に淡く輝く腕が、感覚を失ったように言うことを聞かなかった。ロサ・マルチフローラは北国であり季節により雪が降る。そんな日に外で過ごすと寒さで四肢の感覚が薄くなる。そういう感じだった。
(これは……あるいは、もしかすると)
一抹の予感にヒルダは突き動かされる。
今さっきの意味深長な夢は今この状況を指していたのではなかろうか。
ヒルダはその予感に突き動かされるがまま、淡く紫色に光る手を、アゼルに向け差し出した。
「ちょ、おま、何しよとしてんねん!?」
ヒルダにその意図はないが、明らかに不穏なので、アゼルは狼狽する。
狼狽えて言葉遣いもおかしくなっているが、ヒルダは頭痛の名残か意識もぼんやりとし、ただぼんやりと、したいように行動しているだけだ。
ヒルダがかざした手がアゼルのケガを負った右腕のあたりに添えられると、淡い紫色の輝きが一層強くなった。
アゼルも当のヒルダも驚くが、もはや引っ込みはつかない。
ただあるがままに身を任せるしかない。
ヒルダの手の光が、アゼルのケガを負った部分に乗り移るように、ぼんやりと光り輝いていく。
すると──。
「傷が……治癒していく」
「おお。すげえなこりゃ。痛みも引いていくぞ」
血も止まったと、狼狽えていたアゼルは小躍りして喜んでいる。破けた服はそのままだが、身体に負った傷は、僅かな跡も残さず治癒してしまった。アゼルは嬉々として腕を動かす。治癒が完了し、淡い紫の光も同時に消えた。
「いやあ見直したぜ姫さんよ。おめえ魔術師だったんだな。でなけりゃ治癒の魔術が使えるはずがねえ」
「え、ええ。ロサ・マルチフローラの王族として、魔術も嗜む程度には会得しています」
言うまでもないが嘘だった。そんな力をヒルダは持たない。
ただ脊髄反射的に嘘をついただけだ。
(この力……これは一体。あの意味深長な夢と符号させるなら、これは『魔の力』に他ならない。けど)
さてこれからどう行動するかと、傷も癒えたからか、何故か楽しそうに周辺を観察するアゼルに対し、ヒルダはしきりに考え込む。
この力。私が会得してしまった力は一体何なのか。
知りたい。どうしても知りたい。
そう、ヒルダが強く願ったその時のことだ。
キン、と鋭い頭痛が走った。ヒルダは顔をしかめるが一瞬のこと。
次の瞬間。またしても信じがたい出来事が発生した。
「え?」
「な、な、なんだこりゃあ!?」
石造りの洞窟の通路に、大量の文字列が一気に浮かび上がった。
石壁は文字通り石を切り出したもの。固いもので小突けばひび割れるし跡もつく。何なら文字を刻むことも出来る。そのようにして浮かび上がったのだった。
ヒルダとアゼルは面食らいつつ、壁面に浮かんだ文字列を確認する。
得体の知れない文字列がそこには記載されていた。
【パラメータ】
名前:アゼルスタン・アゼルノーヴェ
性別:男
職業:真の勇者
レベル:28
力:103
素早さ:75
体力:125
魔力:27
運の良さ:66
最大生命力:219
最大魔力量:0
攻撃力:183
守備力:128
<装備>
金属剣(+8)
真の勇者の服
<特技・魔術>
※不明
名前:ヒルダ・マルチフィローリア
性別:女
職業:ロサ・マルチフローラ王女
レベル:1
力:9
素早さ:31
体力:26
魔力:42
運の良さ:15
最大生命力:24
最大魔力量:37
攻撃力:9
守備力:40
<装備>
王女のドレス
<特技・魔術>
魔の力(治癒)
魔の力(パラメータ可視化)
ヒルダとアゼルは、何度も何度も、食い入るように壁面の文字列を読んでいた──。