第51話:始まりの足跡
中央大陸は、気が遠くなるほどに広大だった。
いや、正確に言うなら、この異世界そのものが異常なまでに広いのだ。
広すぎる、と言ってもいい。
俺たちがかつて足を踏み入れ、それなりに長い距離を踏破したつもりになっていた『イントゥーラス』の土地。
それが大陸全体から見れば、わずか二十分の一にも満たない極小の領域に過ぎなかったという事実を、俺はつい先ほど知ることになった。
その事実を突きつけられた瞬間、胸の奥底から得体の知れない違和感というか、奇妙な悪寒のようなものが込み上げてくるのを禁じ得なかった。
「荷物の準備はすべて整いましたか? 水や食料の備えも抜かりはありませんね。」
静寂を破るようにして声をかけてきたのは、気丈な仲間の一人だった。
「ええ、すべて揃っています。心配いりませんよ。」
そう答える俺の胸のうちは、実のところ、いまだにぽっかりと大きな穴が開いたままだった。
アレクシアが俺たちの前から姿を消してしまった。
その事実がもたらした衝撃は、想像以上に俺の心を激しく打ちのめしていた。
その喪失感と絶望の深さは、同じく仲間であるフレルにも伝えてあった。
最初は目の前が真っ暗になるほどの悲嘆に暮れ、絶望に身をやつしたものだが、俺たちはただ立ち止まっているわけにはいかなかった。
必死に心を奮い立たせ、どうにかこうにか持ち直したのが今の状態だった。
「ねえ、先生。私たちはこれから、一体どれくらい歩かなければならないの?」
不安を隠せない様子で、小さなフレルが俺を見上げて問いかけてきた。
事前に聞いた話では、目的地に到達するまでにおよそ『二年』もの歳月がかかるという。
まだ幼さの残るフレルの足では、途中で限界を迎えてついて来られなくなる可能性が極めて高かった。
俺はあらかじめそれを防ぐため、彼女が疲れて足が止まりそうになったときは、少しずつでも背中におんぶして歩いてやろうと心の中で決めていた。
「二年……それくらいの期間は、どうしても歩き続ける必要があります。」
俺が静かにその現実を告げると、フレルの顔はみるみるうちに絶望へと染まっていった。
どうやら彼女は、単に『ヌラベル地域』へ向かうという断片的な情報だけを聞いて、ここまでついてきてしまったらしい。
世間知らずな、哀れな子だ。
これから待ち受ける過酷な旅路の全貌を、今になってようやく突きつけられたのだから無理もない。
「この門を一歩でも跨げば、そこからは二年間にも及ぶ果てなき旅の始まりです。」
ティアが、まるで決戦の舞台にでも赴くかのような悲壮な決意を秘めた声で言った。
だが、俺の心は不思議と落ち着いていた。
腹はすでにくくっている。
「う、うう……。」
フレルの小さな頭の中は、今や完全に混乱し、思考の糸がこんがらがっているようだった。
行くべきか、それともここで引き返すべきか。
彼女の心の中で二つの選択肢が激しく火花を散らしているのが見て取れた。
しかし、実のところ選択肢など最初から一つしか存在しないのだ。
彼女の運命はすでに決まっている。
もしここで旅立つことを拒めば、彼女はこの見知らぬ土地に、たった一人で置き去りにされるしかないのだから。
「さあ、出発しますよー!」
ついに俺たちは、外界へと足を踏み出した。
果てしなく続く、長く、険しい、気が遠くなるほどの旅路が今、幕を開ける。
とにかく、自分にできる最善を尽くすしかない。
一歩踏み出すたびに、足元でカサカサと乾いた音を立てる脆い土の感触が伝わってきた。
昨晩、このあたりには雨が降ったのだろう。
もし、あのじゃじゃ馬なアレクシアが今もここにいたならば、間違いなくこの湿った土を手で一掴みして、悪戯っぽく笑いながら俺の顔めがけて投げつけてきたに違いない。
そんな光景が、見なくても容易に想像できてしまう。
そんなくだらない感触すら、今は少しだけ恋しかった。
「今はまだ少し肌寒いですが、昼時にもなれば猛烈な暑さになるでしょう。一日につき、死なない程度にギリギリを見極めて移動することにします。」
その言葉の真意を、俺は瞬時に理解した。
要するに『死ぬ一歩手前まで限界まで酷使して移動する』という意味だ。
なぜ俺がそんな言葉の裏を読めるのかといえば、かつて元の世界で『不良』と呼ばれていた連中に、嫌というほど理不尽なしごきを受けてきたからだ。
あのときの経験が、こんなところで役に立つとは皮肉なものだ。
『おい、死なない程度に加減して殴ってやるからよぉ……そら、サッカーキック!』
耳の奥底で、当時の忌々しい声が今でも鮮明に蘇る。
俺を執拗に痛めつけたあの男の名前は、たしかタツキ・ムヘイといった。
元の世界で今も生きているなら、もう四十代の小汚いおっさんになっている頃だろう。
ああ、本当に腹が立つ。
せいぜい歳をとってから過去の所業を悔い改め、惨めにのたれ死んでしまえばいいのだ。
そんな仄暗い呪詛を心の中で吐き捨てる。
「ユウカワ! あの馬車、絶対に捕まえて乗らなきゃダメです!」
ティアは、本当に切羽詰まった状況に陥ると、語尾が少し崩れて懇願するような独特の口調になる。
その必死な声に、俺はハッと我に返った。
「ば、馬車! そこの馬車! ストップ、止まってくれ!」
俺の必死の呼びかけに、馭者台の男が不機嫌そうに手綱を引いた。
「……何人だ。」
「三人だ。」
しまった、焦るあまり、初対面の相手に対して完全にタメ口を使ってしまった。
ただでさえ体格의いい強面のおっさんだ。
怒らせたら面倒なことになる。
「あ、すみません。三人です。乗せていただけますか。」
馬車のおっさんの額に、怒りの青筋がウネウネと浮き上がって暴れ出す前に、俺は慌てて丁寧な言葉遣いへと訂正した。
もしあのまま不躾な態度を続けていたら、某奇妙な冒険漫画の打撃音さながらに、文字通り『メメタァ!!!』とでも鳴り響きそうな強烈な一撃を食らわされ、粉砕されていたかもしれないところだった。
危うく大惨事になるところを、俺의機転によってどうにか回避したのだった。




